軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百五話「二つの経路と帰国者たちの自負」

粉雪が、降っている。

江戸の空というのは、京とは違う質の灰色をしている。

糸子がここへ来て数年近くが経つが、いまだにその違いを言葉で説明できない。

京の空は、どれほど曇っていても底に薄い金色が滲んでいる。御所の瓦の色がそうさせるのか、あるいは千年という時間が空気そのものを染めているのか。

しかし江戸の空は違う。鉛を薄く溶かしたような、均質で、意志のない灰色だ。

その空から落ちてくる雪は、大粒で水っぽく、地に触れる前に消えかかっている。

文久元年、三月上旬(旧暦)

一橋上屋敷の奥御殿では、松割木が 熾(おこ) っていた。火鉢は今日に限って三つ。

普段は糸子の机の傍に一つあればそれで足りるのだが、今日は客間として使う予定の座敷にも運ばせてある。

小さな部屋に三つの火鉢というのは、いささかやり過ぎではないかと葵が言ったが、糸子は却下した。

寒い中を来る客に、薄ら寒い部屋を提供するわけにはいかない。特に、今日の客は。

「姫様、そろそろお時間でございます」

葵が襖の外から声をかける。

糸子は文机の上の帳面を閉じ、墨を綺麗に拭いた筆を硯箱の中に収めた。

帳面には、ここ数か月の情報が細かい字で書き連ねてある。

遠方からの報告、天朝物産会所を通じた動向、そして先月から断片的に入り始めた「帰国者」についての情報。

万延元年の六月に横浜港を出発した遣米使節団が、ようやく戻ってきた。

史実では四月に帰るはずだったのが、この世界線では、全体の行動が四か月ほど遅れた。

そうなった理由の細かな経緯は、糸子には重要ではない。重要なのは、彼らが帰ってきたという事実だ。

彼らが、帰ってきた。

あの「二人」が。

糸子はゆっくりと立ち上がり、着物の裾を手早く整えた。萌黄色の表着に、白い綿入れを重ねてある。火鉢があるとはいえ、今日の寒さはいつもより刺さるような気がした。

足袋の上から板張りの廊下を踏むと、その冷たさが足の裏から膝の裏まで上がってくる。

(来る。ようやく、来るわね)

思いながら、廊下を歩く。

前世の記憶の中に、この二人はいる。一万円札の顔と、横須賀の礎石。

しかし今、糸子が会おうとしているのは「幕末を代表する偉人」ではない。

二十代半ばの、まだ粗削りな若者と、三十代前半の、焦燥を刃のように研ぎ澄ました壮年の男だ。

彼らの一生は、まだこれから先にある。

問題は、彼らをどう動かすかではない。

どう信じてもらうかだ。

糸子は廊下の角を曲がり、二重になった障子の前で立ち止まった。

向こうから、火鉢の匂いに混じって、かすかに墨と紙の匂いがする。

そして、もう一つ。

(……お酒?)

糸子は少し眉を上げた。昼間から、少し飲んできているらしい。

(信じられない!、これでも今までいろんな人に会って来たけど…お酒の匂いを漂わせてきた人物なんて、一人もいなかったわよ)

(社会常識が無さすぎる。ひょっとしたらアメリカ行って…少し調子に乗って、勘違いしているのかしら?)

