作品タイトル不明
第百十三話「長崎暗闘編―数字という名の砲火、語学という名の剣(前編)」
一
文久元年、仲夏。
京の街は、ねっとりとした不快な暑さに包まれていた。盆地特有の、肌にまとわりつくような熱気の中、試衛館・京支部の道場からは、時折、単調な蝉時雨を切り裂くような竹刀の音が響いている。
旭狼衛の京都支部、隊長を任されている山南敬助は、机の上に広げられた一通の書状を前に、静かに息を吐いた。
色白の優男と評されるにふさわしい、柔和な目元。しかし、その奥にある瞳は、冷徹なまでに時代の行く末を見据えている。
書状は、江戸にいる総隊長、近藤勇からのものだった。達筆な文字を指でなぞりながら、山南は嬉しそうに呟く。
「江戸の近藤さん始め、みな達者でやっているんだな。よかった…」
「……そして…長崎、ですか」
近藤の…というよりは、姫様からの意図は明白だった。時代の奔流は今、京だけでなく、異国の風が直接吹き込む西の果て、長崎でも激しく渦巻いている。そこに旭狼衛の拠点、すなわち「長崎出張支部」を立ち上げよ、という命令だった。
ただし、ただ闇雲に西へ走ればいいというわけではない。書状には具体的な足取りが指定されていた。
「出発は晩夏。土佐の岩崎弥太郎殿が、現地での活動に目処をつける頃合いを見計らうこと…か。まずは土佐へ向かい、岩崎殿と合流。しかる後に、共に長崎へ――」
山南は顎に手を当て、思考を巡らせる。
この任務には、いくつもの重い意味が含まれていた。
第一に、姫様から預かっている大事な書状を、岩崎弥太郎へと確実に手渡すこと。
第二に、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる土佐の現状を、この目で視察し報告すること。
第三に、その岩崎を伴って長崎へ入り、新拠点を確立すること。
そして最も重要な任務は、長崎に到着した後、天朝物産会所の長崎支部を切り盛りする近藤長次郎、沢村惣之丞の両名と連携し、彼らや岩崎の護衛につくことだった。
同時に、裏で不穏な動きを見せる異国の武器商人たちの動向を調査し、監視する。
「並大抵の者では、異国の文化と、海千山千の商人たちに呑まれてしまう。……ふふ、となれば、あの子たちしかいませんね」
山南の脳裏に、真っ先に浮かんだ顔があった。
彼は筆を執ると、さらさらと最初の名前を書きつけた。
「まずは、速水くん。君が頼りですよ」
山南に呼び集められたのは、旭狼衛の中でもとりわけ一癖も二癖もある四人の隊士たちだった。
薄暗い奥の間で、山南は穏やかな笑みをたたえながら、事の顛末を語り、長崎行きを打診した。否、それは打診という名の、絶大な信頼の吐露であった。
四人は、それぞれの想いを胸に、その命を噛み締める。
隊長に指名された速水護は、静かに刀の鍔に手をかけ、一つ頷いた。
元は北陸の小藩で精鋭と呼ばれながら、醜い派閥争いに嫌気がさして脱藩した男だ。一刀流の免許皆伝でありながら、西洋兵学にも明るい。山南がその「大局を見る目」に惚れ込み、三顧の礼で迎えた逸材である。
「長崎、ですか。異国の学問や武器が流れ込む場所……。私のような脱藩者が、己の視野を広げるにはこれ以上ない舞台です。山南先生、高田や小野寺、それにあの坂本龍馬という男の動きも含め、うまく連携してみせましょうぞ。お任せください」
常に沈着冷静な速水の声には、どんな過酷な環境でも揺るがない、指揮官としての覚悟が満ちていた。
その隣で、算盤を弾くような手つきで顎をさすったのは、副隊長の神代弦一郎だ。
