軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百六話「対面、そして『アメリカの土産話』」

薄日が、障子の向こうにある。

差し込むというほどでもない。漏れてくる、という程度の光だ。

粉雪の残る初春の江戸の空は、光を溜め込んだまま手放さない。

座敷に落ちる白さは、三つの火鉢が吐き出す橙色の熱と混ざり合い、どこか夢の 縁(ふち) に立っているような、奇妙な明るさを作り出していた。昼でも夜でもない、冬でも春でもない——そういう時刻のような、曖昧な空気だ。

一橋上屋敷の奥御殿。

障子の組子越しに見える庭は、まだ白を抱いていた。枯れ枝に残った雪の塊が、時おり音もなく地に落ちる。それだけが動いている。あとは何も動かない。

静かだった。

静かというより、張っていた。弓の弦に指を当てる直前の、あの張り方だ。

音が出る前の緊張だけが、空間に満ちている。指先で触れれば、その見えない緊張がはじけて——何かが起きるだろう、という予感だけが漂っていた。

三つの火鉢が並んでいる。そのうちの一つは、二人の男の間に置かれていた。

残り二つは部屋の隅で静かに 熾(おこ) り、煤けた天井の近くまでうっすらと熱を届けていた。

火が 爆(は) ぜる小さな音が、時折、座敷の静寂を区切った。

香木の匂いが、底のほうからじわりと立ち上がってくる。

白檀だ……と福沢諭吉は思った。それとも龍脳か。甘くて、どこか冷たい。鼻の奥に入り込んでくるのに、触れる前に逃げていくような匂いだ。京の匂いだとも思った。

アメリカの空気は乾いていた。鉄と馬糞と埃の匂いがした。

蒸気機関の煙が黒く空を塗り、波止場には何語とも判別のつかない怒鳴り声が飛び交っていた。

ここはそれとは、全く違う世界だった。

まるで別の世界に来たかのような——そういう乖離を、福沢は今また感じていた。

部屋の奥に、御簾が吊られている。

若草色の竹で細かく編まれたその御簾は、薄日を透かして奥に仄かな輪郭を作っていた。

淡い萌黄の色が、その向こうにある。打掛の裾だ。

人の気配がする。

公家の少女がそこにいる。

そして御簾の側面、斜め前方のやや端に——一人の男が座していた。

近藤勇だった。

福沢は横目で一度、その男を確認した。大きいとは思わない。背丈はさほどでもない。

年のころは、二十六か七というところか。顔の彫りは深く、口もとを引き締めて、視線だけを鋭く前に向けている。

しかし、そういう見た目の話ではなかった。

座り方が違う。

普通の人間は座っているとき、どこか体を緩めている。背を丸めて畳に視線を落とすか、あるいは胡坐をかいて楽な姿勢をとる。

しかしこの男は、微塵も腰を砕いていない。重力が、腰の真芯から床へと真っ直ぐに突き抜けて動かない。山が動かないように——ただそこにある、という座り方だ。

剣客の座り方だ、と福沢は思った。

そして、その男の視線が自分たちに向いていることも感じていた。監視ではなく、品定めでもなく——ただ静かに、何かを確認している視線だ。瞬きの数が、おそらく自分の半分もない。

(御簾の前の番犬か……)

失礼な表現だとわかっていながら、福沢の頭にそれが浮かんだ。

そしてすぐに、それは正確な表現ではないとも思った。番犬は吠えるときに吠える。

この男は、おそらく吠えない。

吠える前に、もう片がついている。

小栗忠順は、近藤勇など最初から視界に入れていなかった。

彼の眼は、御簾の一点に向いていた。薄い竹の格子の向こう——そこにいる人間が、己の話を受け止められるかどうかを、見極めようとしている眼だ。

命がけで海を渡り、命がけで見てきたものがある。その重みを誰かに渡したい——いや、正確には違う。

渡したいのではなく、共に背負えるかどうかを確かめたい。

幕府の老中たちは「妄言」と言って切り捨てた。ある老中の側近は「異国の見聞に惑わされた者の戯言」と笑った。

しかしここにいる姫君が、もし——

「長旅の疲れはいかほどじゃ」

御簾の向こうから、声が来た。

「お二人とも、いと遠き所へお出でになりて、お帰りあそばしたるにておわすろうか。まずは、心ゆくまでお休みあそばしたく候ひつるに……かくして御出でいただき、かたじけなく存じ候」