話を数日前に戻す。

村田がやってきたのは、夕暮れどきのことだった。

彼はときに前触れなく来る。使いを寄越すこともなく、気づけばやってくる。

今日も同じで、糸子が帳面と格闘しているときに、葵が「村田様がお見えです」と告げた。

「お上りいただいて」

と糸子がそう言うと…間もなく、村田はすでに部屋の中に入ってきていた。

背の高い男だ。肉付きは薄く、しかし骨格の頑丈さが着物の上からでも見える。四角く張った顎と、遠くを見るような癖のある目。

蘭学者らしい実直さと、武士らしい切れ味が同居した顔つきは、糸子がこの時代で出会った中で、数少ない「話が通じる相手」の顔だ。

「福沢を口説いてきました」

挨拶もなく、村田はそれだけ言った。

糸子は筆を置き、向き直った。

「どうでした?」

「あの男は動かしやすい。知的好奇心が強すぎて、それが弱点になっております」

村田は座る前に言い切る。糸子は苦笑した。

「座ってくださいませ、村田殿」

「失礼致します、姫様」

村田は座った。

彼は茶を出されても、いつも一口しか飲まない。

「どうやってお誘いなさったんですか?」

「姫様が世界の真実を聞きたがっている…と言ってやったったらあっさりと」

あまりにも単純な言葉に、糸子はもう一度笑いそうになった。

「それだけで?」

「福沢という男はですね」

村田は少し低く唸るように言った。

「自分が知っていることを人に話したくて堪らない 質(たち) なんです。 特に、自分だけが知っていることを。

それが公家の姫君ともなれば、格好の相手だと思ったはずです。

『メリケンの広さを知らない世間知らずの姫様に、俺が世界を教えてやろう』という心持ちで来るでしょうな」

糸子は少し考えた。

「その姫が、世界を知っていたら…どうお思いになるのでございましょうか?」

村田の眼がわずかに細くなった。

「そうなれば、話が変わりましょう。福沢も本物の同志に飢えております。ただの追従者ではなく、真正面から対話できる相手を」

「……なるほど」

「あの男は適塾で一番の変わり者でした。緒方先生も、あいつには一目置いておられた。

書物を読む速さと、それを自分の言葉に変換する能力が、常人の者じゃない」

村田殿が「常人じゃない」と言うときは、本当にそうなのだと糸子は経験で知っていた。

彼は滅多に人を褒めない。

「村田殿からのお墨付きなら、信頼できまする」

「わたしは褒めておりません。ただ事実を言っているだけですよ」

「同じことでござりまする」

村田は黙った。それが彼なりの肯定だ、と糸子はすでに知っている。

「小栗殿のほうはどうなっておりましょうか?」

村田が続けた。

糸子は少し表情を引き締めた。

「堀田様を通じて打診していまする。少し時間がかかっているのは、小栗殿が公務で動きを封じられているから。

ただ……聞いた話では、幕閣への建議が悉く却下されて、相当に鬱屈されているようで」

「あの男なら、そうなるでしょうな」

「村田殿は知っているんでありましょうか、小栗殿を…」

「顔を合わせたことはあります。眼の強い男でした。

ああいう眼をした人間は、燃やし続けるか、焼け落ちるかのどちらかです。両極端で中間がない」

糸子は窓の外の薄暗い空を見た。

粉雪が、障子の向こうで舞い始めていた。

「来てくれるといいのですが……」

「あの男は来ます」

村田は断言した。

「鬱屈した者は、扉が一つ開くと走り込んでくる。ただの公家の姫様では開かない扉も、『自分の策を理解している者がいる』と知れば、話が違ってしましょう」

「横須賀に、製鉄所を建てるべきです」

万延元年の遣米使節団として地球を一周し、帰国してからわずか三日後。小栗忠順が江戸城の評定所で放ったその一言は、居並ぶ幕閣たちの頭上に冷や水を浴びせるに十分だった。

その場に同席していたある幕臣が、後に述懐している。

「小栗の用意した資料の分量は、尋常ではなかった。

まるで数ヶ月前から準備していたかのように、数字が、紙の上に恐ろしいほどの緻密さで整然と並んでいた」

そこには、彼がその目で見てきたワシントン海軍工廠の全容が、冷徹な計算のもとに再現されていた。

敷地面積から年間の鉄鋼生産量の推計、必要となる日本人技術者や職人の数。

それだけではない。フランスから招聘すべき技師の月給や、必要となる近代的な工作機械の輸入費用、さらには建設候補地としての「横須賀」の地政学的・地質学的な優位性に至るまで、およそ当時の日本人にとっては未知の領域に属する具体策が、完璧なロジックで網羅されていたのだ。