大坂の蔵屋敷に仕えた下級役人の子で、数字と暗記に関しては、右に出る物なしと呼ばれる秀才。
「ふむ、天朝物産会所の為替に、動く巨額の資金ですか……。長崎は金がうなる街と聞きます。国内外の噂、落ちている情報の断片を拾い集めれば、幕府や諸藩の次の一手など、簡単に弾き出せますよ。速水さんが『動』として前を走るなら、私は『静』の参謀として、財布の紐と情報の綱を握らせていただきます」
合理的で冷徹。しかし、その眼鏡の奥の瞳には、知的な興奮が灯っていた。
一言も発せず、ただ影のように佇んでいるのは名波幽水である。
京の闇で不逞浪士を音もなく仕留めていたところを山南に拾われた、斉藤一にも劣らぬ凄腕の剣士。
名波は山南の視線を受けると、ただ、短く一度だけ、深く頷いた。言葉は要らなかった。長崎の入り組んだ坂道、外国人居留地の深い闇。
そこは、気配を消して敵の懐に潜り込む彼にとって、最高の狩場になる。隊の危機とあらば、いつでも冷酷な剣士として刀を振るう――その決意が、冷たい眼光だけで伝わってきた。
「いやぁ、ついに長崎ですか! 腕が鳴るなぁ!」
重苦しい空気を一瞬で吹き飛ばしたのは、最年少の宮川蜂介だった。
武州の農家出身で、試衛館の面々とも顔馴染み。近藤たちを追って京へ上ってきた、人たらしの達人だ。
「僕のお喋りが、ついに長崎の遊郭や酒場で役に立つわけですね! 異国の商人だか長崎会所の役人だか知りませんけど、少しの刻もあれば十年来の友人になって、重要な話を喋らせてみせますよ! ほら、名波さんは喋るの苦手だし、僕がガッチリ補佐しますから、最高の二人組でしょ?」
天然の剣才を持ち、実戦では名波に次ぐ腕前を持つ宮川が、屈託なく笑う。名波は鬱陶しそうに少し顔を背けたが、拒絶はしなかった。
四者四様、しかしその絆は固い。山南は満足そうに微笑んだ。
二
季節は巡り、京の酷暑が、朝晩の涼しい風に混じる「晩夏」を迎えていた。
六月中旬(新暦の七月中旬)。
いよいよ、旭狼衛の精鋭四名がまずは土佐へと旅立つ日がやってきた。
京都支部の門前には、山南敬助をはじめとする京の旭狼衛隊士たちの一部が顔を揃え、彼らの門出を見送ろうとしていた。
山南は、隊長である速水の前に歩み寄ると、その両肩にそっと手を置いた。
「速水隊長。くれぐれも、無理はしないように。君のその冷徹なまでの大局眼があれば、長崎の荒波も乗り越えられると信じています。……ですが、仲間を頼ることも忘れないでくださいね」
温厚で、どこまでも親切な山南らしい言葉だった。だが、その声の芯には、武士としての気高き「士道」の念が込められている。己の信念を曲げずに生きてこい、という無言の応援だった。
「はい。山南先生も、この京の地をくれぐれもお守りください。行ってまいります」
速水が頭を下げ、それに続くように神代、名波、宮川もそれぞれの礼を尽くす。
宮川は「お土産、期待しててくださいね!」と最後まで手を振っていたが、街道に足を踏み入れた瞬間、その目つきは鋭い鋭気へと変わった。
四人は、徒歩と船を乗り継ぐ過酷な旅路へと打って出た。
三
文久元年、仲夏
長崎港において、龍馬たちは活動していた。
桟橋の石畳は、朝の光を受けて白く輝いていた。潮の香りが、強く、しかし爽やかに吹いてくる。港を行き交う人間の顔が、江戸と全く違う。オランダ人、イギリス人、清国商人。その間を、長崎の商人たちが飄々と歩いている。
しかし最近の長崎は、龍馬が記憶している…以前の長崎とは、様子が違ってきていた。
物価が、まず上がっていた。
