作品タイトル不明
第百十四話「長崎暗闘編―数字という名の砲火、語学という名の剣(後編)」
一
翌朝。
長崎・油屋町の大浦屋は、深い藍色の闇から目覚めようとしていた。寝静まった街に、重い大戸を繰る「ガラガラ」という音が響く。開け放たれた入り口から、湿り気を帯びた朝気がひんやりと流れ込んだ。
薄暗い店内に立ち込めるのは、油樽の重厚な匂いと、朝露を吸ったばかりの瑞々しい茶葉の香り。黒光りする床は、わずかに差し始めた東の光を鏡のように跳ね返している。
そんな油屋の奥座敷の空気は、正常ではなかった。
結局、一睡もできぬまま夜を明かした惣之丞は、何度も庭の方を振り返っては、微かな物音に肩を強張らせていた。隣では長次郎が、届いたばかりの冷めた茶をじっと見つめている。龍馬だけが、腕を組んで壁に寄りかかり、目を閉じていた。
「——おい、誰か来るぜよ」
惣之丞が弾かれたように立ち上がった、その瞬間だった。
襖が音もなく開き、朝の光と一緒に、一人の男が滑り込んできた。
着物は泥と油にまみれ、袖口は無惨に裂けている。頬や額には、昨夜の乱闘の激しさを物語る生々しい擦り傷がいくつも走っていた。
だが、その男——高田は、いつもと変わらない薄い笑みを浮かべ、軽く片手を挙げてみせた。
「……ただいま戻りました。随分と心配をさせてしまったようで」
「高田殿……っ!」
惣之丞の口から、悲鳴のような声が漏れた。気がつけば、長次郎が真っ先に駆け寄り、高田の泥だらけの肩をがっしりと掴んでいた。その目は、見る見るうちに真っ赤に潤んでいく。
「な、なにを言ってるんじゃ高田殿! 五体満足か? どこぞ撃たれてはおらんのか!?」
「ええ、この通り。少々手荒い歓迎は受けましたが、骨の一本も折れちゃいませんよ」
「 美時(みごと) に戻ってきて、何よりじゃ!」
それまで頑なに目を閉じていた龍馬が、大きな体を揺らして歩み寄り、高田の背中を、痛いほど力任せに叩いた。ガハハと笑う龍馬の瞳も、心なしか潤んでいるように見える。
「いやぁ、おまんが戻らんと、せっかくの帳簿の写しも宝の持ち腐れになるところじゃったきに! おい、慶さん! 今夜は祝いじゃ、とびきりの酒ば持ってきてもらいとうせ!」
「おうよ! 飲もう、浴びるほど飲むぜよ!」
惣之丞が涙を袖で拭いながら叫び、長次郎も深く何度も頷いた。張り詰めていた座敷の空気が、一気に歓喜へと塗り替えられていく。
ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃、高田の傷口に手際よく薬を塗っていた惣之丞が、ふと手を止めて顔を上げた。
「ところで高田殿。龍馬から、上手いこと奉行所と話をつけたと聞いたが……一体どうやってあの場を切り抜けたんじゃ? 相手はあの、堅物でならす長崎奉行所の捕り方じゃろう」
長次郎も、興味津々といった様子で身を乗り出す。
高田は、薬の沁みる痛みに少しだけ眉を顰めながら、ぽつりぽつりと昨夜の顛末を語り始めた。
「……まぁ、まともに身元を明かせば、今頃は海の底か牢の中でしたでしょうね。ですから、囲まれた瞬間に、思いきり腹を括りまして。懐の手形をこれみよがしに見せつけながら、堂々と名乗ってやったのです。『——自分は、出島のグラバー氏から密命を帯びた、特別なエージェント(代理人)である』と」
「えーじぇんと?、どこの異国の言葉かのぅ…」
「英語です。以前、姫様から教えていただきました」
「グラバーの……エージェント、代理人!?」
長次郎が素っ頓狂な声を上げる。
「そんな言葉を出されたら…よりそれっぽう見えるのう」
関心する龍馬。
「そうでしょう」
高田は楽しげに目を細めた。
「ええ。驚く捕り方どもを鼻で笑いながら、さらに畳みかけました。『現在、グラバー氏と奉行所の間で、九州の茶に関する極秘の取引が進んでいるのは知っているな? 自分はその交渉の最重要の使者である。もしこの細身の体にこれ以上指一本でも触れてみろ。グラバー氏の不興を買い、すべての利権の取引は白紙になるが……その責任、お前たち末端の役人で取れるのか?』——とね」