京? いや……御所言葉だ。

しかし、いわゆる「おっとりとした京の女言葉」とは違う。語尾のんびりした引き方の下に、言葉の選び方が妙に正確だった。

「かたじけなく」の一語に、慇懃さと本音が同時に入っていた。

公家の礼儀として言っているのか、本当にそう思って言っているのか——その境目が、声を聞くだけでは分からない。

少女にしては、その曖昧さが妙に計算されているように聞こえた。

「して、メリケン駐在総領事……中浜万次郎殿はご壮健にいらせられまするかぇ?」

声は続いた。さりげなく、しかし明確に。

福沢と小栗は、一瞬だけ目を見合わせた。

「中浜殿は……お元気でございました」

福沢が最初に答えた。少し意外そうな声が混じっていたが、彼はすぐに立て直した。

「アメリカ語が堪能で、あちらでは実に頼りになるお方でした。

我々が言葉に詰まる場面でも、万次郎殿だけは物怖じひとつなさらず、ネイティブの連中と渡り合っておられた。

……いや、渡り合うというより、笑わせておられた、という方が正確かもしれません。

冗談を言ってメリケン人を笑わせるというのは、並大抵のことではないのですが」

「笑わせておられた…か」

と糸子が繰り返した。

「左様です。それだけ深く言葉と文化に染み込んでおられるということで、我々は大変助けられました」

小栗が続けた。静かな声だったが、その奥に確かな敬意があった。

「万次郎殿は……卑怯なことを、一切されないお方です。あの国の要人と向き合うとき、言葉だけではなく、腹の底から向き合っておられる。

私はその姿を何度も見ました。ご本人は飄々としておられますが——相当の覚悟をお持ちの方です」

御簾の向こうで、小さな動きがあった。

打掛の裾が揺れた。ほんのわずかだが、座り直したような動きだ。

「…… 左様でございますか」

糸子の声が、少し変わった。先ほどまでの礼儀正しい公家言葉の中に、何か別のものが混じった。

ほっとしたような——あるいは、長い間抱えていた何かを、ようやく降ろしたような響きだった。

「それは、何よりにておわした」

間があった。

「中浜殿とは……いわば共に戦うた仲間じゃ」

その言葉が出たとき、福沢は一瞬、聞き間違えたかと思った。

公家の姫君が「共に戦った仲間」と言った。御簾の向こうで、御所言葉で、しかしごく自然に。

小栗は眉を微かに動かしたが、何も言わなかった。ただ御簾を見た。

糸子の脳裏には、あの日の光景が蘇っていた。ハリスとの交渉の座。負ける訳には決していかない交渉事だった。それは国と国とをかけた、息の詰まるような攻防。そして駆け引きであった。

万次郎はそんな場所にいてくれた一人だった。

「……それではメリケンの様子、承りたく存じます。語りておくれな」

その一言が、静かに座敷に落ちた。

「姫様、まずお耳に入れたいことがございます」

福沢諭吉はそう言うと、わずかにあごを引いて声を整えた。

彼には、大切な話を切り出す前に必ず、一度深く息を吸い込む癖がある。

これは大勢の塾生を前にする時も、こうして歴史を動かす重要人物と相対する時も変わらない。

「メリケンという国は、何と言いましょうか……我が日本とは、根底にある『社会の骨組み』そのものが丸で違っておりました」

「おやおや、左様でござりますか」

「さようでございます。何より腰を抜かしましたのは、あの大地では『生まれの良し悪し』で人の一生が左右されることが、一切ないという点にございます。

武家だろうが公家だろうが、はたまた商売人や百姓だろうが、生まれた家の格式などというものは、あちらでは一文の価値も持ちませぬ」

福沢の口から、淀みなく言葉が溢れ出す。すでに何度も語り、頭の中で整理し尽くした話だ。

だが、語り慣れたからといって、当時の衝撃が色褪せたわけではない。

むしろ言葉にするたびに、あの大地で味わった驚きと興奮が、彼の胸の奥でふつふつと燃え上がるのだ。

「姫様、どうか驚かないでいただきたい。あちらでは、建国の英雄である初代大統領、ジョージ・ワシントンの子孫が……今やただの一般市民として、そこらの街で暮らしているのでございます」

「ほうほう、それはまた」

「ええ、本当にただの平民として…ですぞ! 偉大な英雄の血を引く末裔が、どこぞの誰かと普通に結ばれ、ごく当たり前に日々の暮らしを営んでいる。

周囲もそれを特別扱いなどいたしませぬ。試しにそこらのメリケン人に『ワシントンの孫娘はどこにいる?』と尋ねてみれば、『さあな、確かどっかで暮らしてるはずだが』と、まるで人ごと、興味もなさそうに鼻で笑うのです」

ここで福沢は、意図して小さく間を置いた。

御簾の向こうの姫君が、その異国の光景を頭の中で思い描くための、ほんのわずかな静寂。

呼吸を一つ挟み、彼は再び熱を帯びた声で語りかける。

「これが一体、何を意味するかお分かりでしょうか。つまり……メリケンにおいては、先祖が遺した手柄はその人一代限りのもの。

子や孫がその遺産にぶら下がって威張ることなど許されないのです。

今、この瞬間にその男が何を成したか。どれほどの実力があるか。評価されるのはそれだけです。

門閥だの系譜だのといった古い肩書きは、あちらでは屁の役にも立ちませぬ」

「へぇ」

(あ、いやっ……今の『へぇ』は、決してオヤジギャグじゃないわよ……!)