桟橋脇の茶屋で売られている握り飯の値段が、去年より確かに上がっている。草鞋を売る路上の商人が、以前より高い声で客を呼んでいる。万延の貨幣改鋳の余波が、この長崎にも、じわりと忍び込んでいた。
「飯の値段が、去年の倍になっちゅうきに」
龍馬が、桟橋を歩きながら言った。
「物価上昇ですね……」
小野寺順平が、帳面を確認しながら答えた。
「万延の改鋳以来、特に開港地は激しい。洋銀と日本の貨幣の交換比率の歪みが——」
「分かった、分かった」
龍馬は苦笑した。
小野寺が話し始めると、止まらない。
「じゃが、それだけに——」
龍馬は続けた。
「姫様が用意してくれた給金が、こういう事態を見越した額だったと…いうことが、今ならいっそうよく分かるぜよ」
「そうですね。龍馬さん、ありがたい話です」
高田陽三郎は、二人の後ろで、静かに歩いていた。動きは穏やかだが、その目だけが、港全体を、絶え間なく走っていた。
油屋に着くと、大浦慶が迎えてくれた。長次郎と惣之丞も、油屋の奥から飛び出してきた。出迎えの騒ぎは、毎回賑やかだった。
そしてふっ…としたとき、長次郎が問うた。
「龍馬」
「なんじゃ」
「ずっと聞きたかったんじゃが、天朝物産会所というのは……本当に、どういう会所なんじゃ?」
「それは、わしも全部は分からんきに」
龍馬は、笑いながら答えた。
「天朝物産会所いうがは、『主上様から賜った無二の信頼』という盾と、『皆で力を合わせ、理に適った算盤を弾く』という矛を携え、この日の本を異国に負けぬよう守り抜くための、『日本一大きな社』ながぜよ」
「そして——この会所が何かをしようとしちゅうことだけは分かる。日本を守るために、銭の戦をしちょる。ただの銭の話じゃないのは確かぜよ」
長次郎は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに顔を上げた。
「……分かった。わしは忠誠を誓うきに。龍馬」
「長次郎…おんしゃ」
「忠誠という言葉が大げさなら、信頼じゃ。この会所を信じて…わしは動く」
惣之丞も、黙って頷いた。
大浦慶が、その様子を眺めながら、煙管に火をつけた。
「坂本さん、あんたはよか友人ば持ったとね」
「大浦さんこそ、よく面倒を見てくれてるきに」
「何ば言いよっとかい。これからが本番じゃろ」
慶は、煙管を口から離し、ぽんと叩いた。
「ところで坂本さん…」
「話ばあっとたい。実はね——最近の居留地の様子が、少し妙なんよ……」
龍馬の目つきが鋭くなる。
「妙とな……?」
四
大浦慶の油屋の奥座敷に、初夏の日差しが斜めに差し込んでいた。
縁側の向こうに、大浦の坂の石畳が見える。白壁の洋館の屋根が、光を跳ね返している。しかし、その景色の美しさとは裏腹に、慶の話す内容は、聞けば聞くほど重苦しかった。
「グラバーっちゅうイギリス人の商人ば、あんたも知っとるでしょ」
「ああ、名前は聞いちょりますきに」
「あの男とね、スネル兄弟っちゅうプロイセンの商人が、今、裏で組んどるとたい」
「裏で組む?」
「そう。諸藩が攘夷でカリカリしとるのば利用してね——型落ちのゲベール銃を、本国の相場の何倍もの値段で売りつけよっとたい。薩摩さんを中心に諸藩が、それに引っかかってるってもんよ」
龍馬は、黙って聞いていた。
そして思い出す。
「初夏の頃に…出島のイギリス商人が、やけに旧式銃の売り込みを積極的にやっとるっちゅう話か…」
「そう、それたい…」
「でもね、それだけじゃないとよ」
慶は、煙管を、膝の上でとんとんと叩いた。
「うちが扱っとる九州の茶——あれば、グラバーが不当に安く買い叩こうとしとるんたい。上海の相場の半分どころか、それ以下の値段で。したら断ったら……」