「ほう……! それで奉行所は?」
龍馬が、面白くてたまらないといった様子で身を乗り出す。
「向こうは真っ青ですよ。今、異国と摩擦を起こせば首が飛ぶ。おまけに、上層部が裏で進めている『お茶の件』という生々しい言葉が飛び出したものですから、誰も手出しができなくなった。確認が取れるまで、奉行所の奥で『丁重に軟禁』という扱いになりましてね。あとは夜更け、役人どもが確認の使者を走らせて右往左往している隙に、文字通り煙に巻いて、裏窓から抜け出してきたというわけです」
一瞬の静寂の後、座敷にどっと大きな笑い声が弾けた。
「ひぇ〜っ! 高田殿も随分と大胆なハッタリをかますのう! 奉行所の連中、今頃はまだグラバーの屋敷の前で右往左往しちょるぜよ!」
「まっこと、やるのう……! まさか奉行所の『後ろ暗さ』をそのまま盾にするとは、頭が上がらんぜよ」
長次郎が腹を抱えて笑い、惣之丞も呆れたように、しかし誇らしげに相好を崩した。
「わはははは! こりゃあ痛快じゃ! 役人どもの面拝みたかったぜよ!」
龍馬の豪快な笑い声が、朝の長崎の空へと高く響き渡っていった。
二
翌日の夕刻。
小曽根乾堂の邸宅の奥座敷に、男たちが集まっていた。
小曽根邸の奥座敷は、外からは全く見えない。庭の石組みに囲まれた、静かな空間だ。昼間の光も届きにくく、油燈の明かりだけが、六人の顔を照らしていた。
龍馬と長次郎と小野寺。
そして——中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎の三人が、招かれていた。
楢林栄左衛門が、この席を設けるにあたって、裏から手を引いていた。
「若い者たちが話を聞きたがっている」という一言で、三人を小曽根邸に呼んだ。奉行所に筒抜けになることを、楢林は自ら防いでいた。
乾堂は、奥の部屋で月琴を爪弾いている。この邸宅が、外からの盗聴を防いでいることを、龍馬はすでに知っていた。
三人の通詞が座るなり、中山が口を開いた。
「坂本どんで、ござりますな」
「そうながじゃ」
「楢林どんからの紹介と、小曽根どんのご配慮のなかかったら——」
中山は、刀の柄に手をかけていた。
「ここにはきんしゃい、せんでした」
「分かっちゅうきに」
「なして、うちたちを?」
龍馬は、三人を、順番に見た。
中山誠一郎。志賀親司。横山源一郎。
知性的な目。長年の訓練で鍛えられた、異国語への鋭敏な感覚。そして——その目の奥に、抑えきれない何か、燃えているもの。
龍馬は、懐から書状を取り出した。
糸子の書状だった。
叩きつけた。机の上に。
「読んでくれ」
中山が、その書状を手に取った。志賀が隣から覗き込んだ。横山が別の書状——帳簿の写しを受け取った。
龍馬は、しばらく待った。
三人の通詞の顔に、苦渋の色が走る。彼らは幕府に仕える身だ。
お上を裏切り、一歩間違えれば謀叛人としてお家断絶の危機にある。
「坂本どん……おいたちは、徳川の禄ば食む身ばい。いくら奉行所のやり方に腹ん立つと言うても、はい左様でございますかて、寝返るわけにはいかんとよ」
中山が、声を震わせながら言った。
それから——龍馬は、立ち上がった。
「おまんらのその立派な頭は——」
龍馬が、土佐弁で言った。声は低かったが、油燈の明かりの中で、その顔が、真剣そのものだった。
「異国の奴らに『はい、ここに署名をしてください』と伝えるためだけにあるんかえ!?」
中山が、顔を上げた。
「違うろう!」
龍馬の声が、一段、上がった。
「世界の奴らと対等に渡り合って、この国を守るための『頭脳(矛)』ろうが! おまんらは知っちゅうきに——今、フランスで何が起きているか! リヨンの絹が全滅しかかっちゅうことを! それを異国は日本に隠して、日本の生糸を不当に安く買い叩こうとしちゅうことを!」
志賀の目が、鋭くなった。
「……やっぱり、そがんやったか」
志賀が、低く言った。
「フランス商人ん焦っとる理由が、分かったばい。あの男たちのなしてあそこまで急いどっとか——本国んお蚕さまの死にかかっとるけんか」
「そうじゃ。そして——」