御簾の向こうで、糸子は福沢の熱弁とは全く関係のない、くだらない自意識と戦っていた。

しかし、福沢はその沈黙を、姫君が感銘を受けているのだと好意的に解釈し、さらに身を乗り出す。

「ゆえに、でございます!」

福沢の声が一段と高くなり、部屋の空気が震えた。

「今の日本で大手を振って歩いている、あの忌々しい家柄と身分の制度——こんなものは、近代国家のあるべき姿ではございませぬ! 生まれついた家柄だけで若者の行く手が塞がれ、どれほど優れた才覚があろうと這い上がることすら叶わない。

これは国にとって計り知れない損失、文字通りの大損でございます。国を支えるべき宝のような人材を、ただの『家の名前』というハサミで切り捨てているのですから。

ですが、メリケンは違います。門閥の支えなどなくとも、己の才覚と実力さえあれば、天下の 政(まつりごと) を執る大統領にすら上り詰めることができる。個人の『独立自尊』の精神なくして、国家の独立などあり得ないのであります!」

福沢の言葉は止まらない。彼は懐に手を入れ、ずっしりとした重みを持つ、一冊の分厚い洋書を取り出して畳の上に置いた。

「小栗殿たちは大砲だの軍艦だの、目に見える『形ある機械』ばかりをありがたがっておりますが、それは浅はかというもの。

西洋文明の本質は、蒸気機関のような道具(形而下)ではなく、それを生み出し、社会を円滑に動かす『精神と仕組み(形而上)』にございます。

私はあちらで、機械の図面ではなく、民間の生活を支える知恵の源泉を必死にかき集めてまいりました。姫様、これをご覧くだされ」

福沢が差し出したのは、彼がサンフランシスコで5ドルという大金をはたいて購入した『ウェブスターの大辞書』であった。

当時の下級武士の月給数ヶ月分に相当する、まさに命懸けの買い物だ。

「この国にない新しい社会の仕組みを学ぶには、まず言葉という『道具』が必要不可欠。

私は帰国後、この辞書を片手に翻訳に没頭しております。

あちらにあって日本にない概念……例えば『自由(Liberty)』や『権利(Right)』といった言葉をどう訳すか。これらを正確に日本語に落とし込み、人々に広めることこそが私の使命だと考えております」

さらに福沢は、自らのメモ帳をめくりながら、異国で目にした社会インフラの不思議をまくしたてた。

「機械を動かす前に、まず社会の仕組みを整えねばなりません。メリケンには、不測の火災や災難に備えて互いに金を出し合う『保険』の仕組みや、国中の富を効率よく循環させる『銀行』、さらには万人が知識を得るための『博物館』や『動物園』といった、実に見事な社会の仕組みが張り巡らされておりました。

中でも私が最も驚嘆したのは、彼らの商売の根底にある『複式簿記』という手法です。これこそが近代国家の帳簿を支える基盤。

これまでの日本のどんぶり勘定では、いずれ世界との交易で毟り取られるだけです。

私はすでにこの簿記の教科書の翻訳にも着手しております。これを広め、公の会計システムを変えねば、国が成り立ちませぬ」

「つづきを聞かせてたもれ…」

糸子の内心

(諭吉さんノリノリだなー)