「断ったら、どうなります?」
「奉行所がね——」
慶は、目を細めた。
「奉行所が、うちに圧力ばかけてきよるったい。『異国との摩擦を避けるため』っちゅう名目で、グラバーの条件ば受け入れろって」
龍馬の体が、わずかに前のめりになった。
「つまり——長崎奉行所が、異国商人の申し合わせて共犯になっちゅうということがですか?」
「共犯かどうかは分からんばってん——少なくとも、うちみたいな商人が泣き寝入りするように、上からひっさえつけとることは確かたい」
慶の顔に、悔しさが滲んでいた。
「このままじゃ、すまさんたい!」
この女傑が、これほど悔しそうな表情を見せるのを、龍馬は今日初めて見た。九州の茶を一手に仕切り、外国商人とも渡り合ってきた大浦慶が、歯噛みしている。
「……分かりましたきに、大浦さん」
龍馬は言った。
「必ず、手を打つぜよ。ただ——ちぃとばっかし時間をくれんか」
「時間は、あんまりなかとよ。このままいけば、うちは来月にもグラバーの条件に従わないといかんようになる」
「分かったき、それまでには絶対」
龍馬は、立ち上がった。その目に、何かが決まった光があった。
(姫様の指令七条——『フランス語の遣い手を抱え込め』。フランスの生糸パニック。グラバーの——)
バラバラに見えていた糸子の指令が、今、一本の線として繋がり始めようとしていた。
五
長崎奉行所の一室に、三人の男がいた。
部屋は薄暗く、窓の外から長崎港の喧騒がかすかに聞こえてくる。机の上には、フランス語で書かれた書類が積み重なっていた。文字の羅列。条約の文面。数字の並び。
三人の男——中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎——は、その書類を前にして、それぞれの表情で黙っていた。
中山誠一郎は、三十がらみの、体格のしっかりした男だった。元々オランダ通詞の家系だが、安政五年からフランス語の習得を命じられ、今や長崎でも一、二を争うフランス語の使い手だ。その目は、一見穏やかだが、奥に強い知性と、抑えた怒りが宿っている。
志賀親司は、それより少し若かった。細身で、目の動きが常に鋭い。マルチリンガル——フランス語だけでなく、プロイセン語(ドイツ語)まで操る、言語の秀才だ。今、その目が、フランス語の書類の上で止まっていた。
横山源一郎は、二人より少し落ち着いた表情をしている。実務肌の男で、数字と外交文書の精査に、群を抜いた才能を持っていた。
「……どう思う」
志賀が、書類を見たまま言った。
「フランスの商人が持ってきた、この生糸の長期独占買付契約書。この相場は——」
「不当とかいうレベルじゃなかばい」
横山は静かに言った。
「今の上海の相場と比べても、これは半値以下やっけん。フランス側が日本の商人に提示しとる価格は、がいに水増しされとる」
「分かっとる」
中山が、腕を組んだ。
「ばってん、奉行所は訳せって言うとる」
「異議ば唱えたら?」
「『お前たちは黙って訳せばよか』って言われたたい」
三人の間に、沈黙が落ちた。
志賀が、書類から目を離して、窓の外を見た。
「……おかしかと思わんね?」
「何が?」
「フランスの商人の態度が、どがんもおかしか。焦っとる。普通の交渉じゃなかばい——何かば急いどる。それも、命がけで急いどる……ごたっ気がする」
中山が、志賀を見た。
「フランスで、何かが起きとるってことか」
「そうやと思う。ばってん奉行所は、そがんこっば調べようともせんばい。ただ、この書類ば訳せって言うだけたい」
