作品タイトル不明
第百四話「万延元年遣米使節、帰朝の風」
一
文久元年、二月の六日(旧暦)。
その朝、品川の海はまだ、深い夜の中にあった。
冬が引き際を迷う海面は、鈍い鉛を混ぜたような藍色。
小さく、けれど途切れることなく、波が舟の腹を叩いている。ト、ト、トン――その音が、霧に遮られて遠くとも近くともつかぬ距離から、奇妙に響いていた。
たちこめる霧は、どこまでも濃い。
海の霧というのは、陸のそれとは違ってひどく重たいものだ。
潮を孕んでいるのだろう、頬を掠めた気配を指先で舐めると、ほんのり塩の味がした。
視界の歪む白さの向こうに、一隻の大きな蒸気船が、巨大な影となってぼんやり佇んでいる。
使節団を送り届けてきた、メリケン国海軍の補給艦だった。後方の煙突から、うっすらと煙が這い出している。
やがて船腹から、いくつかの小舟が滑り出すように、岸へと漕ぎ出されてきた。
揺れる小舟のなかに、いくつもの黒い人影が、じっと佇んでいる。
ようやく、帰ってきたのだ。
万延元年の四月に品川を旅立ち、メリケンへと渡って、太平洋、大西洋、さらにはインド洋をも巡った。九ヶ月に及ぶ大航海を終え、遣米使節団が品川沖へと戻ってきた――まさに、その帰着の朝だった。
だが、小舟に身を潜める影たちのなかから、声はひとつも聞こえてこない。
声をあげるだけの気力が、もう枯れ果てていたのだろうか。それとも、言葉を交わすこと自体を忘れてしまったのか。
この九ヶ月という旅路は、彼らの心の奥底を、間違いなく変え衰えさせていた。
二 新見正興の手のひら
使節団の正使を務める新見豊前守正興は、小舟の舳先に近い座板へ、静かに腰を下ろしていた。
齢、三十八。当時の幕臣のなかでは、際立って若い旗本である。端正な顔立ちに、きりりと結った髷、外国奉行としてのプライドをのぞかせる毅然とした佇まい――メリケンの新聞は、彼のことをこぞって「プリンス」と書き立てた。
だが、今の霧のなかで見せる新見の顔は、あの紙面を飾った華やかな「プリンス」の面影をすっかり失くしている。
目の下には濃い隈が滲み、頬の肉は削げ落ちたようにこけていた。
容赦なく吹きつける風雨や潮、そして何より、向こうで浴び続けた異国の言葉の奔流。
注がれる視線、幾度も交わした握手、華美な夜会、慣れぬ演説――その途方もない重みすべてが、今なお新見の肩へしずかにのしかかっているようだった。
新見はふと、自分の右手を、目の前で開いてみた。
手のひらは、白く冷えていた。
はるか遠いメリケンの議会で、ブキャナンという名の、あの痩せた老人と握手を交わした手だ。
あの時触れた老人の掌は、驚くほど骨ばっていたのを覚えている。自分の指の隙間で、ごつごつとした骨と骨が、静かにきしむように当たっていた。
大統領――人は彼をそう呼ぶ。
けれど、いまの新見の胸には、その言葉が最初に耳にした時のような輝きを伴って響くことはない。
あの大統領という存在は、たった四年で、また別の人間へとすり替わるのだ。
わずか四年で、まったくの別人に、変わってしまう。
この一文を、自分はこれまで心の中でどれほど噛みしめてきたか、もう数えることもできなかった。
不意に、小舟の脇から声が上がった。
「新見様。本当にお疲れさまでございました」
通弁を務める立石斧次郎の、まだ若さの残る声だった。
新見は、開いていた手のひらを、ゆっくりと握りしめた。それから、低く応じた。
「……お互いにな」
「江戸の匂いが、致しますね」
「ああ、するな」
新見はしばらくの間、霧の彼方にあるはずの陸の方角をじっと見つめていた。
立石は江戸の匂いだと言ったが、新見にはその匂いの正体が、まだ判然としなかった。
ただの海の匂いか、それとも塩の匂いか。いや――うっすらと漂う味噌や、漬物のような、確かに日の本のものであると確信できる匂い。
この九ヶ月間、決して嗅ぐことのなかった懐かしい匂いだ。
だがその匂いに混じって、新見の鼻の奥に、ふいに別の記憶が蘇ってきた。
