作品タイトル不明
第百七話「姫君のツッコミと『模倣のメリケン』」
一
「お二方に、一つ問うてもよろしゅうございますか」
糸子の声が、座敷の空気を静かに区切った。
「なんでしょうか? 姫様」
二人は声を揃えた。
「メリケンという国は――行く末、この国に何を望もうとお考えでいらっしゃるのでありましょうか」
火鉢の火が、静かに揺れた。
それだけだった。その問いが、座敷の空気の中に落ちていった。
驚きの声は、どこからも上がらなかった。代わりに——二人の男が、同時に背筋を伸ばした。
語り終えた充実感も、達成感も、ほんの一瞬で溶けた。
それは答えではなく、始まりだった。
福沢諭吉は、口を半分開けたまま動かなかった。 小栗忠順は、懐の中でネジを握ったまま止まっていた。
二人は顔を見合わせた。
(出鼻をくじかれた)
その感覚が、言葉にならないまま二人の間に漂っていた。語り手が語り終えた後に来るはずの「反応」が来なかった。代わりに来たのは、問いだ。しかも、自分たちが答える番になる問いだ。
窓の外で、また雪が落ちた。枯れ枝が揺れる、かすかな音がした。
「……申し上げますと」
福沢が最初に口を開いた。声が、先ほどより一段、低くなっていた。
「通商の拡大、と申しますか——貿易の継続と、港の開放を求めてくることは確かでございます。
ハリスとの交渉でも、その点は一貫しておりました。彼らは軍港も欲しているのでしょうが、今はまず——」
「なれど、その先にいかなる絵図を描いておわすのかを、お尋ねしておりますのですよ」
糸子の声は穏やかだった。穏やかだが、言葉は正確に刃の先を向けていた。
福沢はもう一度、口を閉じた。
小栗が、少し考えた後に静かに言った。
「……大東海(太平洋)における覇権と、アジア圏の通商流通を、自国の管理下に置くこと。
そのための足がかりとして、日本を利用したいと考えているでしょう」
「本当に、その通りでいらっしゃいます」
糸子の声が、少し低くなった。低く、しかし静かに。
「足がかり——詰まるところ、道具として利用されるやも知れぬということを、重々承知の上で、お二方はあの国を語っていたのでございまするか」
沈黙が落ちた。
今度は、深い沈黙だった。
二
「福沢殿」
御簾の向こうから声がかかった。
「はっ」
「門閥なき実力社会、結構。生まれに拠らず、個人の『独立自尊』が国を支える——。誠に、素晴らしき理想にておわしまする」
「……はい」
福沢の声に、かすかな警戒が混じった。
褒めているのに、褒められた気がしない。言葉の温度が低すぎる。這い上がってくる水のような、静かな前置きだ。
「……して、お尋ね申し上げますが」
御簾の向こうで、糸子の声の温度が一段下がった。部屋の白檀の香りが、なぜかその瞬間、少しだけ鋭く感じられた。
「いかなれば、その素晴らしきメリケンの南部におきましては——数百万もの黒き人々が、人として遇されず、農場にて家畜の如く鞭打たれていらっしゃるのでございますか?」
座敷が、完全に静まり返った。
火鉢の炭が爆ぜる音だけが、乾いた小さな音を立てた。
「それも……彼らの『才覚』がゆえのことにございましょうか。」
福沢は息を呑んだ。
体の中心から、何かが冷えていくような感覚があった。それは恥ではなく——正確には、恥でもあったのだが——それよりも深いところからくる、何か別のものだった。
見ていた。
サンフランシスコの波止場で、ワシントンの街角で——自分は確かにそれを見ていた。
北部では奴隷制度はないとはいえ、肌の色の違いで通りを分けられた人々を。
堂々と語られる「自由と平等」の言葉と、その言葉を聞くことすら許されない人々を。
見ていたのに——見なかったことにしていた。
「過渡期の課題だ」と思っていた。
「変わりつつある」と思っていた。
自分が圧倒された「先進性」の輝きに目を奪われて、その足元に流れているものを、意識の端に追いやっていた。
(あの国の眩しさに、目が眩んでいた)
「メリケンの謳いし『自由と平等』と申すは――」
糸子は続けた。声は静かなままだ。怒っていない。ただ、正確だ。
「結局のところ、白人の、白人による、白人のための都合のよい制度ではござりませぬか。
綺麗事に目を奪われ、その足元に流れる血と不平等の仕組みを見落とすは——学問を修める者として、片手落ちというものでございましょう」
福沢の額に、汗が浮いた。
反論の言葉が、出てこなかった。