横山が書類の端を、指で軽く叩いた。
「……俺たちは、いつまでこがんしとるとやろか」
誰も答えなかった。
世界を知るエリートが、その知識を、異国に舐められないためのその場しのぎにしか使わせてもらえない——その事実が、三人の胸の奥で静かに、しかし確実に腐り続けていた。
六
夜の大浦居留地は、昼間とは全く異なる顔を持っていた。
昼間は外国商人が堂々と行き交い、荷役夫たちが大声で怒鳴り合い、港の喧騒が居留地全体を満たしていた。
しかし夜になると、倉庫街には物音が減り、代わりに潮風の音と、どこかの船から流れてくる異国の音楽が、石畳の間を漂った。
その夜の倉庫街の暗がりを、五つの人影が、音を立てずに動いていた。
坂本龍馬、近藤長次郎、沢村惣之丞、小野寺順平——そして高田陽三郎だ。
五人は顔を突き合わせる。
「わしは周りを警戒しちょくき、長次郎、惣之丞、小野寺殿、高田殿……おまんらぁは帳簿の方を頼むぜよ」
「分かった。龍馬、おまんも気をつけるがぜよ」
「おう! 惣之丞も気ぃつけぇよ」
四人は龍馬と別れ移動を開始した。
「多分、この先じゃ、小野寺殿…」
長次郎が、唇だけを動かして言った。
「この先の倉庫が、グラバーの荷の出入りしている場所じゃき」
「確認しました」
小野寺が、同じく低く返した。帳面を持った手に、薄い汗が滲んでいた。
「高田殿、見張りの動きは?」
「外に一人。交代は四半刻ごと」
高田が、短く言った。
「窓際に入れれば、四半刻のさらに半分ほどは使える」
「四半刻のさらに半分ほどで帳簿を写せるかのか……?」
「できる、出来んの話じゃない。写すがじゃ!」
長次郎が、低く言った。その目が暗がりの中で、光っていた。
高田が、見張りの動きを確認した。一つの合図で、四人は動いた。
倉庫の裏手に回り、小窓から中に入る。暗い、広い空間。石炭と油の匂い。積み重なった荷箱の間に、細い通路がある。
その奥の事務スペースに、帳簿があった。
小野寺が、帳簿を開いた。ランタンの最小限の光で、ページを確認した。
そして——止まった。
「……これは」
小野寺の声が、かすかに、震えた。
「どがいした?、小野寺殿」
「見てください」
長次郎が、帳面を覗き込んだ。数字が並んでいた。
「洋銀の流入量……買い付けた生糸の重量……そして、こっちの欄が——」
「上海相場です」
小野寺が言った。
「グラバーは、上海の市場価格を日本側に隠して、その五分の一の価格で生糸を買い叩いている。この帳簿が、その証拠だ」
長次郎の目が、数字の上を走った。
上海相場の欄の数字。そして、グラバーが日本商人に提示している数字。
その差が——五倍。
五倍!!?
一瞬、長次郎の頭が、空白になった。次の瞬間、背筋に、ゾクリとしたものが走った。
「龍馬からは、型落ちのゲベール銃を売りつけゆうか、『差額の数字』を探れと言われちょったが……。この差額のことも、ひょっとしたら含んじょったんじゃないか。『裏帳簿を割れ』っちゅう意味が——今、分かったきに」
「写します」
小野寺が、鉛筆を走らせ始めた。
「長次郎殿はそちらをお願いします」
「分かったき」
長次郎が、別の帳簿の方に目を向けた。その手が、微かに震えていた。
しかしそれは恐怖ではなく——数字が持つ、恐るべき破壊力を、今初めて肌で理解した震えだった。
四人が手分けしたことにより…短時間で帳簿の写しが、完成しかかっていた。
七
……その瞬間だった。
倉庫の扉が、激しく開いた。
光が暗い倉庫の中に、一気に入り込んだ。
「Who goes there?」
(そこにいるのは誰だ?)