「いいですか、この国が蒸気機関の時代、すなわち『工業化』の波に乗り遅れれば、あとは列強の食い物にされるのを待つだけです。

これは単に軍艦を買う、買わないという次元の話ではない。国を支える『骨格』そのものを、我が国自身の力で鋳造せねばならんという話なのです」

鋭い瞳で一同を見据え、小栗は一歩も引かずに言い切った。

しかし、彼を待っていたのは、泥のように重い沈黙だった。

火鉢の炭がパチリと爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。

集まった門閥の老中や若年寄たちは、互いに目配せを交わすばかりで、誰一人としてその数字の羅列を理解しようとはしなかった。

彼らにとって、小栗の言葉はあまりにも飛躍しすぎた、異界の言語に等しかった。

やがて、長い沈黙を引き裂くように、一人の老練な幕閣がわざとらしい咳払いをした。

「……小栗よ。熱意は認めるが、夢物語も大概にせよ。

そもそも、今そんな大博打に投じる予算の目途がどこにある。

ただでさえ、金銀の流出や異国との交易で物価が上がり、幕府の財政は火の車なのだ。あまり異国の妄言に惑わされるな」

「妄言、ですか」

その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、小栗の体の奥底で、何かがカッと音を立てて焦げついた。

彼の脳裏に、あのワシントン海軍工廠の圧倒的な光景が、強烈な色彩を伴って蘇る。

広大な工場の床に、無数の巨大な機械が等間隔に並んでいた。どれもが同じ規格で作られ、一糸乱れぬ精度で動いていた。煤と油の混じり合った濃密な匂い、大気を物理的に揺さぶる重金属の駆動音。

そして何より、人間の手仕事ではなく、「機械が、次の機械を作り出す」という、あの背筋の凍るような工業の自己増殖。

あの日、工廠の床の隅に、一本のネジが落ちているのを見つけた。

何気なく拾い上げ、親指と人差し指でつまんで、メリケンの陽光にかざしてみた。螺旋の刻みが、ルーペで見ても寸分の狂いもなく、冷徹に、そして美しく刻まれていた。

これだ、と小栗は思った。

今の日本に決定的に欠けているのは、この「一本のネジ」なのだ。

こういう精度で、こういう均質さで、職人の勘や体調に頼ることなく、何千個、何万個も同じものを寸分違わず作り出すシステム。

それこそが、軍艦から紡績機までを支える、近代国家の正体なのだ。

「妄言……」

小栗は、懐の中にずっと忍ばせていた、そのメリケン製のネジを強く握りしめた。

冷たく、そして硬い。親指の腹に螺旋の凹凸が食い込み、かすかな痛みが走る。

だが、その痛みが、逆に彼の沸き立ちかけた血を凪がせた。

(感情で吠えるな。計算で示せ。焦りではなく、設計で黙らせるのだ)

ネジの冷徹な硬さが、そう彼に語りかけているようだった。

精神論の攘夷など児戯に等しい。形ある工業力、それだけがこの国を守る盾になるのだ。

「……妄言であるか否かは」

小栗は、視線を幕閣たちから静かに外し、ゆっくりと立ち上がった。

「私が決めることではございません。後世の歴史が、自ずと判断いたしましょう」

それだけを言い残し、彼は一礼もせず、毅然とした足取りで評定所を退出した。

長く冷たい江戸城の廊下を歩きながらも、懐のネジを握る手は、どうしても放せなかった。

怒りではない、と小栗は自分に言い聞かせた。怒りは思考を鈍らせ、目を曇らせる。

今、彼の胸を支配しているのは、もっと黒く、じりじりとした「焦燥」だった。

時間がない。列強は一秒の休みもなく進んでいる。

あのアメリカとて、南部と北部の軋轢で、今にも国が真っ二つに割れそうな内憂を抱えているというのに、ひとたび工場に目を向ければ、その産業力は巨大な化け物のように膨らみ続けているのだ。