出てこない理由が、また別の意味で彼を苦しめた。反論できないのは、正しいことを言われているからだ。
自分がアメリカで目にしたものと——公家の…海を渡ったことも、波止場の風も知らないはずの少女の言葉が——完全に一致してしまった。
「大統領制の選挙に参加できる者が、列なることを許されし者は、その時分、いかほどの数でございましょうな」
糸子は続けた。
「白人の成年の男のみ。おなごは外に置かれ、黒き奴隷はもとより、古よりの先住の民も除かれておわす。日本が『家格』という縛りを持ちし如く、メリケンは『肌の色』という縛りを持っておりました。いいえ、今もなお持ち続けておりまする。
それを承知の上で『身分なき世』と呼ぶのであれば、いかような意味を、その言葉にお込めあそばしていらっしゃるのでしょうな。」
「……先住の民も除かれる、でございますか?」
福沢は、砂を噛むような思いでその言葉を繰り返した。
「さよう。彼らが『インディアン』と呼ぶ、代々の地の主たちのことにございますよ。
福沢殿、あなたはメリケンの広大なる農地や、疾風の如く押し広げられる西方の果て……『フロンティア』とやらを御覧になりて、『神が授けし未開の桃源郷』とでも思し召されましたか?」
御簾の向こうで、糸子が扇を小さく、しかし冷徹な音を立てて閉じた。
「とんでもない。あれは、幾世紀にもわたる謀による略奪と、血によって塗り潰されたる大地にございます。
麗しく整えられたる白人の街並みの下には、声も上げられぬまま消し去られたる、おびただしい数の死者が埋まっているのでございります」
福沢の背筋に、嫌な汗が伝う。
思い出したのは……酒場で、酔った白人の乗組員たちが自慢げに語っていたおぞましい武勇伝だ。
彼らは先つ民を人間ではなく、ただの「害獣」のように扱っていた。
その時の不快感が、糸子の静かなロジックによって、今、明確な歴史の罪状として目の前に突きつけられている。
「始まりは、かの者たちが持ち込みし目に見えぬ 物怪(もののけ) ——疱瘡や麻疹といった 疫病(えやみ) にておりわしました」
糸子の声は、まるで淡々と帳面を読み上げるかのように冷えていた。
「二度なしを持たぬ先つ民は、戦う暇もなく瞬く間に全滅し、ただの骸の山と化しました。
それを後から来たりし白人入植者どもがいかように解釈したか、お分かりあそばす?『神が我らに授け 給(たま) うた空き地なり』と、平然とのたまい、我が物顔で農場を築いたのでございます。
他人の不幸を神の祝福と言い換えるその傲慢さ、寒気がいたしまする」
福沢は拳を握りしめた。言葉が出ない。
「それだけではございませぬ。病を生き延びし者たちを待ち受けておわしたのは、容赦なき軍事力による蹂躙……いわゆる『インディアン戦争』にておわします。
近代の銃器と組織だてられた軍隊を持つかの者たちは、古よりの戦い方しか知らぬ先つ民を圧倒し、虐殺し、その地を剥ぎ取っていったのでござります。
合衆国が独立を遂げ『自由の国』と高らかに謳いし裏で、政府がいかなる振る舞いに及んだか。
安き土地を求める白人入植者の機嫌を取るがため、国家が先んじて先つ民を追い払い、殺めることを支えたのでございまする」
御簾の向こうから、衣擦れの音がかすかに響く。糸子は一息つくと、さらに言葉を重ねた。
その言葉の刃は、福沢が崇拝しかけていた「西洋の法と合理主義」の正体を容赦なく暴いていく。
「かの者たちは『法』や『条約』と申す洗練された道具すら、略奪のために使いこなしましたわ。 文字も読めぬ、あるいは脅しに屈した部族の長に、不平等なる条約の署名を迫り、広大なる故郷を二束三文で譲り渡させる。
『インディアン移住法』なる冷酷なる掟を定め、先祖代々の豊かなる地から彼らを引き離し、誰も住みたがらぬ不毛なる『居留地』へと家畜の如く押し込める……。
これが、福沢殿、あなたの仰る近代国家の『正しき仕組み』とやらが弾き出した答えでおられまするか?」
「極めつけは、生きる糧を奪う卑劣なる謀略にございます。平原に生きる部族にとって、命を繋ぐ要であった野生のバッファローを、白人どもは数百万頭もの規模にて、事もあろうに組織的に乱獲、殲滅いたしました。
何ゆえか? 刃を交えずとも、食糧を絶てば先つ民は飢え、政府の配給に縋らざるを得なくなりますゆえ。そうして、居留地にて飼い殺しにするためでございます。
さらに、おぞましきは、その幼子たちを親から引き離して寄宿学校へ入れ、独自の言葉も文化も、すべてを禁じたこと。