英語の怒声。
続いて——複数の足音。武器を持った 水夫(かこ) が、三人、倉庫の入り口を塞いでいた。
「いかん、まずいぜよ!」
長次郎が、小野寺を引っ張った。
「帳簿の写しは?」
「ここに——」
「走れ! 走れえええっ!!」
高田が、倉庫の奥の方向を、素早く見た。出口がある。しかし外にも、足音が迫っている。奉行所の捕り方——通報を受けた役人たちだ。
「沢村殿は先に行ってください!」
高田が、惣之丞に向かって言った。
惣之丞は、帳簿の写しの一部を持っていた。その写しが、証拠の一部になる。
「高田殿——!」
「行ってください! これが最優先です!」
高田は、そう言いながら、すでに動いていた。
武装した 水夫(かこ) の前に立ちはだかった。その細身の体が、暗がりの中で、信じられないほど速く動いた。一人目の 水夫(かこ) の腕を取り、自分の方向へ引き込んだ。二人目が前に出ようとした瞬間、高田の肘が動いた。
惣之丞は、帳簿の写しを抱えて、倉庫の裏の小窓に向かって走った。
長次郎が続いた。小野寺も。
しかし、惣之丞は足を止めた。
「待て! 高田殿を置いていけるか!」
惣之丞が刀の柄に手をかけた。だが、高田が振り返る。その目は、一歩も引かぬ武人のそれだった。
「沢村殿、あなたの命は私の命より重い! 逃げるんだ!」
「くそっ……!」
長次郎が、腕を強く引っ張った。
「惣之丞、来い!」
「来い!! 今は高田殿を信じるしかないきに……」
惣之丞は一瞬、歯を食いしばった。
そして——走った。
長次郎の後を。
近藤長次郎、沢村惣之丞、小野寺順平の三人は夜の路地を走った。
背後に、奉行所の捕り方の声が聞こえる。港の方向に、灯りが増えていく。
長崎港全体が、封鎖されようとしていた。
惣之丞は走りながら、帳簿の写しを懐に押し込んだ。これだけは、絶対に失えない。
「数字の武器」の根幹になる証拠だ。
(高田殿……)
仲間を置いてきた…という重みが、胸に押し寄せてくる。
しかし三人は走り続けた。
油屋への最短の路地を。
八
油屋の裏口から、長次郎と惣之丞と小野寺が、息を切らして入った。
大浦慶が、すでに起きていた。
「来るかと思うとったよ」
慶は、三人を奥座敷に引き入れながら、静かに言った。
「路地の様子が変じゃったけん、外の番頭に聞いとったんよ。高田さんと坂本さんは?」
「高田殿が—— 水夫(かこ) を引き受けてくれたがじゃ。……龍馬、おまんは……」
「坂本殿は今、ここに向かっているはずです」
小野寺が言った。
「奉行所の御用改めにきんさったら、どがんするね?」
「表向きは、普通の旅の商人としてお願い出来ますか?」
「分かった。全ぶ、うちが引き受くるけん」
慶は、そう言って、奥座敷の鍵を閉めた。
それから半刻ほどして、龍馬が、裏口から転がり込んできた。
かすり傷があったが、大きな怪我はなかった。
「高田殿は?」
「……奉行所に」
龍馬が、息を整えながら言った。
「捕まったわけじゃないがじゃ。高田殿は、上手いこと身元を隠したうえで、奉行所の連中と話をつけておった。明朝には、こっちに合流できると思うきに。……そういうことらしいぜよ」
惣之丞は、その言葉を聞いて、長く息を吐いた。
「……よかったー」
「もし…このまま高田殿が戻らんかったら、わしは…わしは………」
「高田殿やったら…絶対、大丈夫やき!」
「信じて待とうや、惣之丞!!」
「…わかったよ、龍馬」
「ほいで、惣之丞……」
「なんじゃ?」
「その写し——」
龍馬が、惣之丞の懐を指した。
「これが、あの帳簿の写しか?」
「一部じゃが、そうじゃ…」
「死ぬかと思いながら写したきに。役に立ててくれよ、龍馬」
「わしからも……こいつを頼むきに」
長次郎も懐から帳簿を取り出し、龍馬に差し出した。
長次郎と惣之丞は、龍馬を見た。