日本が一年足踏みをすれば、世界との差は三年分広がる。

このままでは、本当に手遅れになる。

(わかってくれる者が、この国に一人でもいるのか)

黒塗りの門をくぐり、江戸の青い空を見上げた小栗の脳裏に、かつて勝海舟が語っていた「ある噂」がふと浮かんだ。

――京の都に、こちらの動きをすべて見透かしたかのような、妙に耳の早い公家の姫君がいる。

その言葉を思い出した瞬間、小栗の手の中のネジが、ほんの少しだけ、熱を持ったような気がした。

廊下の先、薄暗い角を曲がったところで、使いが一人、待ち構えていた。

「小栗様、少々よろしいでしょうか」

堀田家からの使者だった。

密書を受け取ったのは、それからさらに二日後のことだ。

一橋にいる近衛家の姫君が、小栗の「工業化の策」に関心を持っているという。

小栗は最初、笑った。声に出さない笑いだったが、唇の端が僅かに動いた。

(公家に何がわかるのだ?)

近衛家といえば…五摂家の筆頭だ。

摂政関白の家。

政治ではなく儀礼を、実務ではなく格式を生業にしてきた家柄だ。

その家の姫君が製鉄所に関心を持つ、とはどういうことか?。

しかし、密書を読み進めるうちに、小栗の笑いは少し違う形に変わっていった。

「……近衛の姫は、勝とも繋がっているのか」

書かれていることが本当ならば、この姫は、ただの公家の飾りではない。

水面下で、独自の情報網を持ち、複数の知識人に接触している。

(なぜだ?)

幕府でも朝廷でも、そのどちらでもない場所から、この国を変えようとしている者がいるとでも言うのか。

小栗はもう一度、ネジを握った。

(試してみる価値は、あるかもしれない)

福沢諭吉が一橋上屋敷の重厚な総門をくぐったのは、約束の刻限よりもいくぶん早い時刻だった。

文久元年、うっすらと粉雪が舞う江戸の冬。

二十六歳の福沢の体躯は、五尺七寸(約百七十三センチ)とこの時代の男にしては頭一つ、いや肩一つ抜けて大きい。

適塾時代から培った頑健な骨組みに、どっしりとした筋肉が乗っている。

着古した普段着の着流しに、小慣れた羽織を無造作に引っ掛けただけの姿は、およそ天下の五摂家筆頭・近衛家の姫君にまみえる格好ではなかったが、彼自身はそんな門閥の礼法などどこ吹く風だった。

ただ、その無頓着な羽織の下、懐のあたりが不自然に丸く膨らんでいる。

懐に本を抱えていたからだ。

『ウェブスター辞書』、それから『増訂華英通語』。

アメリカから持ち帰った二冊を、彼はほとんど肌身離さず持ち歩いていた。

この国に新しい「英語の時代」を告げる、福沢にとっての最高の実弾であり、己の誇りそのものだった。

「――お通しせよとの仰せにございます。お足元にお気をつけて」

門番たちは福沢のただならぬ体躯と、隠しきれない怜悧な眼光に気圧されたのか、至極丁重に奥へと招き入れた。

案内役の中間が、摺り足で長い廊下を先導する。

福沢は高下駄を鳴らしたい衝動を抑えながら、ぐるりと上屋敷の佇まいを見回した。

さすがは御三卿の一橋徳川家、手入れの行き届いた庭の木々、黒光りするほどに磨き上げられた廊下の杉板、どれをとっても並みの直参旗本の屋敷とは一線を画する「格」がある。

だが、福沢の胸に湧き上がったのは、感嘆ではなく、薄暗い哀愁に似た冷めた心地だった。

(……やはり、小ぢんまりとしているな)