「は……はい。その、つまりですね——メリケンでは、精神のあり方が根本から違う。全て『個人が独立して社会を作る』という前提の上に成り立っている。

国が民を養うのではなく、民が国を作る——この発想の転換こそが、西洋文明の真髄であると私は考えております。蒸気機関は、その結果に過ぎない」

「福沢殿」

小栗の声が、低く、しかし剃刀のような鋭さで割り込んだ。

福沢は弾かれたように口を閉じた。一瞬にして奥御殿の空気が張り詰める。

それまで福沢の熱弁によって前のめりに加熱していた部屋の温度が、すうっと一段、冷え込んでいくようだった。

「精神論は、そこまでにして頂きましょう」

小栗忠順という男は、もともと饒舌に己を誇るような人間ではない。

だが、今日ばかりは、ここで自分が引くわけにはいかないと確信していた。

福沢の言う「独立自尊」や「身分なき平等の仕組み」は正しい。血の滲むような見聞の末の真実だろう。だが、決定的に足りない。

この国を今すぐ救うための、地を這うような「現実」が抜けているのだ。

「姫様」

小栗は正面の御簾を見据えた。薄い竹格子の向こう、仄暗い奥に、淡萌黄色の打掛が静かに佇んでいる。

微かに広がる裾の絹擦れの音だけが、糸子という少女の存在を伝えていた。

「福沢殿のお話は、いわば『人の心』の綺麗事にございます。

しかし、国家が荒波を乗り越えて自立するためには、心や仕組みだけでは到底足りませぬ」

隣で福沢が「ふん」と鼻から荒く息を抜いた。猛烈な反論が飛び出す前触れだと小栗も分かっていたが、意に介さなかった。

そんな批判の声など、上海を経由してメリケンから帰国して以来、幕府の老中や門閥の奴らから耳が腐るほど聞かされてきたのだ。

「私がメリケンの地で骨身に染みて見たもの……それは、ただ一つ『鉄』にございます」

小栗は無造作に懐へ手を入れた。指先が、いつもの冷たい感触に触れる。

帰国して以来、寝食を共にするように肌身離さず持ち歩いている、己の執念の塊。

彼が畳の上に差し出したのは、一本の小振りのネジだった。

掌の上に乗せられたそれは、長さにして二寸にも満たない。鈍く黒光りする鉄の肌。

頭から末端まで、寸分の狂いもなく均質な螺旋が美しく刻まれている。

室内の火鉢の赤々とした光を浴びて、その螺旋の溝が畳の上に細く精緻な影を落とした。風流を知る公家が見れば、「無骨で醜い」と一蹴するかもしれない。

しかし小栗には、これが世界で最も嘘偽りのない、誠実なものに見えた。

人間の職人の「勘」や「体調」に左右されない、絶対的な精度。

「ワシントン 海軍工廠(こうしょう) 」

小栗の語り口には、激しい昂ぶりはない。しかし、言葉の一つ一つに、大地に打つ楔のような重みがあった。

「私はあの広大な工廠の床で、地響きを立てる機械の群れを見ながら、日本の未来を……いや、我が国の現在のあまりの危うさを突きつけられ、身震いいたしました」

「海軍工廠、でございますか……」

御簾の向こうから、鈴を転がすような、しかしひどく落ち着いた糸子の声が響いた。

「確か、黒船のような軍艦を造り出す場所、とお聞きしておりまするが」

「さようでございます。しかし、あそこで造られているのは軍艦という『目に見える巨体』だけではございませぬ。真に恐るべきは、その中身にございます」

小栗は掌をわずかに傾けた。火鉢の光が、ネジの螺旋を滑るようにキラリと走る。

「あちらでは、精巧な工作機械がさらに新しい機械を生み出し、完全に『同一』された部品が、絶え間なく生産されております。

この床に落ちていたネジ一本……そう、このたった一本のネジですら、日本では名工が腕によりをかけて手作りせねばならんものを、メリケンでは機械が一日に何百、何千、何万と吐き出しておるのです。

そして何より恐ろしいのは、その一万本すべてが『完全に同じ形』だということです。寸分の誤差もありませぬ」

小栗はネジを見つめる瞳を鋭く尖らせた。

「人が作れば、どれほど腕が良くとも必ずどこかに微細な狂いが出る。しかし、あちらの機械は型に従い、ただ同じ正確さを永遠に繰り返す。これが、メリケンの強さの正体……『工業化』という名の怪物にございます」

小栗の低い声が、奥御殿の静寂に染み込んでいく。

「いま、この国では精神論を盾に『異国を打ち払え』と叫ぶ攘夷の志士たちが大勢おります。

しかし私は問いたい。このネジを、明日までに全く同じ精度で一万個作れる職人が、今の日本に何人おりますか? 一万個ならまだしも、十万個、百万個となったらどうか。

軍艦一隻、あるいは大砲一門を支える部品の膨大さをご存知か。そのすべてが均質でなければ、戦の最中にどこかが歪み、火を吹き、海に沈むのです。

根性や刀の切れ味で、鉄の弾丸と蒸気機関に勝てるはずがございませぬ!」

福沢が悔しそうに唇を噛む。小栗は一息つくと、少し視線を落として自嘲気味に微笑んだ。

「……ですが、我々日本人が頭脳で劣っているわけではございませぬ。

私はフィラデルフィアの造幣局を訪れた際、ある試みをいたしました。我が国から流出していく金貨の謎を解き明かすため、日本の『そろばん』と『天秤ばかり』を持ち込み、その場で米貨の金銀成分分析を自ら行って見せたのです。

十進法を用いた我が国の計算速度と正確さに、メリケンの役人や技師どもは文字通り腰を抜かして驚愕しておりました。計算する頭脳、合理的な思考力において、我らは決して異国に負けてはおらんのです」

「……なれど」

御簾の向こうから、糸子が言葉を継いだ。

「計算する頭脳があっても、その計算通りに寸分の狂いもなく鉄を削り出す『機械』がなければ、どんなに優れた設計図も、ただの紙屑で終わる……。

そういうことにございますね、小栗殿」

小栗の眉が、ピクリと跳ね上がった。公家の姫君が、自分の意図をここまで正確に、しかも先回りして言語化するとは。

「……左様にございます。だからこそ、私は帰国後すぐに声を大にして訴えた。

一刻も早くフランスから優れた技師を招聘し、蒸気機関のいろはを学び、自前の手で鉄を作り、部品を規格化せねばならんと! さもなくば日本は永遠に列強の買い手、貢ぎ物をする奴隷に成り下がると!」