メリケンの街を包んでいた、馬糞と、煙草と、あの油菓子のような甘ったるい香り。
不思議なものだな、と新見は思った。
あの匂いは、向こうにいた頃は毎日嫌というほど嗅がされていたのだ。
それなのに、こうして江戸の匂いに包まれた瞬間、かえってあちらの匂いの方が、鮮烈に思い出されてしまう。
人は遠ざかって初めて、その姿をはっきりと見つめ直すことができるのかもしれない。
新見は、ふう…と深く息を吐き出した。
こぼれ落ちた白い息が、濃い雾のなかに混じり、しずかに流れて消えた。
三 村垣範正の日記
また別の小舟のなかでは、副使を務める村垣淡路守範正が、膝の上の風呂敷包みを両手でしずかに押さえていた。
齢はすでに五十を越えている。この使節団の一行においては最年長だ。
白髪の混じり始めた髷の下、その目元には幾重もの深い皺が刻み込まれていた。
風呂敷に包まれているのは、彼がこの九ヶ月に及ぶ旅の間、ただの一日も欠かさず書き綴ってきた日記の束である。
『航米日録』――後世にまで長く語り継がれ、広く読まれることになる、当時の日本人が遺した最高峰のメリケン見聞録だ。
村垣はその包みを、まるで体温のある小さな獣でも抱くかのように、愛おしそうに膝の上で抱きすくめていた。
九ヶ月前、品川の地を発ったとき、彼の胸にあったのはメリケンという未知の国に対するあからさまな侮蔑だった。
あそこには君臣の礼がない。
人の行うべき道徳もない。
国のトップたる者が選挙とやらで選ばれるなど、要するにただの人気投票で国を動かしているに過ぎないではないか。
そんな脆い仕組みで、国家が長く保つはずがない――。
出航前の日記のなかで、村垣は「野蛮」という言葉を何度も叩きつけるように書き記していた。
だが、その日記の文面が、旅を重ねるごとに少しずつ色合いを変えていったことを、誰よりも自覚していたのは村垣自身だった。
ワシントンの議場で、白熱する議論の熱量を目の当たりにしたとき。
ニューヨークで、黒い煙を吐き出す工場の煙突が林のように立ち並ぶ光景を見上げたとき。
あるいは病院のなかで、ちり一つない清潔な廊下を、看護婦と呼ばれる女たちがてきぱきと立ち働く姿を見たとき。
村垣は、自分を支えていた確固たる柱が、足元からぐらりと揺らぐのを確かに感じていた。
あの大陸には、道徳がないわけではないのだ。
ただ、道徳の「形」が、我々の知るそれとは全く違うだけなのだ、と。
やがて小舟が、ゆっくりと岸辺へ近づいていく。
放たれた艫綱を、岸で待つ人足たちが力強く引き寄せた。
村垣は膝の上の風呂敷をそっと抱え直すと、しずかに腰を浮かせた。
だが立ち上がった瞬間、足元がわずかによろめく。
九ヶ月もの間、常に揺れ続ける船の上に馴染んでいた老躯は、皮肉にも揺れることのない陸の固さを、もう忘れかけていた。
すぐさま、傍らの立石がさっと手を差し伸べる。
「村垣様、大丈夫ですか」
「……ああ、すまんな」
「お足元、どうぞお気をつけて」
村垣は一歩、地を踏み出した。
その足がしっかりと言問わぬ陸の地面を捉えた瞬間――なぜか村垣の口の奥に、得体の知れない苦いものが、じわりとこみ上げてきた。
この苦みの正体は何なのだろうと、村垣は歩きながら考えを巡らせた。
懐かしさ…では決してない。
ようやく戻れたという…安堵でもなかった。
もっと別の――言葉にできない、複雑で重たい何かだった。
無事に帰ってきたという安らぎと、帰ってきてしまったという底知れぬ恐れが、村垣の心の中で奇妙に交錯していた。
この九ヶ月間で目撃してきた世界の姿を、これから誰に、どうやって語ればいいのだろう。
そして語ったところで、この国の一体誰が、本当の意味で理解してくれるというのか。
胸を焦がすその底知れぬ不安こそが、あの苦みの正体だったのだと、村垣が気づくのはもう少し先のことになる。
四 小栗忠順、目付の目
もう一隻の小舟から、ひときわ力強く地を踏みしめて降り立った男がいた。