脳裏をよぎるのは、つい数ヶ月前まで目にしていた、海の向こうの光景だ。

ワシントンのホワイトハウス、広大な敷地に堂々とそびえ立つ石造りの大建築、そして大気を震わせる巨大な蒸気船。

それらに比べれば、日本の最高峰を誇る建築でさえ、精巧に作られた木と紙の箱庭のように思えてしまう。

西洋を見てしまった者が抱える、この奇妙な疎外感と不遜な視線。

福沢自身、我ながら嫌な変化だと自嘲気味に息を吐きながら、案内された控室の襖を開けた。

そして、その男の姿を認めた瞬間、福沢の思考は一瞬で撥ね回った。

(小栗殿だ)

板間の端、冷えた空気の中に、小栗忠順が座っていた。

いや、それは「座っている」という生ぬるい状態ではなかった。

直心陰流の免許皆伝を持つ小栗の姿勢は、まるで抜けば一閃、相手の喉元を貫くために極限まで絞られた弓のようだった。

膝の上に無駄なく揃えられた両手、微塵の隙もない顎の引き方。

そして、冷徹なまでに澄んだ鋭く大きな瞳が、静かに動いて福沢の巨躯を射すように捉えた。

「……これはまた、妙な組み合わせになりましたな」

福沢はわざとらしく肩をすくめ、豪快に笑ってみせた。沈黙に支配されていた室内に、彼のよく通る声が響く。

しかし、数え年で三十五歳になる幕府の俊英・小栗は、眉一つ動かさなかった。

「福沢殿か」

「はい、福沢諭吉でございます。と言っても、使節団でご一緒しましたから、お顔はご存知で」

「知っている」

言葉の短さは、そのままこの男の意志の硬度を表しているようだった。

福沢は少し間を置き、小栗の斜め向かいへと腰を下ろした。

二人の間に、再び張り詰めた沈黙が落ちる。部屋の中央には、小さな火鉢が一つ。

熾った炭の微かな爆ぜる音だけが、薄い壁一枚を隔てて外で舞う粉雪の冷気とせめぎ合っている。

先に口を開いたのは、旺盛な好奇心とユーモアを隠そうとしない福沢だった。

「小栗様は、なぜここへ?」

「それはこちらが聞きたい」

「私は、聡明な姫君が世界の事情を聞きたがっているというので、教えに参った次第です」

福沢は少しおどけたように言った。小栗の視線がわずかに動いた。

「……教えに?」

「ええ。メリケンという場所がいかに面白い国か、とくと講釈して差し上げようと思いまして」

「公家の姫君にか?」

「公家の姫君様に…ですとも。生まれと家柄だけで生きてきた方には、メリケンの話はさぞかし刺激的でしょう。

天下の近衛家の姫様でも、ワシントンの大統領の孫が今どこで何をしているか、ご存知ではないでしょうからな」

小栗は鼻を鳴らし、それ以上は何も語らなかった。

福沢はその沈黙を、幕臣特有の公家への冷笑、あるいは己の合理主義への無言の同意と受け取った。

二十六歳の福沢の胸中には、確固たる自負があった。

今、この国で最も世界の本質を理解し、次の時代の道標を握っているのは、他でもない自分自身であるという、揺るぎない確信。懐に抱いた辞書が、彼の皮膚を通じて熱を帯びていく。

一方、小栗忠順の胸の内にあったのは、福沢のような啓蒙の愉悦ではなく、五臓六腑をじりじりと焼き焦がすような「焦燥」だった。

帰国直後、幕閣へ上申した「横須賀へのフランス式製鉄所建設」。

それに対する、譜代・門閥たちの「予算がない」「異国の妄言に惑わされるな」という冷淡な一蹴。

あの言葉が、今も小栗の耳の奥で呪いのように響いている。

(妄言だと……? メリケンのあの圧倒的な工業力、寸分の狂いもない機械の林を、見もせずに何が妄言か!)