龍馬は、続けた。
「幕府の退屈な御用聞きで、一生を終えるつもりかえ! それとも——この会所の頭脳となり、おまんの語学で世界を相手に戦うか!」
中山が、書状を、しっかりと持ち直した。
その手が、わずかに震えていた。
「……お公家様じゃっとん?」
「そうじゃ。このお公家様が、この全部を企てしちゅう」
「お公家の——」
「信じられんか?」
龍馬が言った。
「じゃが、この書状を見てみぃ。リヨンの蚕病の情報、グラバーの裏帳簿の予測、複式簿記の仕組み——全部、そのお公家様が江戸から組み立てちゅうきに」
横山源一郎が、帳簿の写しと書状を、交互に見ていた。元勘定方の小野寺と、数字を確認し合っている。
「……この数字は、間違いなか。正しかばい」
横山が、静かに言った。
「上海相場と、グラバーどんの出しとる価格の差——これが証拠になるばい。完璧なフランス語の報告書にまとめれば、交渉の場で突きつけられるとよ」
「横山殿」
小野寺が言った。
「私と組んでいただけますか。帳簿の精査と報告書の作成を…」
「……構わんとよ」
中山が、志賀を見た。志賀が、中山を見た。
二人の視線が交わった。
乾堂の月琴の音が、奥の部屋から、かすかに聞こえてきた。
「坂本殿」
中山が、龍馬を見た。
「小曽根乾堂どんが、おいたちの身分と家族の安否ば保証してくれるて、楢林どんから聞きましたばい。朝廷の後ろ盾にあるというとは——それは、本当ですか?」
「本当ぜよ。乾堂殿がすでに、会所の長崎支部の印を刻んでくれちゅう。もし奉行所が動いたとしても、朝廷の盾は使えるきに」
中山は、しばらく目を閉じた。
そして開けた。
「……分かりました。心得ましたばい」
中山は、糸子の書状を、丁寧に折り畳んだ。
「うちは——天朝物産会所の顧問として、オランダ言葉ば使います。日本ば守るために」
志賀が、不敵に笑った。
「おいも最初っから、そのつもりやったばい。フランス言葉もドイツ言葉も、こがん窮屈な場所で腐らせるために学んだ訳じゃなか」
横山が、小野寺を見た。
「帳簿の精査から始めまっしょ。数字に嘘はつけんとよ」
三
それから数日が経った。
小曽根邸の離れに、通詞の三人と小野寺、長次郎が集まる夜が続いた。
表向き、三人は奉行所の通詞として、フランス商人とグラバーの間の通訳業務をこなしていた。しかし——その裏で盗み見られた密書が、夜更けに小曽根の屋敷へ密かに持ち込まれた。
志賀親司の手で、それらが翻訳された。フランス語。英語。プロイセン語が混じる、複雑な取引文書の束。
そのある夜、志賀が突然、翻訳の手を止めた。
「……見つけたばい」
長次郎が、顔を上げた。
「何をな?」
「グラバーどんとフランス商人の間の、密約文書ばい。ここば見てくれんね」
志賀はある一節を指さした。
「グラバーはよ——フランスに日本の生糸ば流すごたる約束ばしとっとさ。だけどもその一方で、おんなじ生糸ばイギリス本国の方に優先して回すちゅう約束ば、別んとこ(イギリス商会)に出しとるごたっばい」
「……つまり、どがんいうことかと言うと」
横山が言った。
「……つまり、グラバーはフランスにも、イギリス本国にも、おんなじ生糸ば二重に約束しとっということか?」
「そうながよ」
「そいはにゃあ……」
長次郎が言った。
「フランスとイギリスが、日本の生糸を巡って、裏でやりおういちゅうということじゃ」
「まさに、そがんたい」
志賀の目に、光が宿った。
「グラバーはよ、フランスの生糸パニックばイギリス本国には隠し通して、自分一人で日本の生糸ば横取りしよっち考えとる。そいばフランスは知らん……いや、薄々は感づいとるはずたい。やっけん、あがん焦っとるっさ」
部屋の中が、静まり返った。
それから——長次郎が笑った。
声を上げて笑うわけにはいかない。しかし、その目が笑っていた。
「志賀殿、こりゃあつまり——グラバーとフランスの間に、割れ目があるということながぜ」
「そがんたい」
「この割れ目に、わしらが入れるということじゃ」
「フランスに、グラバーの二重取りの証拠ば突きつけりゃ——フランスはグラバーば裏切って、会所の条件で取引ばするはずたい」
