軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百八話「驚愕と敗北、そして差し出された『設計図』」

座敷が、静まり返っていた。

先ほどまで言葉を尽くしていた二人の男が、今は黙って御簾を見ている。

火鉢の炭が小さく爆ぜる音が、その静寂をかえって際立たせた。白檀の香りは相変わらず底から立ち上ってくるが、それさえも今は、どこか遠いところの匂いのように感じられた。

関孝和、百五十年、ベルヌーイ数。

その言葉が、二人の頭の中でまだ反響していた。

福沢諭吉は、膝の上に置いた両手を、じっと見ていた。この手でウェブスター辞書をめくった。この手でメリケンの書物を次々に繰り、書き写し、日本に持ち帰った。蘭学者として、この国で誰よりも西洋の知識を持っていると、密かに自負していた。

その自負が——今、静かに、しかし完全に、崩れていた。

崩れたというより、溶けた。爆発でも衝突でもなく、ただじわりと溶けていく、あの感覚だ。

(この姫君は……何者だ?)

何者だ、という問いの答えを、福沢は持っていなかった。近衛家の姫君、という答えは知っている。しかしそれは「何者か」の答えにはなっていない。

額に、汗が浮いていた。

初春の座敷に、三つの火鉢があるとはいえ、それほど暑いわけではない。しかし、汗が出ていた。着古した木綿の着流しの、首のあたりが、じわりと湿っていた。

小栗忠順は、懐の中のネジを握りしめたまま、動かなかった。

指先が、螺旋の刻みを感じていた。均等な、機械の刻みだ。工廠の床に落ちていた、あのネジと同じものだ。日本では手作りでしか作れないものを、あちらでは機械が一日に何千と生産する——その事実を、自分は「圧倒的な差」として語った。

しかしこの少女は言った。

「模倣より始まりたる」と。

「越えられぬ壁ではない」と。

そして——関孝和の話を出した。西洋が誇りとする数学的発見を、日本の和算家が百五十年前に解き明かしていた、という事実を。

ネジを握る手が、わずかに震えていた。焦燥ではない。今度は違う。何か——確認するような、あるいは恥じ入るような——そういう震え方だった。

(この国を信じていなかったのは、私の方だったか)

小栗の中で、何かが静かに動いた。

御簾の向こうでは、糸子が手元のお茶を一口だけ啜った。

宇治の濃い緑茶だ。少し渋みの勝った…しっかりした味だ。舌の上にじわりと広がるその苦味が、熱くなった頭を心地よく冷ましてくれる。二人の男の沈黙を、こちら側から聞いている。

(……伝わって、くれたでしょうか)

糸子は心の中で、小さく息を吐いた。

二人を言い負かしたかったわけではない。彼らがメリケンに渡り、その文明の巨大さに圧倒され、言葉を失ったのはよく分かる。実際に目で見た者にしか分からない絶望が、そこにはあったのだろう。

けれど、だからといって「異国万歳」で思考を止めてほしくはなかった。西洋が凄まじいのは事実だが、この日本という国が、彼らに劣る出来損ないの国だとは、糸子にはどうしても思えなかった。

ネジが作れないなら、作れる仕組みを今から学べばいい。真似ることから始めればいい。関孝和が証明したように、この国の人間には、西洋の天才たちと同じ深さまで辿り着けるだけの、極上の知性と可能性があるのだから。

(あなた方は、誰よりも早く世界を見てきた本物だ。だからこそ、その鋭い目を、自国を諦めるために使わないでほしい。この国の可能性を、どうか信じてほしいのです)

御簾の向こうの静寂は、拒絶のそれではない。

二人の偉人が、己の足元にある「日本」という大地の固さを、今まさに確かめようとしている——そんな確かな手応えが、糸子の胸をじんわりと満たしていた。

パチリ、と音がした。

扇を閉じた音だ。

その音が、静まり返った室内に、小さく響いた。

「福沢殿」

糸子が、口を開いた。

声の色が、変わっていた。

先ほどまでの「穏やかな刃」の声ではない。もう少し——低く、しかし温かい。冷徹な論破から、別の何かへと、声音が滑らかに切り替わっていた。

「顔を上げなさりませ」

福沢は、ゆっくりと顔を上げた。

御簾の向こうに、淡い萌黄の色がある。打掛の裾が、静かに畳の上に広がっている。その向こうに少女がいる、という事実を、福沢は改めて確認した。

「わたくしは、皆さまの命を賭したる見聞を、無体な難癖にて汚すために呼び立てたのではございませぬ」

「……はい」

「メリケンなる遠き国へ渡り、その眼に焼き付け、身に刻み……その尊き重みを持ち帰られた。それはまこと、この世に二つとない、得難き宝にてございます。」

福沢は、少し意外だった。

論破されると思っていた。あるいは、もう少し続きがあると思っていた。しかしこの言葉は——承認だ。遅れてきた、しかし確かな承認だ。

「ただ」と糸子は続けた。

「命を削りて見極めたる光……その眩き輝きに目を奪われ、添い遂げる影を見落とすは、あまりに勿体なきことにございます。わたくしは、ただそれだけを……それだけを、申し上げたかったのでございます。」