部族の誇りと、魂の繋がりを根絶やしにする『文化の虐殺』にてござりまする。」
糸子はそこまで一気に語ると、ふう…と小さく息を吐いた。
「始まりは 疫病(えやみ) という、思いもよらぬ不幸であったのかも知れませぬ。
なれど、かの者たちが力をつけるにつれ、それは国家による組織だてられた、執拗なる『土地の略奪』へと変じましたわ。
……これこそが、メリケンという国が大地を手に入れし、歴史の本質にございます」
座敷は完全に凍りついていた。
福沢は、畳に視線を落としたまま、ただ自分の浅はかさを呪うしかなかった。
自分はあちらで、最先端の印刷機や、きらびやかな蒸気機関に目を奪われ、「なんと進んだ国だ」と無邪気に感動していた。
だが、その華やかな文明のインフラを支えているのは、黒人奴隷の流した血の涙であり、足元の大地は、先つ民から文字通りむしり取った略奪品だったのだ。福沢は、ただ畳に視線を落としたまま、己の浅はかさを呪うしかなかった。喉の奥まで出かけた反論は、すべて虚しい言い訳に思えて、ただ深く飲み込むしかなかった。
三
糸子の「気配」が、次に向かう方向が変わった。
声は動かない。御簾も動かない。
しかし部屋の空気が、少しだけ流れを変えた。獲物を変えた猫のような——そういう気配の転換だった。
小栗忠順は、それを感じていた。
(次は私か)
彼は内心でそう思い、しかし表情には出さなかった。何が来るかは分からない。ただ、来ることは分かる。
「小栗殿」
「はい」
声は短く答えた。
「精密な工業規格、大量生産の製鉄所——結構。形ある力こそが国を守る盾になるというお考え、実に見事でございましょう」
小栗の肩が、わずかに動いた。この褒め方の続きに、何が来るかを彼はすでに知っていた。福沢が通った道を、自分も通る番だと。
「……なれど」
「なれど……それほどまでに、西洋の技術を有り難がる必要がどこにありましょうや?」
小栗の眉が、動いた。今度はさすがに、感情が先に出た。
「有り難がる…とは?」
声に、かすかな力が入った。懐の中でネジを握る手に、無意識のうちに力が入った。
「ワシントン海軍工廠で見た工業力は、確かに日本とは比較にならぬでありましょう。
あのネジ一本を作る精度、機械が機械を生み出す仕組み——日本の職人の技と勘だけでは、決して届かぬ領域が確かにあるのでござります」
「いかにもそのように存じます、 今(・) は」
「今は…と仰いますか」
「御意にございます。メリケンの蒸気機関と申せど、元を辿ればイギリスのワット氏が創り上げしもの、写しや手直しに過ぎませぬわ」
小栗は、ネジを握ったまま止まった。
「いかにも、左様でございます。異国の知恵を借り、写し取ることから始まるのは世の習い。
メリケンの者らにできたことが、幾代もかけて精緻な技を継いできた我が国の匠にできぬ道理はございませぬ」
「しかし——」
「技の道ゆえ、難儀なこともございましょう。それは否定いたしませぬ。なれど、それは単に『刻の問題』であって、超えられぬ垣根ではございませぬ。
成し遂げるに骨が折れることと、成し遂げられぬことは——全く別のことにございます。」
小栗は、ネジを強く握りしめたまま、答えられなかった。
答えられない理由が——福沢の場合とは少し違った。福沢は「正しいことを言われた」から黙った。
しかし小栗は違う。「私もそれを知っていた」から黙った。
横須賀に製鉄所を建てると決めたとき、自分の脳裏にもその計算はあった。
フランスの技師を呼んで、その技術を日本人が習得して、いずれは日本人だけで動かせるようになる——それが最終目標だと、小栗は最初から思っていた。
ただ、あまりにも現実の壁が厚くて。あまりにも幕府が動かなくて。
「有り難がる」という表現に、自分が反論したくなったのは——実は、その言葉が正しかったからかもしれなかった。
「ネジの規格とやらも――元を正せばイギリスにて興りしものでございましょう」
糸子の声が続いた。
「蒸気機関の図面とやらも、元はイギリスが先んじたもの。
メリケンはそれを取り入れ、広大なる土地と人の多きに任せて大きく育て上げた――。それは誠に、畏れ多きことにございます」
「……そこまでは、おっしゃる通りです」
小栗は認めた。
認めることが、この場合は正直だと思ったから。
「真似びなればとて、それを卑しむべきとは申しておりませぬ。すべてを習い覚えるは、先は写し取ることより始まるものにございます。