『製鉄所』という言葉を口にした瞬間、小栗の顎の筋肉がカタカタと不快な音を立てるように強張った。

脳裏をよぎるのは、帰国からわずか三日後、幕府の老中たちの前で大見得を切った時の冷ややかな光景だ。

『予算の目途が立たぬ』

『異国の妄言に惑わされるな、勘定奉行並』

妄言……

あの老練な幕閣どもが放った侮蔑の響きが、今も小栗の胸の奥でどす黒く燃えている。

「自分が見てきた世界の広さを、見ようともしない人間に説明する……。あれほど絶望的な徒労感はございませぬ」

小栗はふう…と深く、ため息とも吐き気ともつかない息を漏らした。

「ワシントン海軍工廠で、私はもう一つ、忘れられぬ光景を見ました。

時の最高権力者である大統領が、油と煤で真っ黒に汚れた一介の職人と、笑顔でがっちりと手を握り合い、対等に議論を交わしていたのです。

職人は『物を作る力』を持ち、大統領は『国を決める力』を持つ。

どちらが上下でもない、双方が揃わねば国という巨大な歯車は回らないのだという……暗黙の、しかし絶対的な理解が二人にはありました」

小栗の視線が、再び御簾の奥へと向けられる。

「それに引き換え、我が国、日本はどうです? 武士が上にふんぞり返り、実際に国を支える職人や商人は地の底に這わされている。この絶望的な身分の壁こそが、日本の技術を、国力を、極限まで弱くしている張本人のように思えてならぬのです。

だからこそ……私はもし横須賀に製鉄所を造ることが叶うなら、職人たちの給与を、そこいらの生半可な武士よりも遥かに高く設定せねばならんと考えております。家柄ではなく、真の『実力』と『専門知識』を持つ者が報われる場所を、まずはあそこに作るのだ、と」

しばしの、重苦しい沈黙が部屋を満たした。

近藤勇が部屋の隅で、気配を殺したまま、小栗の言葉の熱量に圧倒されたようにじっと聞き入っている。

小栗は、自らの掌にあるネジを見つめ、寂しげに目を細めた。

「……しかし、これほど明確な現物を見せても、分からぬ化石のような連中に、何を申し上げたところで詮無きこと。

私の言葉もまた、お耳汚しの『土産話』に過ぎませぬな」

自嘲を込めてネジを懐に戻そうとした、その時…

「おやおや、小栗殿。随分としおらしいことで」

それまで黙って聞いていた福沢が、ふてぶてしい笑みを浮かべて口を開いた。

「幕府の頑固親父どもに無視されたからと、京の姫君の前で愚痴をこぼして終わりですか? あなたほどの御方が、随分と諦めが良い。呆れたものだ」

「何だと、福沢殿」

小栗の目が険しく細まる。

「小栗殿、あなたの言う『鉄の思想』は素晴らしい。だがね、あなたは決定的な『情報の武器』を使いこなせていない」

福沢は懐から、サンフランシスコで買い集めてきた現地の『 新聞(ニュースペーパー) 』を取り出し、畳の上に広げた。

「メリケンではね、我々遣米使節団がどこへ行き、何を話し、どんなヘマをしたかが、翌朝にはこの紙切れ一枚で何万、何十万という民衆に知れ渡るのです。これを『新聞』と言います。情報の伝播が、恐ろしく速い。私は小栗殿に言いたい。

幕府の上層部が動かないなら、なぜこの『新聞』を発行し、国中の志士や豪商、職人たちに直接、世界の現状を訴えかけようとしないのですか! 情報が一部の老中だけに独占されているから、幕府はこれほど脆く、疑心暗鬼で崩れかけている。国を開くということは、鉄を造ることだけじゃない。情報の風通しを良くすることだ!」

福沢は一気にまくしたて、小栗を指差した。

「もし小栗殿がその気になられるなら、この福沢、喜んでその新聞の発行責任者を引き受けましょう! 役人の生ぬるい報告書ではなく、本物の『世界』を民衆に叩きつけてやりますよ!」

小栗は驚きに目を見張った。この草莽の翻訳方が、まさかそこまでの大局を見て、自分を巻き込もうとしてくるとは思わなかったのだ。

「……面白いな、福沢殿」

小栗の唇が、今度は不敵に釣り上がった。

「ならば私も、あなたのその『情報論』に一つ、現実的な知恵を足して差し上げよう。あなたが新聞で民衆の目を拓くというなら、私はその民衆から『金』を集める仕組みをこの国に導入する。メリケンには『Company』……我々の言葉で訳すなら『商社』という組織がある。

一人の富豪の財力に頼るのではなく、広く民間から資本(株)を集め、大きな貿易や事業を行う仕組みだ」

小栗は再び懐に手を入れ、今度はネジではなく、アメリカの豪華な宿泊施設の図面や、現地の商業組織の書き付けを取り出した。

「私は帰国後、築地の地に、外国の使節を迎えるための日本初の西洋式ホテル『築地ホテル館』を建てる計画も練っている。

これは単なる贅沢な宿ではない。『迎賓』という名の外交戦略だ。

そして、このホテルの建設資金は、幕府の頼りない予算ではなく、民間の豪商たちを集めた『商法会議所』という組織を作り、日本初の『株式』に似た仕組みで調達する。民間の資本が国を動かす、その実績をまずは築地で作ってみせるぞ!」