「……読み通りじゃな」
長次郎は、小声で呟いた。
「いや——もしかしたら、お公家様もここまでは具体的には見えておらんかったかもしれんに。ただ、大きな絵を描いて、わしらを現場に送り込んで——わしらが現場で、その絵を超える答えを見つけがぜ」
小野寺が、帳面に全てを書き付けながら言った。
「いずれにせよ、報告書が完成すれば——準備は整います」
十二
数日後の朝、長崎奉行所の広間には、異様な緊張感が漂っていた。
正面に、グラバーが座っていた。
トーマス・グラバー。二十代半ばに届かない年齢でありながら、長崎で最も影響力を持つイギリス商人だ。長身で、赤い顎鬚を蓄え、青い目が鋭い。その顔に、自信と傲慢さが同居している。
その隣に、フランス人商人が二人。
向かいに、奉行所の役人が並んでいた。
長崎の生糸の長期独占買付契約——それが今日の議題だった。フランス商人が提示した相場は、上海相場の五分の一以下。奉行所の役人は、すでに怖気づいていた。署名してしまえば楽になる、という雰囲気が、その顔に出ていた。
役人の一人が、契約書に手を伸ばした。
「待ってくんさい」
突然、会議の記録役を務めていた横山源一郎が声を上げた。役人が不審そうに眉を潜める。
「どがんしたとや、横山。今はフランス側との契約の真っ最中ぞ」
「ハッ。実は、今回の生糸買付の当事者であっ大浦慶殿より、グラバー商会の二重帳簿について、重大な異議の申し立ての届いとります。通詞の責任において、事実ば確かむっために、大浦殿たちの入室ば求めます」
「な、なんち……!?」
その時。
扉が、開いた。
大浦慶が、入ってきた。
大浦慶が、こういう公式の場に現れることは、あまりない。しかし今日の慶は、いつもの商家の衣ではなく、格式のある紋付きを身につけていた。
その後ろに、龍馬。そして——中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎の三人が続いた。
「……なんね、これは」
奉行所の役人が、眉を寄せた。
「失礼いたします。大浦でございます。……お騒がせしとります」
慶は、堂々と言った。長崎弁の柔らかさの中に、鋼のような強さがあった。
「この契約について、天朝物産会所として、一点、お伝えしたかことのございます」
「天朝物産——」
「 Let's make short work of it.」
(さっさと終わらせよう)
グラバーが、英語で言った。
その言葉を、志賀が即座に日本語に変えた。
「Pardonnez-moi, mais à partir de d'ici, je parlerai en français.」
(申し訳ありませんが、ここからはフランス語で参ります)
志賀が、今度はフランス語で言った。
フランス人商人の一人が、目を見開いた。まさかこの長崎で、完璧なフランス語が返ってくるとは思っていなかったのだ。
中山誠一郎が、前に進み出た。
「Messieurs, je m'appelle Seiichirō Nakayama, interprète de français. Aujourd'hui, j'aimerais vérifier quelques chiffres avec vous.」
(紳士の皆様、私は中山誠一郎。フランス語通詞です。本日は、いくつか確認したい数字がございます)
中山は、書類を取り出した。横山と小野寺が仕上げた、完璧なフランス語の報告書だ。
「Voici une copie des registres que nous avons vérifiés dans l'entrepôt de la Maison Glover. Et voici les cours du marché de Shanghai. Cet écart...」
(こちらが、グラバー商会の倉庫で確認した帳簿の写しです。そしてこちらが、上海の市場相場。この差額——)
中山は、数字を読み上げた。