「……仰る通りです」

「さようにて」

糸子の声に、かすかな温度が上がった。

「そこで一つ、お聞かせ願いたいことがございます」

「何でございましょう」

「……時に、福澤殿。今、その懐に、何をお持ちでおいでですか」

福沢の肩が、一瞬上がった。

「懐……に?」

「左様にて」

何かを確かめるように、福沢は自分の懐に軽く手を当てた。そこに何があるか、自分では分かっている。しかしなぜこの少女が——

「ウェブスターの大辞書……と、もう一冊、版木を彫らせ始めたものがございましょう」

「——!」

福沢は、わずかに飛び跳ねた。

正確には飛び跳ねたわけではないが、膝が畳から浮くような——体の芯が一瞬、跳ね上がるような感覚があった。

増訂華英通語。上海経由で入手した、英語と中国語の対訳辞書に、自分なりの注釈と日本語を加えて版木に彫り直させている、あの本だ。まだ誰にも話していない。帰国してから、ひっそりと進めている作業だ。

「なぜ……」

「書物を通じて、人伝に」

糸子はあっさりと言った。

しかしその「あっさり」の中に、今回は何か別のものが混じっていた。

(前世の知識、というやつね)

糸子は内心でそう思いながら、表向きは穏やかに続けた。

「福澤殿は……得られたる知恵を独り占めにし、おのれ一人の喜びとなさるような、浅ましきお方ではございませぬ。」

「……と、申しますと?」

「得られたる知をあまねく広め、学びしことを人に分かち与える……。そなたは、そのことにこそ、この上なき悦びをお感じになる御仁に相違ございませぬ。」

福沢は、また黙った。

否定できなかった。

帰国してから、仲間に語り、学友に語り、通りがかりの蘭学者の卵に捕まって酒の席で三刻喋り続けた——その全ての根っこに、確かにそれがあった。広めたい。知らせたい。この興奮を、一人でも多くの人間と共有したい。

「それこそが、あなたの真の『器』、逃れようもなき本質にござりましょう」

糸子の声が、静かに言い切った。

「その辞書に、カタカナで発音を付けなさりませ」

糸子は続けた。

「え?」

「英語の単語の横に、生きた音を——カタカナで書き添えるのです。これまでのオランダ通詞が作ったものとは、根本から違うものを作りなさりませ。読んで意味が分かるだけの辞書ではなく、声を放てば心通じる真の響きを、日本にあまねく広めるための辞書を」

福沢は、しばらく黙っていた。

カタカナ発音。

その発想は、自分の中にもあった。あったのだが——実現の方法が見えなかった。版木を彫るだけでも資金が要る。印刷して広めるにはさらに要る。一蘭学者の資力では、限界がある。

「出版のための資金は…?」

糸子の声が続いた。

「……案ずることはございませぬ。すべて、このわたくしが引き受けましょう」

「…………」

「天朝物産会所より金は出させましょう。版木代も、刷り代も、流通のための費用も——すべて」

福沢は、声が出なかった。

出版費用が全て出る。資金の心配なく、思う存分作れる。思う存分、広められる。

「……されど、それだけではございませぬ」

糸子は続けた。今度は声に、少し別の色が混じった。計画を語る人間の、静かな熱だ。

「わたくしが作った商務語学所に入り、村田蔵六殿と共に——カリキュラムをお作りなさりませ」

「カリキュラム……?」

「門閥に関係なく、実力ある若者が世界と戦えるための、教育の仕組みでございます。英語だけではなく、数学、物理、経済——この国の若者が、西洋列強と真正面から向き合うために必要な『知の基盤』を、そなたに……そなたの手で、底上げしてもらいたいのでござります」