ただ――借り物の知恵を、あたかも天より授かりし神器のごとく崇め奉るのは、いかがなものか、と案じておるだけにございます」
「……」
「我が国の匠が、今日明日に同じものを 拵(こしら) えられるとは申しませぬ。
なれど、十年の後は? 二十年の後は? フランスの技師より真似ぶ間に、日本の技との融け合いにて、あるいは思いも寄らぬ優れたものが生まれることもございましょう」
「ここで一つ、興ある例を挙げましょうか」
「我が国に鉄砲が伝わりしは天文十二年、今より数えて三百年ほども昔のことにございます。
なれど、伝来より僅か三十年がうち、戦国の果てには五十万丁を超える鉄砲が、日本に溢れていたと聞き及びまする。
その折、世に最も多くの火縄を抱えておったのは、他でもない、この日本にございました。しかも、ただ数のみに頼ったのではございませぬ」
「我が国の者は火縄銃に独自の工夫を重ね、雨の降る中においても火を絶やさぬよう整え、当たる精度を格段に高めました。
本場の異国の品を遥かに凌ぐ、まこと実戦に即した兵具へと仕立て上げたのでござります。
日本人には、優れたものを真似び、それをさらに磨き上げる才が古より備わっております。
そして、あの短き間に鉄砲をあまねく広めた驚くべき技と仕組みを、先祖はとうに創り出しておいででした」
「今の洋学や異国の兵備を取り入れることも、決して叶わぬことではございませぬ。我らには、その同じ血が流れておりますれば」
小栗は、ネジを握りしめたまま、その感触をゆっくりと確認した。螺旋の刻みが、指先に当たる。均等な、機械の刻みだ。
しかし——この国の職人が、何百年もかけて育ててきた技の精度も、自分はワシントンの造船所で見た。
油で汚れた手が、信じられないほど正確に、木材を削り、金属を加工していた。
「ただ」と糸子が続けた。
「現実的な技術の導入に際して、最も難しきは——」
「資金と、その後の運用です」
小栗が、先を言った。
「さようにございます」
糸子の声が、少し温度を上げた。
「資金をいずこより調ぜんか、また、造営ののちに、いかようにして商い営んでゆくか。そこが誠に難き題にございましょうな。
——小栗殿がご苦労あそばされておることの、多くはそこにあると、そのようにお聞き及びしておりまする」
小栗の眼が、わずかに鋭くなった。
「……お詳しいですね」
「堀田様より承りました。それのみならず、御身が抱えておられる難題を思えば、そこへ行き着くは至極当然のことにござります」
「……なぜ堀田様が?」
「さあ…」
糸子の声は、また穏やかに戻った。
「わたくしも詳しい経緯は存じませぬ。ただ、そのような話をして頂きましたゆえ、あれこれと心に浮かべておりました次第にて」
四
「今のメリケンは」
糸子の声が、少し方向を変えた。
「南の州と北の州とが、いと激しく相克しておわすと聞き及んでおります。使節の方々の御目には、いかような気色と映りましてございますか」
「——南と北?」
福沢が反応した。
「綿花を作る南部の農園経済と、工業を育てている北部の製造業で、経済の構造が根本から異なる。
加えて奴隷制の問題もあり、大統領選も紛糾していると聞き及んでは——直に、その地を踏まれましたお二方には、いかように思し召されましたか」
福沢と小栗の間に、短い沈黙が挟まった。
先に口を開いたのは、驚きを隠そうともしない福沢だった。少し困惑したように頭を掻き、しかしその目は知識の熱に潤んでいる。
「……恐れ入りました。まさか京からいらした姫様の口から、メリケンの『分断』の核心が飛び出すとは夢にも思いませなんだ。
仰る通りにございます。私めが肌で感じたのも、まさにその『危うい均衡』でした。北部の都市は煙突が立ち並び、機械が唸りを上げ、人々は『自由の国だ、すべての者に権利を』と息巻いている。一方で南部に下りれば、見渡す限りの白い綿花畑を、黒い肌の奴隷たちが黙々と耕している……」
「彼らは一つの国でありながら、まるで水と油。大統領選を巡る罵り合いは、文字通り一触即発の様相でございました。個人の独立を尊ぶはずの近代国家が、その足元に奴隷制という巨大な矛盾を抱えたまま、今まさに真っ二つに割れようとしている。あの国は素晴らしい、なれど――その内実は、いつ弾けてもおかしくない火薬庫そのものでございます」