その龍馬の目が——変わっていた。土佐浪人のそれではなく、もっと深い、覚悟を決めた者の目だった。
「役に立てる。必ず」
龍馬は、惣之丞から写しを渡され、糸子からの書状(九箇条)を並べた。
七番目の指令——「フランス語の遣い手の極秘勧誘」。そしてその理由として書かれていた言葉。
「現在西洋ではカイコの病(微粒子病)で絹織物産業が全滅の危機にあり、フランスは日本の生糸を渇望している」
龍馬は、その一節を、何度も読んだ。
グラバーの帳簿の数字。
フランス商人が焦っている理由。
リヨンの生糸産業の全滅。
「……全部、繋がっちゅうきに」
龍馬は、低く言った。
大浦慶が、その言葉を聞いて、眉を上げた。
「坂本さん、何が繋がったとたい?」
「大浦さん、聞いてください。今から、全部話します」
龍馬は、糸子の書状の内容と、帳簿の数字を照らし合わせながら、慶に話した。
フランスで、蚕の病気が大流行していること。リヨンの絹織物産業が、壊滅の危機にあること。そのためフランス商人は、日本の生糸を喉から手が出るほど欲していること。
しかし同時に——グラバーはその「フランスの焦り」を逆手に取って、フランスに日本の生糸を横流しするために、まず日本側から不当な安値で買い叩こうとしていること。
生糸が全滅しかかっているフランス商人は、日本の生糸なしには本国の産業が成り立たない。
それは——「生殺与奪の権を、日本が握っている」ということだ。
「……なんね」
慶が、龍馬の話を全部聞き終えてから、最初に言った言葉は、それだった。
「なんねって……分かりましたか?」
「分かった。分かりすぎるくらい分かったたい」
慶は、立ち上がった。
「じゃあ——うちが『売り止め』をすれば、フランスの奴らは真っ青になるっちゅうことやろ?」
「そうじゃ。大浦さんが九州の生糸を全部止めれば——」
「グラバーは、終わりじゃなかね!!」
慶は叫んだ。
笑い声が、奥座敷の低い天井にじんわりと染み込んでいく。
ひとしきり笑ったあと、長次郎と惣之丞は、互いの肩の泥を払うようにして小さく息をついた。死線をくぐり抜けてきた男たちの顔に、ようやく生きた心地が戻っていく。
「……にしても、冷や汗が出たぜよ」
惣之丞が、まだ少し震える手で自分の胸を叩いた。
「見つかったときには、心臓が口から飛び出るかと思うた。のう、長次郎」
「ああ。じゃが、これで報われた。わしらの行動は、無駄じゃなかった」
長次郎の言葉に、龍馬は深く、深く頷いた。机の上に広げられた写しと、姫様からの書状。それらが今は、日本を動かす巨大な鍵に見えた。
小野寺は、なおも帳面から目を離さずにいたが、ふっと鉛筆を置いた。
「……風が、変わりますね」
その呟きは静かだったが、確かな確信に満ちていた。
慶は、開け放たれた裏口の先、まだ薄暗い長崎の夜空を見つめていた。海から吹き込んでくる夜風が、彼女の着物の裾をわずかに揺らす。
「坂本さん」
「なんじゃ、大浦さん」
「あんたたちと出会わんやったら、うちはただの、銭勘定が上手なだけの商人で終わっとったかもしれんね」
慶は振り返り、悪戯っぽく、しかしどこか慈愛に満ちた目で龍馬たちを見た。
「面白うなってきた。グラバーの鼻をあかして、あの江戸の化け物お公家様を驚かせてやらんばね」
高田はまだ奉行所にいる。夜が明ければ、新たな戦いが始まる。だが、胸の奥にある灯火は、さっきまでとは比べものにならないほど強く、熱く燃えていた。
「よし、やろう。わしらの夜明けは、ここ長崎からじゃ」
遠くで、一番鶏の声が響いた。
油屋の奥座敷に、夜明け前の静かな決意が満ちていく。夜が明ければ長崎の……いや、この国の歴史において、確かな変革をもたらす一助となるだろう。
小野寺だけが、帳面に鉛筆を走らせながら、それでも口の端がかすかに上がっていた。
第百十三話 了