座敷に、静寂が落ちた。

火鉢の炭が、また爆ぜた。

福沢は——御簾を見ていた。

淡い萌黄の色が、その向こうにある。薄い竹の格子越しに、打掛の裾が静かに広がっている。

自分がやりたかったこと。いや、やりたかった「それ以上」のものが、今、完璧な形で目の前に提示されていた。場所がある。資金がある。仲間がいる。そして——明確な使命がある。

「そなたには、この国の『知の基盤』を底上げする義務がございまする」

その言葉が、福沢の胸の中に落ちた。

義務…と言った。お願いでも、依頼でもなく——義務と……

おかしな話だが、その言い方が、かえって福沢の気持ちに火をつけた。権利があるのではなく、義務がある——それは正しかった。正しいと思えた。

(この少女は……私が何者かを、私より正確に知っている)

その事実が、今の福沢には怖かった。

しかし怖さよりも——もっと大きな何かが、今、胸の中に燃え上がっていた。

御簾の向こうで、糸子は少しだけ息をついた。

(諭吉さん、答えておくれー)

内心では、完全に現代人の語彙で考えていた。前世の百貨店時代に数多くの上司、同僚、部下や取引先の人間を見てきた目が、今日初めてはっきりと「この人材の適所」を確認した。

福沢諭吉は、教育者だ。表現者だ。知識の伝達に最高の快感を覚えるタイプだ。そこに「場所」と「資金」と「使命」を与えれば、自ら動く。むしろ止められない。

問題は次だ。

糸子の意識が、静かに隣へと移った。

「小栗殿」

声が、また変わった。

先ほどより一段、硬い。柔らかさを取り除いたような——鍛えた刃のような声だ。

「はっ…」

小栗の返事は短かった。一音だけ。しかしその一音に、準備完了の色があった。

「横須賀にフランス式の製鉄所を建てる計画」

「……はい」

「幕閣に『異国の妄言』と一蹴され、予算もつかず——さぞや、口惜しき思いをなさっておられましたな」

小栗の目が、わずかに血走った。

「なぜ、それを——」

「近衛の耳は、そなたが思うよりもずっと、広うございます」

糸子は端的に言った。事実ではあった。

ただ、近衛家の諜報網の話だけではない。前世の歴史知識として、小栗忠順がこの時期に何を考え、何に阻まれていたかを、糸子はすでに知っていた。

「悔しゅうございましたでしょう…」

「……」

「妄言、と言われ申した」

小栗の顎の筋肉が、わずかに動いた。その言葉を思い出したとき、必ずそこに力が入るのだと——先ほど糸子は気づいていた。

「幕府の老中の方々に見えないものが、あなたには、まざまざと見えておいでであった。メリケンで実際に見てきたものを、見ぬ人間に説き聞かせることの——あの、血の涙を流すような徒の数々……さぞや、お心が削れる思いであったことでしょう」

「……仰る通りです」

小栗の声が、少し変わった。低く、硬い声だ。しかし先ほどまでの警戒とは違う。何か、别の感情が混じり始めている。

「小栗殿は——形を作るお人でござりまする」

糸子は言った。

「設計図を描き、資金を集め、人を動かし、物を建てる。全体構想を頭の中に描いて、それを現実の形にする——そなたは、そういうお方にてございます」

「……」

「思想は、あなたの得意とするところではございませぬな。福沢殿のような言葉の力も、そなたは求めておいでではない。そなたが真に欲しておられるのは——動く仕組みと、それを動かす資金と、そなたを信じ、すべてを委ねてくれる存在、ただそれだけではございませぬか」

小栗は、答えなかった。

しかし、懐の中のネジを握る手が——止まった。

「幕府の財布など、頼りになさるな」

糸子は続けた。

声に、今日初めて、はっきりとした命令の色が入った。穏やかではない。しかし乱暴でもない。目の前の人間を信頼しているからこそ言える——そういう種類の言い切りだ。

「……幕府の勘定所が頑に首を縦に振らぬと申すなら、他に道はございます」

「別の道……」

「わたくしの天朝物産会所が——大坂、江戸、長崎の豪商たちと組みます。株の仕組みを使い、民間の資本を広く集めるのです。幕府の事業ではなく、天朝と幕府の共同計画として対外的に位置づければ——フランスの技師を呼ぶ交渉も、これまでの比ではない、まこと重き響きを以て進められましょう」

小栗は、黙って聞いていた。

目が、少し変わった。先ほどまでの「血走り」ではなく——計算の色が入り始めた眼だ。数字を積み重ねる、あの眼だ。

「私が先ほど福沢殿に話した資本(株)集め……ですか」

「はい、左様でございます」

「幕府でも、どこか一人の豪商でもなく——多くの者が少しずつ資本を出し合い、事業が利益を生めば、出した分に応じて利益を受け取る。リスクを分散し、大きな資本を集める仕組みでございますね。商社(Company)という概念を、既に小栗殿はメリケンで見て理解しておられましょう」