福沢の言葉を、小栗は冷徹な、しかしどこか焦燥を孕んだ鼻鳴らしで引き継いだ。懐のネジをじっと見つめ、御簾の向こうを見据える瞳には鋭い光が宿っている。
「福沢殿の言う『火薬庫』、私も同感にございます。いや、現実の危機はそれ以上でしょう。
メリケンの圧倒的な工業力を見たとき、私は確かに身震いいたしました。寸分の狂いもない規格、機械が機械を生み出すあの合理性こそが、北部の強さの源泉。
しかし、それを動かす経済の論理が、南部の農園領主たちとは根本から噛み合っていない。奴隷制を巡る大統領選の紛糾は、単なる正義のぶつかり合いではない。あれは、どちらの経済構造がこの巨大な国家の主導権を握るかという、血で血を洗う『富の奪い合い』なのです」
「姫様。メリケンは遠からず、内から崩れます。あの国が内戦という泥沼に引きずり込まれ、こちらを振り返る余裕を失う日は、そう遠くはありますまい。だからこそ――彼らが牙をもがれて立ち止まるその一瞬の隙に、我が国は己の足で立つ『形ある工業力』を、この国自前の製鉄所を、何が何でも築き上げねばならんのです」
「……それにしても姫様は、本当にお詳しいですな」
小栗が、初めて少し違う声で言った。今まで静かだった彼の声が、わずかに——警戒、とまでは言えないが——注意の色を帯びていた。
姫君を見る目から、対等な相手を見る目へと、何かが切り替わりつつあった。
「書物を読み、人伝に聞き及んで、しばし心に浮かべてみれば、合点のいくことにておわしましょう」
糸子はあっさりと答えた。
「少し想像すれば——」
福沢はその言葉を繰り返した。笑うべきか笑えないか判断がつかない顔をしていた。
少し困ったような、しかしどこか感心しているような、中途半端な表情で。
「姫様は——アメリカへ行かれたことは、ございますか?」
「さらさら、ございませぬ」
「では、英語を……」
「お言葉を交わすことも、手紙のやり取りをすることも叶いましてございまする」
「えっ……!?」
「それ以外にもオランダ語とフランス語も 解(げ) することが可能にございまする」
「えぇーーーっ!!?」
思わず出た声が、座敷に転がった。
福沢にしては珍しく、素直な驚きだった。御所言葉で話しているこの公家の姫君が、英語以外にも……英語を含めると四カ国語も解すると言った。
「書物と、人伝に聞き及ぶこと……。それと、しばし心に浮かべてみれば——大筋は合点のいくことでございますよ」
「大筋は……」と言った。この姫君は。
その「大筋は」という表現が、福沢の頭の中で引っかかった。謙遜ではない。大筋は把握している、細部は別として、という言い方だ。
それは実際に行ってきた自分たちへの、ごくさりげない比較でもあった。
あるいは比較というよりも——自分には見えていたはずのものが、この少女にも見えていたという、静かな確認だった。
「……姫様」
福沢は少し改まった。
「では、姫様はメリケンをどのようにお考えで?」
「とても特別なことだとは存じますよ」
「そうでございましょう!!」
「なれど……」
「でも?」
「先程も申し上げた様に、有り難がるべきものとも思し召しませぬわ」
今度こそ、二人の男の動きが止まった。
五
「——私が…有り難がって…いる…と……?」
福沢が繰り返した。音節をひとつひとつ確かめるように、ゆっくりと。
「はい」
糸子の声は変わらない。穏やかで、のんびりとしていて、しかし言葉の意味だけは確かに削れている。刃物を布に包んだような——柔らかい外側と、鋭い内側の話し方だ。
座敷の端で、近藤勇だけが客観的にその状況を把握していた。帰国したばかりの博識の蘭学者と、国家の実務を担う幕吏が、揃って公家の少女に向かって目を合わせている——という状況の、奇妙な逆転を。彼の口元が、微かに動いた。
「異国の先進性に目を奪われ、それが『最初からそこにあった完成された神話』であるかのように錯覚してしまう。それこそが、有り難がる…ということでございますよ。
メリケンとて、西洋に追いつきしはほんの一世代か二世代の間のこと。『メリケンに成り立ちしことは、日本にても叶う』と、そう申し上げたいのでございます。
設計が在らば習得も叶い、習得できれば改良もあそばせましょう」
「……」
小栗は何も言わなかった。
この少女の言葉を、否定したい気持ちと、信じたい気持ちが、同時に自分の中にある。それが奇妙だった。
「それに」
糸子が続けた。
「メリケンに引けを取らぬものも……いいえ、優りておりますものも、日本にはございますよ」