小栗は懐の中で、一本のネジを無意識に握りしめていた。

ワシントン海軍工廠の床から拾い上げた、美しく螺旋を刻む、アメリカ製のネジ。

冷たく硬い金属の感触が、親指の腹に食い込んでかすかな痛みを伝えてくる。

焦りではない、これは計算だ。

日本が一年遅れれば、列強との差は三年分広がる。

この鬱屈とした現状を打開できるなら、たとえ公家の裏ルートであろうとも、藁をも掴む思いで一橋邸へ足を運ぶ――それが小栗の、武士としての、そして一国の骨格を担う者としての鉄の意志だった。

「……来るようですな」

小栗の地を這うような低い声が、室内の空気をぴりりと震わせた。

静まり返った廊下の向こうから、かすかな絹擦れの音と、迷いのない足音がこちらへ近づいてくる。

幕末を代表する二人の偉人が、同時に背筋を正し、襖の向こうへと視線を向けた。

葵が襖を開けた。

「お二人を、お通しいたします」

と言った。その言葉は、どこか淡々としていて、しかし礼儀正しい。

二人は立ち上がり、葵の案内で廊下を歩いた。奥御殿の主室へ続く廊下は、外の粉雪の音さえ届かないほど静かだった。

板張りの廊下が、足音を吸い込むように鈍く響く。香木の甘い匂いが、少しずつ濃くなった。

龍脳(りゅうのう) か、あるいは白檀か。公家らしい匂いだ…と福沢は思った。

主室の前で葵が立ち止まり、そっと引き手に手をかけた。

重い、低い音がして、二枚の大きな襖が開く。

部屋は、思いのほか広かった。

板間と畳が組み合わされた、少し珍しい作りだ。中央に三つの火鉢が等間隔に置かれ、その赤い光が部屋全体を柔らかく照らしている。

天井が高い。普段はここを何に使っているのかと訝しむような、広さだ。

そして、部屋の奥に。

薄い竹で丁寧に編まれた「御簾」が、吊り下げられていた。

上から下まで、細い竹の格子が規則正しく並んでいる。

光を通すが、向こうの姿はぼんやりとしか見えない。御簾の色は若草色で、先が金色に染められた縁飾りがついている。

福沢は御簾を見て、一瞬、自分が公家の屋敷に来たという実感を持った。

(なるほど、公家というのはこういうものか)

ついつい比べてしまう。

アメリカでは、初めて会う人間でも目を見て直接話す。握手をして名前を言う。

生まれも身分も関係なく、その場で対等に扱われる。

しかしここでは御簾だ。

格式と儀礼と、目に見えない壁。

少し微笑ましいと福沢は思った。

小栗忠順は、御簾をひとつ見て、無言でその場に腰を下ろした。

彼にとって、こういった武家や公家の形式は日常だ。

膝を揃え、背筋を立て、しかし懐の中でネジを握る手は、解かれていない。

二人は火鉢の前に並んだ。

火の暖かさが膝の下から上がってくる。外の粉雪は、もう遠い世界のことだった。

香木の甘い匂いと、火の熱と。

そして、福沢の着物から微かに漏れている酒の香り。

御簾の向こうに、人の気配がある。

小さな気配だ。しかし揺れない。

動揺していない。

二人の武家と、武家以上の自負を持つ知識人が眼前に現れても、御簾の向こうの気配は、まるで水面のように静かだった。

(子ども、か)

小栗はそう思った。十三歳だと聞いていた。

公家の姫君。

(しかし…)

その「静けさ」が、少し引っかかった。

恐れからくる静けさではない。迎える側の余裕か、それとも——

小栗と福沢は共に御簾の前で平伏する。

御簾の隙間から透ける二人の姿を、糸子は静かに見下ろしていた。

(……それにしても、信じられない!)

糸子は内心で、こっそりと天を仰ぎそうになった。

鼻腔をくすぐる香木の香りに混じって、明らかに漂ってくるのは、ツンとした安酒の匂いだ。平伏している大柄な男——福沢諭吉の衣服から漏れ出ている。

(これから高位の人間に会おうっていうのに、お酒を引っかけてくるなんて。将来、自分が一万円札になるからって、調子に乗っているのかしら?。まぁ、本人はまだそんなこと知る由もないのでしょうけれど!)

(…それなら単なるアル中か?)