「……はい」

「それを、この横須賀の事業に注ぎ込むのです。幕府ひとりで資金を抱える必要はございませぬ。天朝と幕府と商人が、それぞれの立場で関わる——その貌を成せば、たとえ一柱が揺らぐとも、他がこれを支え、守り抜きましょう」

小栗は、しばらく沈黙していた。

沈黙の中で、頭が動いていた。資金の流れを。人員の配置を。フランス側との交渉の構造を。

糸子の言っていることは——実現可能だ。理想論ではない。具体的な仕組みだ。

それを、この少女は——

「されど……」

糸子の声が続いた。

「これには条件がございます」

「……何でしょう?」

「その製鉄所には、ただの工場ではなく——職人を育てる学校を、必ず学校を併せ設けること。これこそが、わたくしが課す第一の約定にございます。」

「学校を……?」

「フランスの技師を呼ぶのは、あくまでも最初の一歩にすぎませぬ。その技術を、この国の人間が自分のものにしなければ——いつまでも異国に頼り続けることになる。学び舎がなければ、工場は工場でしかない。されど、学び舎あらば……工場は次なる職人を、次なる時代を、絶えず生み出す真の『根』となるのです」

小栗は、ゆっくりと頷いた。

自分も同じことを考えていた。横須賀に製鉄所を建てることの目的は、建物を作ることではない。この国に「作れる人間」を育てることだ。それが正確に言語化されて、目の前に置かれた。

「それから……」

糸子が続けた。

今度は声が、少し変わった。

何かを取り出す動きがあった。

御簾の向こうで、帳面を手に取るような気配だ。

「小栗殿。その一本のネジを、ただの記念品にしてはなりませぬ」

「ネジの……規格を、全国的な統一しなさりませ」

糸子は、静かにその言葉を言った。

小栗の目が、動いた。

「全国的な…規格……と仰いますと?」

「今の日本では——薩摩で作ったネジと、長州で作ったネジと、幕府が作ったネジが、それぞれ別の寸法をしているでしょう。螺旋の溝の間隔——英語で言う…ピッチが、どこでも不揃いでございます」

「……それは、そうですな」

「それでは、大量生産はできませぬ。量産品の部品が互いに噛み合わなければ、工場を作っても意味がない。薩摩の船に長州のネジは使えず、幕府の機械に薩摩の部品は入らない——そういう状態では、規模の経済が働かない」

小栗は、懐の中のネジを、また取り出した。

(メリケンではイギリスが考案した『ウィットねじ(ねじ山角度55度)』が広く使われ、これを参考に造られていた……)

今度は誰かに見せるためでも、考えるための儀式でもなかった。

確認するために出した。

指先で螺旋の刻みをなぞりながら、小栗は糸子の言葉を聞いていた。

「幕府の権限を使い——今すぐ、日本全国のネジのピッチを統一する命令を出させなさりませ。薩摩のネジも、長州のネジも、幕府のネジも、すべて皆同じ寸法にて違ふことなきやうにせさせ給ふのです」

「それは……」

「規格の統一が、大量生産の絶対の土台にてございます。これなくしては、どれほど精巧な機械を建てても、工場が孤島になるだけにてございます。これを成せるのは——勘定奉行並の権限を持ち、幕府の内側を知り尽くした、あなたをおいて他にはおりませぬ」

小栗は、ネジを握りしめた。

頭の中で、何かが展開し始めていた。

規格の全国統一。ピッチの標準化。全国のモノづくりに同じ「基準」を適用する。それができれば——薩摩で作った部品が江戸でも使える。長州の鍛冶師が作ったものが、幕府の軍艦に載る。部品の互換性が生まれれば、修理も補給も、全く別の次元で可能になる。

(なぜ、この発想が自分にはなかった)

小栗は、内心で自問した。

メリケンで、何千というネジが同じ精度で作られているのを見た。しかしその「同じ精度」の意味を——「同じ規格」という言葉で捉えていなかった。自分は「精度」に驚いていた。しかしこの少女は「規格」として見た。