「……どのようなものが?」
「例えば歴史、でございましょうか。幾星霜を経て積み重ねてきた文化と、技の蓄積という意味において。それから——」
一拍あった。
「例えば——数学、でございましょうか」
六
福沢が思わず眉を上げた。
「数学……?」
「西洋数学…洋算のことでございます」
「洋算はたしかに体系が整い、優れたるものとお見受けいたします。されど——日本独自の和算のほうが、ある部分においては先を行っていたのでございます」
「和算が……西洋数学より……?」
「驚きあそばしますか」
「驚きます…と申しますか——」
「例えば、つい最近西洋にて発見されたと申されております、洋算の公式がございまする」
「はあ」
「和算においては、とっくの昔に解き明かされておりますからねえ」
「……とっくの昔……に?」
「関孝和と申す御仁を、ご存知でありましょうか?」
「関孝和先生の名は、もとより聞き及んでおります。我が国の至高の算聖……。されど、それが洋算の何に並ぶかまでは……」
福沢は少し恥じ入るように言った。最先端の知を追う蘭学者として、自国の和算を「過去の遺物」と侮り、その真価を見くびっていた己の浅はかさが、今この瞬間、鋭く刺さった。
「小栗殿は?」
「名前は聞いたことがあります」と小栗は短く言った。
「江戸時代初期の和算家にござりますね」
糸子の声が、この話題においては少し温度を上げた。別に熱狂しているわけではない。
ただ、確かな地面の上に立っている人間の、安定した声だ。
「西洋にて後に見い出される行列式の算用を、関孝和はそれよりも早う、独力で解き明かしております。また——今まさに西洋の高名な学者が発見したと誇らしげに喧伝されております、数列の和に関する極数の公式も」
「極数……と申しますと?」
「西洋ではベルヌーイ数と呼んでいるものでございます。この公式——我が国の和算家・関孝和先生、そして建部賢弘先生たちが、百五十年も昔に解き明かしておりましたのよ。括要算法という書物の中に、とうに記されておりまする」
沈黙があった。
短い沈黙だったが、密度の高い沈黙だった。
「……百五十年」
福沢が繰り返した。
「百五十年前に」
「さようです」
「西洋の——」
「ベルヌーイ数が西洋で発見された、とされるよりも前に、日本の和算家が同じ場所に辿り着いていた。西洋の国にて誰ぞがしら見つけたと騒がれておるものも、日本ではとうに辿り着いておることなど、ままあることにございます。されど——」
糸子はそこで少し間を取った。
「閉ざされた国にて磨かれし 術(てだて) は、外つ国へ洩れ出づることなきゆえ、誰も知る由もございませぬ。誠にもったいなき話にございますれば」
座敷に、静寂が下りた。
白檀の香りが、じわりと鼻の奥に来た。火鉢の炭が、小さく爆ぜた。それだけが音だった。
福沢は、しばらく黙っていた。
こういう沈黙を、彼は経験したことがなかった。論破されたわけではない。事実を否定されたわけでもない。
しかし——自分が「大きく重要なこと」として語ってきた話に対して、「それはそうですが、でも」という切り返しを、公家の少女にこれだけ淡々と行われた経験が、彼には一度もなかった。
アメリカで見てきたものの大きさを、まだ自分は信じている。しかし——それを絶対視していた自分の一部が、今この瞬間、確かに揺らいでいた。
七
「あの……」
気がつくと、福沢の口が動いていた。
「姫様に、一つ伺いたいのですが」
「いかなることにて、ございましょうや?」
「ワシントンの子孫の話を驚かれなかったのは……本当に書物で知っていたからですか?」
しばらく間があった。
火鉢の炭が、また小さく爆ぜた。
「……書物と、心に描きし幻にございます。さように申し上げましたものを」
「その想像の精度が……」
福沢は少し笑った。自分でも気づかないうちに笑っていた。おかしいというわけではない。どこか、降参したような笑い方だ。
「少し、常人の域を超えているような気がいたしまして……」
「まぁ!」
御簾の向こうで、何か柔らかい音がした。笑い声というには静かすぎる、しかし確かに笑みに近い何かだ。
「お二方ほどには及びませぬ。わたくしは真に海を渡り、異国の地を踏んだわけではございませぬゆえ」
(転生して、この時代に来てしまいました…とは絶対に言えんもんなー。つらたにえん……ですよ)
そこには謙遜がなかった。
糸子は、開き直るしかなかった。
八