二人の天才が、御簾の前で互いのビジョンを火花散るようにぶつけ合う。

精神論の福沢が情報の武器を説き、現実主義の小栗が民間の経済システムを説く。

アメリカという巨大な鏡を見てきた二人の頭脳が、今、この一橋上屋敷の奥御殿で完全に噛み合い、爆発的な熱量を帯び始めていた。

糸子は、冷静にその様子を黙って見ていた…

(すっかり、二人だけの世界に入り込んでおいでじゃな……)

そして、一人疎外感を感じていた。

部屋に、沈黙が落ちた。

火鉢が爆ぜた。乾いた小さな音が、二度、三度と続いた。

窓の外で、庭の枯れ枝から雪の塊が落ちる音がした。それきり、静かになった。

福沢は小栗の横顔を見た。あの男が「使命感」と呼んでいるものの重さを、福沢も知っていた。自分の語る「精神の話」とは異なる重さだ。

小栗のそれは抽象ではない。具体的な数字と設計図と、現実の壁でできている。

帰国してから、幕府の誰も彼の話を聞かなかった。聞いたが、動かなかった。動いたが、追いつかなかった。

(それでも、心が先だ。国民が自立しなければ、どんな工場を建てても意味がない——)

そう思いながら、しかし福沢はその反論を今は口にしなかった。

二人の言葉を全て聞かせてから、御簾の向こうの少女に判断を委ねよう、という気持ちがどこかにあった。

あるいは——この姫君なら、両方を受け止められるかもしれないという、根拠のない期待があったのかもしれない。

「姫様」

福沢がもう一度、声を出した。

「つまるところ、メリケンという国は——精神においても、技術においても——今の日本の遥か先を行っております。小栗殿とは意見の相違もございますが、そこは共通しております」

「さようでございます」

小栗も短く応じた。

二人は揃っていた。それがやや奇妙でもあり、しかし確かな事実でもあった。

思想家と実務家。

啓蒙と建設。

アプローチは全く違うが、向いている方向は同じだ。

そしてその「向いている先」が、今の日本の現実からいかに遠いかを、二人は知っていた。

「いかがでございましょうか、姫様」

「これが、我ら二人が命がけでメリケン国から盗んできた、日本をひっくり返すための『飛び道具』にございます。

門閥も家柄も関係ない、実力を持った職人と、情報を持つ民衆、そして民間の資本が織りなす、新しい国の姿。

……少しは、お退屈しのぎになりましたでしょうか?」

福沢が言った。世界を見てきた者の声だった。命がけで海を渡り、言葉の通じない土地で、誰も見たことのないものを見てきた。その重みを、できる限り誠実に届けたつもりだった。

二人の男が、御簾を見た。

鼻先まで高まったような、充実した空気。肩で息をするほどではないが、しかし語り尽くした感のある、静かな達成感がそこにあった。

長い航海を終えた船乗りが、港の灯りを見るような——そういう種類の安堵だ。

御簾の向こうの少女が、次に何を言うか。

驚くだろう…と福沢は思っていた。

恐れるかもしれない…と小栗は思っていた。

あるいは感嘆するかもしれない。

「そのような国が……」

「そこまで進んでいるとは……」

という言葉が来るだろうと、二人の胸の中の思惑ではなく本能のような部分が予測していた。

話を聞いた人物は、必ずみな何かしらの反応をした。驚き、うろたえ、あるいは憤慨し、あるいは意気消沈した。

さぞや、この公家の姫様も——

だが。

御簾の向こうの糸子は、手元で扇をパチリと小さく、実にあっさりと閉じた。

話を聞きながら、糸子は全く違う心配をしていた。

(やっと終わったかー。わたくしのことを覚えてくれていたことは、まぁ…良かったけど……)

そして、二人の熱量を完全にすくい落とすような、どこか退屈そうにさえ聞こえる、軽やかな声で言い放った。

「おやおや、左様にておわしたか」

沈黙があった。

二人の男の思考が、同時に止まった。

それは一瞬ではなく、数秒間続いた。脳の中の言葉を処理する部分が、受け取った音声の意味を確認しようとして、もう一度同じ音声を再生して、それでも意味の確認を終えられずにいる——そういう種類の停止だった。

「今どきのメリケンは、左様な有様にておわしたのう」

続きが来た。のんびりとしていた。拍子抜けするほど平坦で、しかしどこか退屈そうでもあった。感動も恐怖も畏怖もなく、ただ「ふうん……」という響きだけがそこにあった。

「え……」

福沢の口から、音が漏れた。声とも息とも取れない、中間の音だった。

小栗は、ネジを懐に仕舞い直した手が止まっていた。指先が、懐の布地の上で固まっている。

御簾の向こうでは、糸子が少しだけ姿勢を直していた。別に飽きているわけではない。ただ、確認が済んだ。それだけのことだ。

万次郎が壮健であること。二人が誠実に見てきた者であること。アメリカが今どういう国であるか。全部、聞いた。

聞いて——知っていた。

知っていたことの多くが確かめられ、いくつかが補われた。それで十分だ。

(二人とも、真剣に日本のことを考えている。それは伝わった。

ただ——私が驚くことを期待している。その点においては、少し見込みが違ったようじゃな)