精度は結果だ。規格は仕組みだ。

仕組みを先に作れば、精度は後からついてくる。

「この帳面に」

糸子が言った。

御簾の向こうで、紙の音がした。

「日本でいずれ統一すべきネジの規格と、それに伴う大量生産の仕組みについて、大まかな考えを書き付けて参りました。いまだ整わぬ筆の跡にてございますが——小栗殿の御目に掛けたく存じます」

「……いただいても、よろしゅうございますか」

「そのために筆を執りたてまつったのでございます」

御簾の端から、帳面が差し出された。

近藤勇が、それを静かに受け取り、小栗の前に置いた。

小栗は、帳面を開いた。

美しい文字で、整然と書かれていた。図が添えられている。ネジの断面図と思われるもの、そして数字が並んでいる。寸法の単位。溝の角度。ピッチの計算式。それから——資金の流れを示した図と、工場の建設から運営までのスケジュールの骨格。

小栗は、しばらく黙っていた。

目が、帳面の上を動いている。速く、しかし確実に、内容を読み取っていく。

読み進めるほどに、小栗の表情が変わっていった。驚き。困惑。そして——静かな衝撃だ。

これは——設計図だ。

工場の設計図ではない。産業の設計図だ。

一つの工場を建てることではなく、この国のモノづくりの根底に「共通の基盤」を作ることの——設計図だ

(この姫君は……ただ船を造りたいのではない)

小栗は理解した。

国の殖産構造そのものを、変えようとしている。

「少し前……」

糸子の声が、静かに続いた。

「幕府が製鉄所の話を却下した際——小栗殿は如何なることと仰せになり始めたのでしょうか」

小栗は、帳面から目を上げた。

「……妄言と言われた、と思っておりました」

「それだけでいらっしゃいますか?」

「……予算がない、とも」

「いかなれば予算がなかったのか、お考えを巡らせてみたことはおありでしょうか」

「幕府の財政が——」

「財政の事のみには、ございません」

糸子が、静かに言い切った。

「何を作るかは分かった。なぜ作るかも分かった。しかし——誰が、どのような資金で作り、その後はいかように執り行うべきか、老中の面々に、詳しく解き明かして言い聞かせられたのでしょうか」

小栗は、口を閉じた。

「……」

「説得しきれなかった、ということでいらっしゃいますね?」

それは責めではなかった。確認だ。

「いかなれば——資金調達の仕組みが、まだ整っていなかったからでございます。株の仕組みも、民間資本の活用するという発想も、この国にはまだ存在していませんでした。だからこそ、幕府は予算を出すことができなかった。それどころか、予算を捻出する方法さえ、お分かりにならなかったのでございます」

「……仰る通りです」

「されど、これよりは——仕組みがある。天朝物産会所が、その仕組みを調えましょう。小栗殿は、工場と学校を建てることだけに、御心を尽くされれば、それでよろしゅうございます」

小栗は、帳面を見た。

設計図が、そこにある。資金調達の仕組みも、そこにある。職人育成の学校計画も、そこにある。

全部、揃っている。

自分がこの何年も頭の中で描き続けてきたものの——全てが、この帳面に書かれていた。いや、正確には書かれているだけではない。自分が考えていなかった角度が、いくつも加わっていた。

(この姫君は……私より先を見ていた)

「規格統一は」と小栗は言った。

「今すぐ、始められますか」

「小栗殿がお動きになれば、成し得ることにてございます。幕府の権限を使い、まず勘定所と軍艦奉行へとお含め置きを。次いでは——各藩の鍛冶師たちへ、統一規格の基準を示す必要があります。その文書の草稿は、帳面の後半に認めておきました」

小栗は、帳面をめくった。

後半に、確かにそれがあった。幕府の御触れ書きの形式を模した文体で、ネジの規格統一を命じる文書の草稿が、丁寧に書き記されていた。

「……この文書は」

「それはあくまで草案にございます。小栗殿が実際に動かすにあたり、時宜に合わせ、お直しくだされませ。わたくしの言葉ではなく、小栗殿の言葉として世に出されねば——何ほどの意味もなきことにございますれば」