炭が静かに崩れた。
火鉢の中で、赤く熾っていた炭が、少し形を変えた。その音がやけに大きく聞こえて、福沢は我に返った。小栗は、まだ御簾を見ていた。
先ほどから、小栗の眼が少しずつ変わっていた。最初は「公家に何がわかる」という色を帯びていた。
次に「意外と話が通じる」という色になった。先ほどから、彼の眼は何か別のものを探していた。懐の中から、ゆっくりとネジを取り出す。
指先で螺旋の刻みをゆっくりとなぞりながら、彼は静かに言った。
「姫様」
「はい」
「姫様。先ほど、この国に足りぬのは『富の集め方』と『仕組み』とおっしゃいましたな」
「……さようにて、ございまする」
「姫様は——その解決策について、何かお考えがあって、今日お呼びになったのですか?」
九
一瞬の間があった。
「……さて、それはどうでございましょうねえ」
糸子の声が、また穏やかなのんびりした調子に戻った。
しかし今度は、その「のんびり」の中に、何かが隠されていた。
隠されているというより——まだ話すべき時ではない、という判断が、その調子の中にある気がした。
「姫様は——」
小栗が言いかけて、止まった。
何を聞くべきかを、考えた。聞き方によっては、この少女は答えないだろう、という予感があった。
正確には——答えを引き出すための問い方を間違えると、のれんに腕押しのような返事が来るだろうという、根拠のない確信があった。
「……一つ、伺わせてください」
小栗は改まった。
「姫様がお考えになる、この国の急務は——何でございますか。製鉄所でもなく、精神の自立でもなく——最も急ぎやるべきことは」
「あら」
糸子の声が、少し明るくなった。褒めたわけではない。ただ、良い問いだ、という響きがあった。
「良いお問いにてござります」
しばらく間があった。
福沢も小栗も、その間を乱さなかった。
火鉢の炭が、また爆ぜた。
「情報でございます」
糸子は、その一語を置いた。
「情報……」と二人は揃って繰り返した。
「それは……先程私が話した新聞のことでしょうか?」
福沢が言った。
「さようでござります」と糸子は答えた。
「この国に足りぬのは——物の力でも、心の力でもなく、まず『知る力』でございます。
誰が何を持ち、何が起きているかを、速く正確に広く知ること。新聞があれば、情報の不透明さで幕府がこれほど脆く崩れることはなかったはず。
情報の流れが滞っていることこそが、最大の弱点にございます」
小栗は初めて、その顔に何か——苦い、しかし確かな承認の色が浮かんだ。
「……帰国後すぐに、新聞の発行を幕府に建言しました。却下されました」
「存じております」
「なぜ――」
「先ほども申し上げた通り、堀田様より」
「……なるほど。あの方であれば、そこまで見据えておられたか」
糸子の声は、柔らかかった。どこか遊んでいるようでもあり、しかし本気でもあった。
「却下された際に、小栗殿は何とお考えになりましたか」
「……自分の意見が受け入れてもらえぬ、悔しさです」
「小栗殿の胸中にあった悔しさ、今こそ活かさねばなりませんね」
その一言が、座敷に落ちた。
重い一言だった。
十
「姫様」
福沢が口を開いた。
声が、先ほどまでとは変わっていた。熱弁を振るっていた時の声ではない。もう少し低く、もう少し真剣な声だ。
「本日、姫様のお話をうかがって——私は自分が正しいと信じていたものの、いくつかが揺らぎました」
「まぁ…」
「揺らいだことを、良いことだと思っております。正しいことを言われた、ということですから。ただ——」
福沢は少し間を置いた。
「姫様が仰ることは分かります。アメリカの光と影を、両方見ること。模倣から始まった技術を、過剰に崇めないこと。和算に代表される日本の地力を信じること。それは全部、正しい」
「……しかし!」
「しかし——知りながら動けない、ということが、この国では起きています」
福沢の声に、今度は別の種類の熱が混じった。先ほどの熱弁とは違う。もっと沈んだ、しかし確かな熱だ。
「分かっている人間が、動けない。正しいことを言う人間が、聞かれない。
幕府は正しい提言を切り捨て、民は知識を持たず、志のある者が孤立する——姫様はそれを、いかようにお考えですか」
沈黙があった。
今日一番の、長い沈黙だった。
御簾の向こうで、糸子は少し考えていた。考えた、というより——どこから答えるかを選んでいた。
(この人は、諦めていない)