目付を務める小栗豊後守忠順――のちの上野介である。
年齢は三十を少し越えたばかり。男として最も血気盛んで、野心に満ちた年頃だ。
がっしりとした骨太の体躯に、太く凛々しい眉、そして頑なまでに固く結ばれた口元。
船上で過ごした九ヶ月の間、どんなに荒天の日であっても、崩れた髷だけは毎朝自分の手で几帳面に整え続けてきた男だった。
小栗は岸へ降り立ったその瞬間、迷わずその場にしゃがみ込んだ。
そして手のひらを、地面のゴツゴツとした砂利にぐっと押し付けた。
「小栗様、どうなされました」
その奇妙な行動に、随行員の一人が慌てて声をかける。
小栗は立ち上がりながら、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「……地面というのは、揺れぬものだな」
「ええ、揺れませぬとも」
「そうか」
小栗は確かめるように、もう一度両足でしっかりと大地を踏みしめた。
それから懐に手を入れ、紙に包まれた小さな塊をそっと取り出した。
慎重に紙を開く。
薄明のなかに現れたのは――鈍く光る、一本のねじだった。
メリケンのワシントン海軍造船所を視察した際、見学のどさくさに紛れて自分のものにした、ねじ一本。
現地の工員たちは、そんなものを何百本も無造作に桶の中へ放り込んでいた。
その中から一本、しれっと懐に忍ばせてここまで持ち帰ってきたのだ。
小栗は、そのねじを夜明け前の頼りない光に透かし、じっと見つめた。
ねじ山の螺旋が、恐ろしいほど均等に、美しく刻まれている。
あの桶の中には、これと全く同じ寸法のものが何百本、何千本と眠っていた。寸分の狂いもない。
あの造船所の脇にある工場では、巨大な機械が毎日、これを規格通りに削り出していたのだ。
いまの日本のどこを探しても、あんな機械は存在しない。
日本の鍛冶職人がどれほど名工であろうとも、ねじ一本を寸分違わず量産することなど不可能なのだ。
小栗の胸の内で、その冷厳な事実は九ヶ月間、片時も消えることはなかった。
小栗はねじを再び紙に包み直した。
深く懐へと仕舞い込み、誰もいない海に向かってしずかに呟く。
「……これからは、造船の時代じゃ」
その声はあまりに低く、誰の耳にも届かなかった。
だが小栗の心の中では、すでに冷徹な方程式が完成していた。
横須賀に、何が何でも造船所を作る。
そのためならフランスの力を借りてもいい、どれほど莫大な借金を背負っても構わぬ。
日本に機械を導入し、職人たちを近代的な工場組織へと組み直すのだ。
でなければ――。
小栗の鋭い眼光は、霧の向こうに広がるメリケンの圧倒的な街並みを捉えていた。
縦横に走る馬車鉄道、張り巡らされた電信柱、そして空を衝く煙突の林。
もしあの文明の怪物が、軍艦一隻でこの頼りない国に踏み込んできたらどうなるか。
小栗の喉が、ごくりと重く鳴った。
しかしその恐怖の証を、彼は誰一人として見せることはなかった。
五 福沢諭吉、辞書を抱えて
もう一艘の小舟から、ひときわ大きな荷物をこれでもかと抱え、軽快に降り立つ男がいた。
福沢諭吉、二十七歳。
使節団における彼の肩書きは、教授方頭取――いわば、随行した知識人グループのまとめ役といったところだ。
しかし、そのお仕着せの肩書きの軽さとは裏腹に、彼が両腕に抱え持った荷物の重さは、一行の誰よりも際立っていた。
大きな風呂敷包みが、ふたつ。
ひとつには、最低限の衣類。
そしてもうひとつには――ぎっしりと本が詰まっていた。
メリケンの地で買い漁った英和辞書、地理の専門書、最新の医術書、社会の構造を解き明かした解説書、さらには何冊もの新聞の綴じ込み。
福沢の顔には、九ヶ月に及ぶ過酷な旅の疲れなど、不思議なほど見当たらなかった。
いや、厳密にいえば、目元や頬の肉の落ち方には相応の疲弊が滲んでいる。
だが、その眼光だけは、らんらんと異様な輝きを放っていた。
まだ誰にも見せていない、そして本人ですら言葉にし尽くせない、ある種の熱狂的な興奮がそこに宿っていた。