「ワシントン様の後胤が、今やただの民にておわすとは。げに、興趣の尽きぬお話にておわしますな」

「は……」

「さりながら、それは左様にもなりなん、とそのようにも思し召されまするが……」

「そ、それは……どういう」

「生まれながらの筋目よりも、その身の才覚が重んぜられる世に移ろいつつある、ということでおわしましょうな。なれば、英雄の後胤なりとも、自らに徳も才も欠けておらば、ただの民として世を渡るのが、げに 理(ことわり) というもの。得心はいきまするが、あな珍しやと驚くほどのことでも……」

「しかし!」

福沢が思わず前のめった。膝が畳を擦る音がした。

「日本とは全く異なる発想でございますよ。当時の私は腰を抜かすほどでした。

お公家の方々が代々、門地によって地位をお持ちになる——その仕組みに慣れたこの国で、生まれによらず実力が全てなどという社会は、想像だにしたことがないはずで……」

「腰を抜かさんばかりに驚かれましたのう」

糸子は少し間を置いた。

「それは、何よりにておわしたのう」

「何より……?」

「なんでも経験は大切にておわします。腰が抜けるほど驚けたということは、それだけ深うそれを感じられた、ということじゃ。頭で知るより、腰で感じた方が身になりまする。のう?」

福沢は言葉が出なかった。慰められているのか、諭されているのか、それとも本当に何も考えずに言っているのか——判断がつかなかった。

しかしどれであれ、その言葉はどこか正確だった。確かに自分は、サンフランシスコの街角で、理屈ではなく体で驚いた。

「あの、姫様は……」

「なんでござりましょう」

「驚かれないのですか。ワシントンの子孫が、今や一市民だということに」

沈黙があった。

「いかなれば、それほどに驚きあそばすのか」

ごく自然な問いかけだった。何か意地悪を言っているわけでも、強がっているわけでもなく、本当にわからない、という響きがそこにあった。御簾の向こうで、少女が首を傾けているような——そういう声だった。

「さ、それは……あの国の仕組みが、我々の常識とは根本から異なるために……」

「なれど、原理を聞けば得心のいく話にておわしましょう」

糸子は続けた。

「力があった者の家は、力がなくなれば衰える。力なき者の家が、力を蓄えれば興る。それは、天地の 理(ことわり) にておわしまする。

ただ、それを表に出す速さと、仕組みの作り方が、メリケンは早うて合理的なだけにておわしましょう。

驚くべきは——そういう仕組みを整えたことの、人間の知恵の巧みさにてあろうかと。なれど、原理そのものは——」

一瞬、間があった。

「格別に驚く筋合いは、わたくしにはありませぬ」

座敷が、静かになった。

火鉢の火が、また一度爆ぜた。

福沢は正直なところ、言葉に詰まっていた。詰まる、というより——受け止めるための型が、頭の中にないのだ。自分が腰を抜かした国家の根本を、この姫君は「天地の理」としてあっさりと呑み込んでしまった。

(ならば、これなら如何にございます――)

福沢の脳裏に、アメリカでの個人的な記憶がよみがえり、その強張っていた表情がふっと緩んだ。少しばかりの悪戯心と、この風変わりな姫君の「境界」を確かめたいという知識人の欲が、彼の口を動かす。

「……ふふ、では姫様。国の仕組みではなく、人の心のありようについて、もう一つお聞きくだされ。実はあちらで、少しばかり破廉恥な真似もいたしましてな」

「おや、破廉恥、でございますか」

御簾の向こうで、わずかに衣が擦れる音がした。

「左様でございます。サンフランシスコの写真館で、そこの主人の娘御——十五歳ほどの可愛らしい少女でしたが、彼女にお願いして、肩を並べて一枚の写真に収まってきたのです。

日本であれば、見ず知らずの若い男女が寄り添って影画を撮るなど、狂気の沙汰、親が見れば卒倒するような大不祥事でしょう。しかし、あちらではそれが実に自然なことなのです。

それだけではございません。メリケンでは、馬車に乗る際も必ず『女性が先、男性が後』という決まりがございました。いわゆる『レディファースト』というやつです。最初は戸惑いましたが、よくよく考えれば、

我が国の『女大学』のような、女子を不当に低く見る古い価値観こそが歪んでいるのだと気づかされました。これからは男女の格差も見見直さねば、真の近代化など到底望めぬと、私はあの少女の笑顔を見て痛感いたしました」

福沢は、今度こそ試すような目で御簾を見据えた。

国家の理を語る公家の姫君とて、中身はまだ若い少女のはずだ。男と女が肩を並べる異国の奔放さ、あるいは「女子を男の上に置く」という身分秩序の逆転には、流石に眉をひそめるか、あるいは初々しく動揺するのではないか。

だが。

「……ふふ、これはまこと、微笑ましき 唐(もろこし) の影絵にておはしますこと」

御簾の向こうから返ってきたのは、やはり、鈴を転がすような笑い声だった。

「男女が睦まじく並び、男が女を尊ぶ。形こそ違えど、 内裏(だいり) にて雛人形が並ぶ姿を思えば、さして不都合なこととも思われませぬ。むしろ、その十五の少女の健やかさが目に浮かぶようでございます」