「Le quintuple. Monsieur Glover dissimule les cours de Shanghai pour racheter la soie japonaise à un cinquième de sa valeur.」
(五倍。グラバー殿は、上海相場を隠して、日本の生糸を五分の一の価格で買い叩いておられます)
フランス人商人の顔が、変わった。
「En outre...」
(さらに)
志賀が、前に出た。
「Et de plus, je vous prie d'examiner ce document. Il s'agit d'une correspondance interne prouvant que Monsieur Glover a promis la soie du Japon à la fois à la France et à l'Angleterre.」
(こちらの文書を、ご覧ください。グラバー殿が、日本の生糸を——フランス向けとイギリス向けに、二重に約束している内部の通信文です)
グラバーの顔が、凍りついた。
その青い目が、志賀を見た。
志賀は、フランス語でその文書の内容を、フランス商人に向けて読み上げた。
部屋の中が、シンと静まり返った。
「Are you saying... that Lord Glover has betrayed us?」
(……グラバー殿が、我々を裏切っていたというのか)
フランス人商人の一人が、英語で言った。震えた声だった。
四
その瞬間、龍馬が前に出た。
「天朝物産会所として、提案があるき、聞いてくれんか」
龍馬の土佐弁が、部屋に響いた。
「この広間におる皆さんに、選択肢をお示しするぜよ。一つ目——今の不当な相場で、このまま取引を続ける。その場合、天朝物産会所は九州一円の生糸と茶を、一斉に売り止めるきに」
大浦慶が、にやりと笑った。
「売っ止め?」
奉行所の役人が、困惑した顔をした。
「九州全体の生糸の出荷を止める。期間は、わしらの条件が受け入れられるまで、無期限にじゃ!」
「C'est... c'est impossible ! Ce serait un désastre !」
(そんな……まさか! それは困る!)
「不満があると言うがなら——」
龍馬は続けた。
「Réglons cette affaire devant les tribunaux, directement avec la France ou l'Angleterre. Car nous avons avec nous des experts en traduction parfaite ainsi que les preuves irréfutables de la comptabilité en partie double.」
(フランス本国、あるいはイギリス本国と、直に法廷で争いましょう。こっちには、完璧な翻訳のプロと、複式簿記の証拠がある)
中山が、毅然と前に立っていた。志賀が横に並んでいた。横山が書類を持って控えていた。
「二つ目の選ぶ道は、これぜよ——」
龍馬は、フランス人商人の方を向いた。
「天朝物産会所が示す適正な値——上海相場の八割で、直接取引をすることじゃ。グラバー殿を通さんと、会所と直に交渉してもらうぜよ」
フランス人商人が、グラバーを見た。
グラバーはしばらく、動かなかった。
その青い目が龍馬を見た。
中山を見た。
志賀を見た。
横山を見た。
大浦慶を見た。
一瞬——その顔が、凍りついたままだった。
しかし次の瞬間、グラバーの口元が、わずかに動いた。
不敵な笑みだった。
「... So it is.」
(……なるほど)
グラバーが、英語で言った。志賀が即座に訳した。
「So, the Mikado holds sway over everything, from Shanghai to Lyon.」
(ミカドは、上海もリヨンもすべて握っているというわけか)
「Or is it the Konoe Princess?」
(それともコノエ・プリンセスか?)