呆れを通り越して、もはや笑いしか出てこない…が、糸子はすんでのところで表情を引き締めた。

酒臭い男ではあるが、その双肩に漂う自負は…本物……???。

懐に抱えた「洋書」の重みを誇るかのように、男の背中には既存の秩序を恐れない、不敵なまでの生命力が満ち満ちている。

(…しかし、調子に乗っているのか?、または勘違いしているのか?、恐れを知らないだけなのか?。まさか、バカってことはないわよね?)

一方で、その隣に座る小栗忠順の気配は、福沢とは対照的だった。

張り詰めた硬質な空気。まるで、ギリギリまで引き絞られた鋼の弓のようだ。

衣服の隙間から覗く首筋の筋肉、一糸乱れぬ座り方、そして何より、その胸の奥から発せられる、爆発寸前のマグマのような「焦燥感」。

世界を見てきてしまったがゆえに、この国の遅れに絶望しかけている孤独が、御簾の向こうまで痛いほどに伝わってくる。

(うーん、小栗氏は逆に硬すぎるわね、なんか余裕が無さすぎる感じね…)

糸子は胸の内で小さく微笑み、二人を値踏みするような視線を、そっと声音の奥に隠した。

「大儀である。面を上げられよ」

御簾の向こうから、声が来た。

子どもの声だ。

しかし、そこには奇妙なほど落ち着きがある。高いが、柔らかく、そして、どこかに切れ味がある。

「近衛糸子と申す。今日はよう参ってくれました」

福沢は居住まいを正した。

思わず…だった。

何か…その声に「正さなければならない」と思わせる何かがあった。

おどけた気持ちが、一瞬で鎮まった。

小栗も知らず知らずのうちに、懐のネジを握る力を、わずかに緩めていた。

(これは……)

二人の胸に全く同じとは言えないが、似たような感触が生まれていた。

これは、単なる形式の対面ではない。

御簾の向こうの少女が、次の言葉を探している。それが伝わってくる。

しかし焦っていない。急いでいない。時間をちゃんと自分のものとして使っていた。

「お二方が、アメリカを御覧ぜられたる方々と承り及び候」

「さようでございます」

福沢が答えた。

「それは、いと良うございました」

…よかった、という言葉の使い方が妙だった。

「よかった」とは普通、何かの結果に対して言う言葉だ。

しかし糸子の言い方は、まるで長いこと待っていた何かがようやく揃った…そういう使い方だった。

「本日は、ゆかりあることなど様々に承りたく存じます。なにとぞ——」

一拍、間があった。

「包み隠さず、ありのままにお聞かせ願いとう存じます」

「——はっ」

小栗が、思いがけず深く頷いていた。

福沢は横目でそれを見た。自分も、同じように頷きかけていたことに気づき、内心で苦笑した。

(なんだ、この姫君は…)

子供の…公家の姫君だ。世間知らずの雛人形のような。メリケンの広さを教えてやろうと思っていた相手だ。

(しかし、御簾の向こうの気配は…いったい?)

三つの火鉢が静かに燃えている。

粉雪が、屋根の上で、音もなく降り積もっている。

香木の匂いが、緩やかに空気の中に溶けている。

その全てを、静かに、しかし確実に掌の中に握り込んでいるような——

そういう気配が、御簾の向こうにあった。

福沢諭吉は、生まれて初めて「世界の広さを教えてやろう」と思った相手に、少し慎重になった。

小栗忠順は、懐のネジをゆっくりと放した。

「では……」

御簾の向こうから、糸子の声が再び来た。

「何はさておき、そのメリケンと申す国の 今(・) の面影を、承りたく存じます」

その「今」の一字に、二人は微かに反応した。

「今」と確かに言った。

過去のことでも、概念のことでも、感想のことでもなく——「今」を聞いた。

(この姫は、一体何を知っているのか?)

それが小栗忠順と福沢諭吉への問いとなり、奥御殿の空気を音もなく、深く揺さぶった。

第百五話 了