小栗は、しばらくの間、黙っていた。

頭の中で、計算が動いていた。資金の流れ。人の動かし方。幕府内部の根回しの順序。どの老中から攻めるか。どこで摩擦が生じるか。それをどう回避するか。

全部——見えた。

今まで見えなかったものが、今日初めて、全部見えた。

「——姫様」

小栗が、改まった声で言った。

「いかなることにて、おわしまするや」

「一つ、お聞きしてよろしいですか」

「はい、」

「なぜ——私に、これを」

糸子は、少し間を置いた。

「これを成し遂げ得るは、小栗殿、貴方をおいて他にはいらっしゃいませぬ。ただ……それのみにございまする」

……実に簡単な答えだった。

しかし、その「それだけ」の中に——この姫君が、自分を正確に見ていることへの、確かな信頼が込められていた。

座敷に、長い沈黙が落ちた。

火鉢の炭が、またゆっくりと形を変えた。赤く熾った炭が崩れる小さな音が、静寂の中に転がった。白檀の香りが、底からじわりと立ち上ってくる。

福沢諭吉は、膝の上に両手を置いていた。さっきまで汗ばんでいた手が、今は別の熱を帯びていた。興奮の熱だ。

(天朝語学所。カタカナ辞書。資金は全部出る)

頭の中で、それが回り続けていた。出版費用の心配なく、思う存分作れる。作ったものを、広められる。村田蔵六殿と共に教育の仕組みを作る。門閥に関係なく、実力ある若者が世界と戦えるための——知の基盤を。

自分が夢見ていたことが、全部そこにある。

いや、夢見ていたことより——遥かに大きな形で、そこにある。

(この姫君は……私が何をしたいかを、私より先に知っていた)

その事実が、今の福沢には——恥ずかしいよりも、有り難かった。

「……福沢殿」

糸子の声が、また来た。

「はい」

「顔色が少し、健やかになられましたな」

「……気づいておられましたか」

「さようにて」

「先つ頃までは、いささか青ざめていらっしゃったのに」

「そうでしょう。恥ずかしゅうございました」

「恥などと、仰いますな。いささかも、左様なことはございませぬ」

糸子の声は、穏やかだった。

「 貴方(あなた) は偽りなく、目の当たりにされたることを語りおかれた。そこに、恥ずべきことなど何ほどもございませぬ。たとえ見落としたる儀ありたればとて——今日そのことに心を寄せられたるなら、それにて、優れて十分にございましょう」

「……はい」

「それから」と糸子は言った。

「初めより申し上げておくべきことにございましたが——あなた方が命がけで見てきたものは、この国にとって、誰も持っていない財産にてございます。わたくしがいかに書物を読もうとも、思いを巡らせようとも——まことに御目に焼き付け、身を以て感じられたる経験には、ゆめゆめ及ぶものではございませぬ」

「……」

「それゆえにこそ——その尊き経験を、貴方様方の内のみに留め置かれるは、あまりにも勿体なきことにございます。広く世に知らしめてくださりませ。若き人々へ、語り伝えてくださりませ。それこそが、今この国が貴方様方に最も求めている、本当の役割なのですから」

福沢は、ゆっくりと息を吐いた。

(……この姫君は、怒っていなかった)

そうだ。論破されたと思った。完全に論破された…と感じた。しかし振り返れば——この姫は一度も、怒っていなかった。責めてもいなかった。ただ、正確なことを言っていた。

そして今——正確なことを言い続けながら、前を指し示している。

「小栗殿」

糸子が、再び小栗の方へと声を向けた。

「帳面の最後の頁を、御覧になりましてございますか」

小栗は帳面をめくった。最後の頁に、数行の文字があった。

読んだ。

「……これは」

「製鉄所の話とは、少し別の件にてございます。後日、改めてお話し申し上げる機会もあらば——と思うておりますが」

小栗は、その数行を読み直した。

「戦の機運は確かにあった…メリケンの――南北の戦い……」

「まだ今は詳しくは申し上げられませぬが、メリケンの内戦にて——その際に動く経済の流れを、先読みして動く必要があるかもしれませぬ」

「……いつ日本に来るかわからりませぬが、新しい公使との関係…ということでしょうか?」

「さようにてございます。ただ今日のところは、製鉄所と規格の話のみにて、それで十分に優れておりますから。またの機会に――」

「次の機会を、必ず作ります!」

小栗は、はっきりと言った。

今日一番、力のある声だった。

「作るのではなく——作ってくださりませ、姫様の御都合に合わせて」

糸子は少し間を置いた。

「……左様にて、いらっしゃいますね」

その一言の中に、かすかな笑みの色があった。

(修正を受け入れた。この人は、学ぶ人だ)