「!!」
「I speak of the one behind you. To be confronted with such a powerful hand—how intriguing.」
(あなたたちの背後にいるお方の話だ。これほどの手札を突きつけられるとは——面白い)
グラバーは、少し間を置いた。
「Very well.」
(いいだろう)
「I am not so foolish a merchant as to cling to a losing cartel when presented with such flawless backing and a clear way out. I shall agree to trade at a fair price.」
(これほど完璧な後証と抜け道を突きつけられて、分の悪いカルテルに固執するほど、私は愚かな商人ではない。適正価格での取引に応じよう)
部屋の中の空気が、変わった。
「On one condition—」
(ただし——)
グラバーは言った。
「I ask that Glover & Co. be granted the First Distribution Rights for the finest teas of Hizen and Higo, handled by the Tencho Bussan Kaisho. That is my condition..」
(天朝物産会所が扱う、肥前・肥後の最上級の茶のファースト・ディストリビューション(第一販売権)を、我がグラバー商会に認めてほしい。それが私の条件だ)
龍馬は、大浦慶を見た。
慶が、少し考えた。
「……構わんたい」
慶は言った。
「うちはね、グラバーさんが腕のよか 商人(あきゅうど) だちゅうこっは知っとります。対等の 商売(あきない) として付き合えるとなら、一番販売権ぐらい、別に惜しくはなかとですよ」
龍馬は、グラバーを見た。
「対等の 商売(あきない) として、ということでよろしいかえ」
「Certainly.」
(もちろん)
グラバーは言った。
「Do not misunderstand—I was not brought to my knees by force. I have simply recognized you as business partners. That is all.」
(力でひれ伏したわけではない。あなたたちを、ビジネスパートナーとして認めた。それだけのことだ)
その言葉に、奉行所の役人が、呆気にとられた顔で、龍馬たちを見た。
一太刀も斬られていない。刀が抜かれたわけでもない。しかし——長崎の歴史が変わった瞬間を、彼らは今、見ていた。
そして、龍馬はグラバーを見ながら、ぼそっと呟いた。
「今まで暴利を貪っちょったがじゃ。このまま終わりと思うなよ、グラバー」
「姫様は、甘いお人じゃないきに……」
五
その夜、油屋の奥座敷に、長崎の全員が集まった。
大浦慶、松田源五郎、小曽根乾堂の三人が揃った。
その後ろに、中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎。
そして楢林栄左衛門が、老獪な目で一同を見渡していた。
龍馬と高田と小野寺。長次郎と惣之丞。
乾堂が彫った「天朝物産会所・長崎支部」の朱色の印が、為替手形に捺されている。松田屋が整えた鴻池直通の送金経路が、動いている。楢林が奉行所の情報を流している。三人の通詞が、国際情報の最前線に立っている。
全部が——繋がった。
「……よかったばい」
慶が、煙管を手に取りながら言った。
「これからも、よろしゅう頼んます。皆さん」
長次郎が惣之丞を見た。
惣之丞が長次郎を見た。
二人は笑った。