「……っ」

福沢は、今度こそ完全に言葉を失った

福沢は正直なところ、完全に脱帽していた。詰まる、というより——受け止めるための型が、頭の中にないのだ。

自分が驚いたことを、ことごとく驚かない人間がいる。

しかもその理由が、無知ではなく——むしろ理解の仕方が、自分とは一段、深いところにあるような気がした。

(この姫君は……)

彼は内心で、静かに立ち止まった。

小栗はといえば、今度は全く別のことを考えていた。御簾の向こうの少女が「鉄を削り出す『機械』がなければ」という言葉を、自分の口から出る前に先に言った。

それが偶然の一致だとは、小栗には思えなかった。あの「先読み」は——何かを知っている者の読み方だ。

「姫様」

小栗が、静かに口を開いた。

「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」

「なんでありましょう」

「私、小栗忠順が横須賀に製鉄所を建てるべきと考えていることは——姫様はすでにご存知であられましたか?」

沈黙があった。

御簾の向こうで、糸子が少しだけ考えた。

嘘をつく理由は…ない。

「……おおよそは」

「おおよそ、とおっしゃいますと?」

「物の道理から、そうなると思うておりました。ネジの話は知りませなんだが——なれど、あの国の工業力と、この国の現状を見れば、製鉄所が要ることは——自ずから見えてくる話にておわしまする」

小栗は一度、目を閉じた。

幕府の老中に同じ話をしたとき、彼らは「妄言」と言った。この姫様は「物の道理から、そうなると思うておりました」と言った。

(……違う)

それだけのことだ。それだけのことだが——何かが、小栗の中で変わった。

変わった…というより緩んだ。長い間張り続けていた何かが。

「姫様は」

福沢が言った。声が、少し柔らかくなっていた。

「なぜ、そのように……よくご存知なのですか」

「色々な人が話してくれますゆえ」

糸子は答えた。

「中浜殿もそのひとりにておわしまする。そして——驚くことと、理解することは、別の話にてござりましょう。

驚かなかったからとて、話の重さが減じるわけではありませぬ。

むしろ、驚いている間は考えられぬ。わたくしは考えたい。何をすべきかを」

その言葉が出た後、座敷は静かになった。

今度の静寂は、先ほどまでとは少し違った。

緊張が解けた静けさではなく——何かが始まる前の、奇妙な落ち着きだった。

近藤勇は、ずっと黙っていた。

御簾の前で、二人の男が語り、一人の少女が聞いていた。

その全てを、近藤はただ見ていた。感心した。驚いた。しかしそれを顔には出さなかった。

福沢諭吉が「精神の自立」を語るとき、その言葉の熱は本物だと思った。見てきたものを本当に信じている人間の熱だ。

小栗忠順が一本のネジを掌に乗せたとき、近藤はそのネジの意味を完全には理解できなかった。

しかし小栗の目の色は理解した。あれは、戦場から帰った人間の目だ。

命がけで何かを見てきた者だけが持つ、あの眼だ。

そして糸子が——

(姫様は、相変わらずなお方だ)

近藤はそう思った。

ただ、本当にそう思った。

驚きはしない。しかし、聞き流してもいない。

話が核心に迫るほど、彼女の理解が深まっていくのが声の響きで分かった。

彼女が微動だにしないものだから、話しているこちらが、自分の言葉の重みでじわじわと追い詰められていくような錯覚に陥る。まるで、こちらの本気度を試されているようだ。

意図的なものか、それとも天性のものか。

(いずれにせよ、底の知れない姫様だ)

近藤の口の端が、かすかに動いた。

「フッ」

哀れみの混じった、しかし誇らしげな笑みだった。哀れみは——二人の男に向けたものだ。

あれほど熱心に語って、あれほど驚かれなかった。それはそれで、気の毒なことだ。

誇らしさは——御簾の向こうの少女に向けたものだ。

旭狼衛の長として、姫君の傍に立ち続けて、何度かそういう場面を見た。

あの姫君様は、人を見る。表面ではなく、その人間が何者であるかを見る。

そしてその人間が本物であれば——たとえ驚かなくても、必ず次の問いを立てる。

今日も、そうなるだろう。

近藤はそう思いながら、また動かない姿勢に戻った。重力が、腰の真芯から床へと真っ直ぐに突き抜けている。火鉢の熱が、じわりと右の頬に当たる。白檀の香りが、かすかに漂っている。

窓の外で、また雪が落ちた。

今日はまだ、長くなりそうだった。

「では」

糸子が言った。

「お二方に、一つ問うてもよろしゅうござりますか」

「なんでしょう?」と福沢諭吉と小栗忠順の二人は、声を揃えた。

「メリケンという国は――行く末、この国に何を望まんと思し召しでおわしますろうか」

火鉢の火が、静かに揺れた。

その問いが、座敷の空気の中に落ちていった。驚きの声は、どこからも上がらなかった。

代わりに——二人の男が、同時に背筋を伸ばした。それは答えではなく、始まりだった。

第百六話 了