糸子は内心で確認した。

プライドと実務能力を持ちながら、正しいことを言われれば素直に受け入れる——それが小栗忠順という人物だと、今日改めて分かった。

「福沢殿」

糸子が、今度は福沢に向かった。

「は」

「教育課程の草案を、いかほどの日数にて、成し遂げられましょうや」

福沢は、少し考えた。

「……一ヶ月、いただければ。村田殿と話し合いながら、骨格だけであれば」

「一ヶ月で骨格を。それで十分にてございます。初めから欠点のない完璧なものを準備する必要はございませぬ。事を動かしながら、直してゆけばよろしゅうございます」

「はい」

「英語の発音辞書は——」

「こちらは少し時間がかかりますが、版木の修正から始めれば……三月余で初版が出せるかと」

「三月余でござりますね」

「はい」

「では——その三月余の間に、出版のための資金の準備をこちらにて進めておきましょう。天朝物産会所の 帳方(かたがた) の面々には、わたくしから言い含めておきますから」

福沢は、また何も言えなかった。

言えなかったが——口元が、少し動いた。

笑い、というには真剣すぎる。しかし、確かに笑みに近い何かだ。この姫君との会話において初めて、 完全に前向きな感情だけで動いた顔の動きだった。

「姫様は——本当に、全部お考えになって」

「決してすべてではございませぬ」

糸子は率直に言った。

「未だ思い至らぬことも、山のごとくございます。それゆえにこそ——貴方様方の知恵を、お借りせねばなりませぬ」

十一

二人の男は、揃って御簾を見た。

プライドは粉々に砕けた。しかし——不快感は、微塵もなかった。

不思議なことだと、福沢は思った。

論破されたときに、相手に対して怒りや反感を覚えることがある。しかし今日は違った。粉砕されたのに、怒りがない。恥ずかしさはある。しかし——その恥ずかしさの奥に、何か別のものがある。

(本物の見識の前では、怒りより先に、感謝が来る——そういうことか)

小栗は違うことを思っていた。

自分より年下の人間に、自分より深くものを見られていた——という事実は、通常であれば、プライドを傷つける。しかし今日は傷つかなかった。それはなぜかを、小栗は今考えていた。

(この姫君が——私の敵ではなく、私の仕事の「土台」を作ろうとしているからか)

そうだ。競争相手ではない。自分が苦労してきたことを、外側から支える存在だ。資金を作り、仕組みを設計し、政治的な文脈を整えて——小栗自身が動きやすいように、地面を固めようとしている。

それが分かったから——怒りではなく、別の感情が来た。

「……姫様」

福沢が、静かに言った。

「はい」

「完敗、にございます」

糸子は答えなかった。

「雛人形のようにそこに座っておられるのかと——最初に思ったことを、今、深く恥じております」

「ふふ」

御簾の向こうで、また小さな音がした。笑い声だ。今日何度か聞いた、あの抑えた笑い声だ。

「お雛様とは、いとも愛でたきものにございますな。勿体なき仕合わせに存じます」

「笑い事ではございませぬ、私にとっては……」

「まぁ!」

「この福沢諭吉の知恵——喜んで差し上げましょう。明日から、そのカリキュラム…とやらを死に物狂いで作って御覧に入れます。村田殿にもすぐ話を通します」

「……かたじけなく存じます」

「礼を言われる側ではないのですが——」

「いいえ」と糸子は言った。

「この国の『知の基盤』を底上げする仕事は——誰が成し得るものでもございませぬ。ゆえに、礼を申し上げるのです。貴方をおいて他には、これを実現できる方はいらっしゃいませんから」

福沢は、また黙った。

その沈黙は、先ほどまでのものとは違った。詰まったのではない。

受け取った言葉が、胸の中に収まるのを待っていた。

十二

「小栗殿」

今度は小栗の番だった。

「ネジの規格統一——そして製鉄所の資金調達。まさか公家のお方から、これほど具体的かつ冷徹な実務を命じられるとは、夢にも思いませなんだ」

小栗は、懐に手を入れた。ネジを取り出した。そして——静かに、畳の上に置いた。

「幕府の老中どもに頭を下げるのは、辞めにします」

「……」

「姫君様。その『設計図』——私が命に代えても形にしてみせます」

御簾の向こうで、糸子は、静かに息をついた。

(どうやらうまく、伝わってくれたようですね…)

そう思った。

この人たちが、もともと持っていた力が、正しい方向を見つけた。それだけだ。

「小栗殿の設計図が、この国のどこかに形として残っていくことを——わたくしは心待ちにいたしております」

「……姫様は」

小栗が、少し違う声で言った。

「一体どういうことでございますか?」

「あなたは——本当に、この国が心配なのですか」

静寂があった。

火鉢の炭が、また爆ぜた。白檀の香りが、底から来た。

「……さようにてございます」

糸子の声は、静かだった。

先ほどまでの「指示する声」でもなく、「論破する声」でもなく——ただ、静かな確認の声だった。

「この国が、この先どうなるかを——案ずるのは、いと恐ろしきことにございます。それゆえにこそ——動き得るお人に、動いていただきたい。ただ……それだけにてございます」