声には出さなかったが、その笑顔が全てを言っていた。
中山誠一郎が、志賀と横山と握手をした。
「これから、頼むばい」
「こちらこそ」
「おいどんたちの語学が、やっと本当の仕事ばするごたっね」
数日後の朝。
江戸の一橋上屋敷。
近衛糸子の部屋に、仕立飛脚が届いた。
龍馬からの返書と、長崎からの報告書の束が入っていた。
糸子は、封を開いた。
まず、龍馬の短い手紙を読んだ。
それから、小野寺の帳面からの抄録。長次郎の簡潔な報告。中山の完璧なフランス語報告書の写し。
グラバーとの交渉成立の報。
適正価格での生糸取引の開始。
長崎支部の全員集合。
糸子は、全部読み終えた後、しばらく目を閉じた。
「……みな、頑張ってくれましたね。よくやってくれました」
誰に向けてでもなく…呟いた。
葵が、茶を持ってきた。
「姫君様、お顔の色が良いですね」
「そうね、とても気分がよろしゅうございます」
糸子は、茶を一口飲んだ。
「やはり頑張って、チーム名を考え直そうかしら……」
糸子は文机の引き出しに手をやる。
「姫君様……」
「なに、葵」
「四年間を、一滴も残さずにすべて使い切るのでは、なかったのでは?」
「ゔっ………」
出しかけた紙を……引っ込めた。
「葵は、わたくしの浪漫を…全然理解してくれださらないのね。ぐすん……」
「天朝物産会所というお名前が、すでにございますよ」
「そうなのだけど…あれは『店名』で…」
「それで十分だと思います」
「でも——」
「十分でございます、姫君様」
沈黙。
糸子は静かに文机の引き出しを閉じた。
「……いつか、いつかきっと、格好いい名前を考えまする」
「はい、お暇になりましたら、私も一緒に考えましょう」
「……そうしまする」
どうしても諦めきれずにいる…涙目の糸子がいた。
糸子は、窓の外の春の空を見た。
長崎では、今この瞬間も、皆が動いている。
数字と情報と語学を武器にして。
血の一滴も流さずに、日本の経済の夜明けを、少しずつ手繰り寄せながら。
「……長崎の人たちへ、次の指令を書かなければ」
糸子は筆を取った。
その目に、いつもの、遠い先を見通す光が宿っていた。
次の標的は——薩摩を中心とした諸藩の武器密輸ルートの把握だ。
長崎で鍛えられた天朝物産会所の仲間たちなら、それができる。
糸子は、筆を走らせ始めた。
日本の夜明けは、まだ遠い。
しかし——長崎の闇に、確かな光が灯り始めていた。
六
文久元年、晩夏。
伏見から淀川を下る三十石船の中で、四人の男たちは膝を突き合わせていた。
「京の暑さもこれで見納めか」一人が呟くと、夜風に揺れる船内で誰からともなく笑いが漏れる。大坂から紀伊水道へ出れば、そこからは荒ぶる海との知恵比べだ。
「おい、あの雲を見ろ。風が変わるぞ」神代の指摘通り、空には台風の気配が混じり始めていた。
阿波の撫養に上陸し、険しい山道を越える四人の足取りに焦りが混じる。かつての古人が『土佐日記』で嘆いた「風待ち」の退屈を味わう余裕など、彼らにはない。
道中、互いの疲れを軽口で紛らわせながら、湿った風を切って進む。波の音と峠の緑が混ざり合う十日余りの旅路。土佐の山並みが夕闇の向こうに顔を覗かせたとき、四人の影はようやく一つに重なった。
そして……潮の香りと、どこか異国情緒を孕んだ熱気が満ちる国――土佐の地に、旭狼衛の四名はついに降り立った。
その視線の先、待ち合わせの場所に立っていたのは、泥臭くも鋭い眼光を放つ一人の男。
「……おんしらが、京から来た旭狼衛の方々かえ?」
「……いかにも。われらが、その旭狼衛だ」
速水護、神代弦一郎、名波幽水、宮川蜂介がそれぞれ、その男を見た。
土佐の風雲児、岩崎弥太郎が、不敵な笑みを浮かべて彼らを出迎えた。
ここから、日本の歴史を大きく変える、長崎での熱き闘いが始まろうとしていた。
第百十四話 了