それは糸子には分かった。熱弁の人だと思っていたが、その奥に、もっと静かな、もっと長い覚悟がある。
「福沢殿は——これから何をなさいますか」
「……塾を、開きたいと思っております」
小栗が、初めてその話を聞いたように少し眉を上げた。
「学校…でございましょうか?」
「学校というより——考え方を伝える場を作りたいのです。知識ではなく、考える習慣を。
門閥に関係なく、学びたい者が学べる場を。それが精神の自立への最も確実な道だと思っております」
「それは……」と糸子が静かに言った。
「長い道のりでございますわね」
「はい」
「しかし——他に道がない、とお考えですか」
「……他にも道はありましょう。なれど、わたくしが歩める道は、それだけでございます」
糸子は、しばらく答えなかった。
やがて、御簾の向こうで小さな音がした。打掛の裾が揺れる音か、扇が開く音か——どちらとも判別がつかない音だ。
「それで、よろしゅうございまする」
糸子が言った。
「各々が、各々の歩ける道を歩く。それが積み重なって、やがて——」
「やがて?」
「いざ。百年も先のことなど、わたくしの知る由もございませぬ」
糸子は、そこでやっと少しだけ笑ったような声を出した。
「なれど、百年の先は、百年先の人間が案じればよいことにございます。今しかなし得ぬことを、今の者が果たす。それだけで、十分にございます」
十一
「歴史も…」
糸子が、もう一度言った。
「理の筋道においても――日本が後れを取るようなることなど、一つとしてござりませぬ」
その言葉が、座敷に落ちた。
「足りぬのは——『規格』という仕組みと、それを動かす『富』の集め方だけでござりましょう。
西洋絶対主義に盲目になり、自国の地力を信じられぬようでは、それこそ異国の思う壺でございまする」
二人の男は、黙っていた。
黙って、御簾を見ていた。
福沢は——この少女が怪物だと思った。良い意味で。知識の量ではない。自分も知識は持っている。
この少女の何かが違うのは——知識と現実と、未来の見通しを、一続きのものとして扱う能力だ。見て来た者の視点と、見ていない者の視点を、両方持ち合わせているような。
小栗は——もっと違うことを考えていた。この少女は、自分が今抱えている問題の核心を、正確に知っている。
情報として知っているのではなく、構造として理解している。幕府の老中たちが、なぜこの姫君に話を通じてきたのか。
(なるほど……)
小栗の中で、何かが繋がった。
「姫様に、一つお願いがございます」
小栗が、静かに言った。
「はて……何事にござりましょうや」
「横須賀製鉄所の計画について——詳しくお話する機会を、いつかいただけますか。
今日だけでは、私が聞きたいことの半分も聞けておりませぬ」
「あら……」
糸子の声が、また少し明るくなった。
「それは過分なる幸福に存じます。小栗殿はてっきり、今日限りのゆかりと思し召しとばかり思っておりましたものを。」
「いいえ」
小栗は初めて、はっきりと言った。
「今日だけでは、全く足りませぬ」
「……さようでございますか」
御簾の向こうで、わずかな間があった。
「さらば——またの巡り合わせを待つことといたしましょう。されど、本日のところは――」
「もう一つ、だけ」
今度は福沢が言った。
「……いかなることでございますか」
「ウェブスター辞書で翻訳しようとしている『自由』と『権利』という言葉——御所言葉では、どう訳しますか」
静寂があった。
それから、御簾の向こうでまた小さな音がした。
くすくすくす……
今度は明らかに、笑い声だった。
抑えた、小さな笑い声だ。しかしそれが、今日初めて聞く、糸子の素の声のような気がした。
……いとおかしきお尋ねであそばしますな、福沢殿」
「姫様は——お分かりですか」
「いざ。まことに難しきお尋ねでおわしますこと」
また間があった。
「『自由』は——あるいは、おのずからなる心の向かうところ…とでも申しましょうか。御所言葉に写しますのは、なかなかに骨が折れますわねぇ」
「心の向かうところ……」
「理が先にございまして、言の葉は後からついて参るもの。まず、日本の民がその理を心に 得(う) るようになれば――言葉は自ずから生まれいづるものでございます」
福沢は、それを聞いて少しの間黙った。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……それは、仰る通りです」
第百七話 了