小栗は、ネジを見た。畳の上に置いたそれを。

拾い上げた。

もう一度、懐に仕舞った。

「……承知しました」

その言葉に、全部が入っていた。

十三

「本日は」と小栗が言った。

「良い時間でございました。いや——良い、というより……」

彼は少し言葉を探した。

「変わった時間でございました」

「何か、変わりゆく気配でも、おありにございますか」

「私の中で——幾つかが」

「左様にて、いらっしゃいますか」

「はい」

福沢が、そこに言葉を継いだ。

「私も同じです。変わった。自分が何をすべきかが——今日、はっきりと見えました」

「それは……何よりでいらっしゃいますね」

「姫様は——変わりましたか、何か」

逆の問いだった。

糸子は、少し考えた。

「……お二人のお話を聞き、見えていなかったことが、いささか見えてまいりました。書にて知ることと、身を以て感じたお人より聞くことは——なるほど、やはり格別なものでございますから」

「それは——良かったです」

福沢は、今日初めて、本当に心の底から言った言葉だった。

「メリケンで見てきたことを、正しく受け取っていただけたなら——それで十分にてございます。残りは、私たちが形にします」

「よしなにお願い奉ります」

糸子は、静かに言った。

「お二方の御事を——片時も疑いなく、信じておりますれば」

十四

二人の男が退出した後、奥御殿は静かになった。

近藤勇は、廊下の端で、彼らを見送った。草履の音が遠ざかっていく。廊下の板が、二人分の重さを受けてかすかに軋んだ。やがてその音も消えた。

「近藤殿」

「はい」

「疲れた顔をしていましたか、二人とも」

近藤は少し考えた。

「……疲れていましたが、良い疲れ方だと思いました」

「良い疲れ方…と?」

「帰える様子から、また来ようとするような顔をしておりました」

糸子の御簾の向こうで、また小さな笑い声がした。

クスクスッ……

「それは……何よりの、言葉でございます」

近藤は、その笑い声を聞いた。

今日何度か聞いた、あの抑えた笑い声とは少し違った。もう少し、力が抜けた笑い声だ。

近衛家の姫君ではなく——単なる少女の声に少し近い。

「近藤殿」

「はい」

「今日の語らいは——首尾よく進んだと、お思いでしょうか?」

珍しい問いだった。

糸子が、自分の手ごたえを他人に確認する——それは、近藤が傍にいる中で珍しいことだった。

「……はい」

と近藤は答えた。

「上手くいったと思います」

「さようで、ございますか」

「二人とも——姫様を信じた顔をして、出ていきました」

糸子は、しばらく黙っていた。

「……左様でございましたか。それは、良うございました」

「はい」

また間があった。

「近藤殿。次なる帳面を、持て参ってくださりませ」

「どの帳面ですか」

「棚の上の——青い表紙のものを」

近藤は棚に行き、青い表紙の帳面を取り出した。御簾の端から差し入れると、糸子の手が静かにそれを受け取った。

紙が開く音がした。

「……また、書き物ですか」

「さようにて」

「今日は、もうお休みになられては?」

「今しばし……今しばしの間に、ございます」

糸子の声は、穏やかだった。しかし——その奥に、まだ考え続けている人間の熱があった。

「南北の衝突は、すぐさま始まります。その前に――仕掛けておかねばならぬことが、幾つかございます」

近藤は、御簾の前に戻った。いつも通りの座り方で。重力が腰の真芯から床へと真っ直ぐ突き抜ける、あの座り方で。

帳面に筆が走る音が、静かに続いていた。

窓の外では、初春の江戸の空が、まだ光を手放さずにいた。

粉雪の残る、白い夜明け前の空だ。

遠くで、何かの鳥が鳴いた。それだけが、この奥御殿の沈黙に届いた音だった。

糸子は、帳面に書き続けた。

メリケンの南北戦争。グリーンバックと呼ばれる紙幣の発行。その経済的な波紋が、海を越えて日本に及ぶまでの——時間の計算。

それから——新公使との、これから始まる長い交渉のための、最初の仕掛けの設計図。

新たな……またしても日本の未来を担う知性が——今日、この奥御殿から動き出した。

糸子は、次の頁を開いた。

書くことは、まだたくさんある。

第百八話 了