「福沢殿」
隣を歩く通弁の福地源一郎が、呆れたように声をかける。
「あなた、向こうにいる間、まともに寝ておられたのですか?」
「寝とったさ、ぐっすりとな」
「嘘をおっしゃい。私の見立てでは、あなた、夜中になるたびランプの灯りの下で、夢中で辞書をめくっておられた。そんな夜が何度もありましたぞ」
「おや、めくっておったかな?」
「めくっておりましたとも」
福沢は、悪戯が見つかった子供のようにふっと笑った。
「どうにも目が冴えて仕方がなくてな。あの国が一体全体どういう仕組みで回っておるのか、現地で聞いた話を頭のなかでもう一度並べ直して整理せんと、寝つけんのだよ」
「そりゃあ、学者の病というやつですな」
「全くだ。それも、よっぽど質の悪い病じゃ」
二人の若い笑い声が、夜明けの海に響いた。
笑いながらも、福沢の足はしっかりと岸の砂利を踏みしめていた。
その感触を確かめながら、彼の思考はすでに別のところへと飛んでいた。
メリケンという国で、彼が最も強烈な衝撃を受けたのは、大統領の存在でも、厳かな議会でも、巨大な軍艦でもなかった。
それは、病院だった。
ワシントンの市民病院、そしてフィラデルフィアの海軍病院。
その建物のなかで、何が福沢の心を一番激しく揺さぶったのだろう。
それは徹底された「システム」だった。
病人をただベッドに寝かせて、医者が診るのではない。誰がどんな役割を担い、誰が患者の金の管理をし、誰が薬の在庫を扱い、誰が日々の看病にあたるのか――その役割分担のすべてが、紙の上に見事な図として描かれていたのだ。
その機能美に満ちた図を、福沢はこっそり自分の手帳へと写し取っていた。
病人を人道的に見ない、という意味では決してない。
ただ、本当に多くの人を救うためには、まず機能する仕組みこそが必要なのだ。
人間の心の温かさ、それだけでは病院という巨大な組織は回りようがない。
福沢の頭のなかには、あの美しい図面が、今も鮮明に焼き付いている。
江戸へ戻ったら、すぐに塾でこれを教えよう。
メリケンに渡る前から、彼は芝の中津藩中屋敷の一角で小さな私塾を開いていた。
これまでは蘭学の塾だったが、これからは英語の時代だ。
それだけでなく――メリケンで見た社会の仕組み、郵便、保険、あるいは銀行。
日本の未来を背負う若い者たちに、一刻も早く教え込まねばならない。
福沢は歩を進めながら、心の中で、ひそかにあるひとつの言葉を転がし、温めていた。
――独立、自尊。
まだ、彼自身のなかでも完全に結晶化された言葉にはなっていない。
けれど、その確かな輪郭は、目の前の霧の向こうに、もう見え始めていた。
六 メリケンの万次郎
桑港――すなわち、サンフランシスコの埠頭。
時計の針を、半年ほど前へと巻き戻す。
使節団の一行が、初めてメリケンの大地を踏みしめた、あの日のことだ。
賑わう桟橋の喧騒のなかに、ぽつんと一人の日本人が立っていた。
その身にまとっているのは、見慣れた羽織袴ではない。
メリケン風に仕立てられた黒の上着に、糊のきいた白い襟のシャツ。
足元には革靴を履き、頭の髪は短く刈り込まれている。
だが、その佇まいと顔立ちだけは、紛れもない、日の本の人間のものだった。
中浜万次郎。
メリケン駐在総領事――。
その肩書きは、糸子の執拗な交渉によってハリスから引き出した「相互主義」の原則に基づき、日本側がアメリカの地に置くことを初めて認めさせた、初の代表者という重い称号だった。
万次郎は桟橋の上で、新見、村垣、小栗の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「お待ち申し上げておりました」
響いたのは、紛れもない日本語だった。
ただ、その滑らかな発音の端々に、わずかながらメリケン特有の、舌を巻くような響きが混じり込んでいる。
新見の眉が、わずかにピクリと動いた。
小栗の鋭い目が、さらに細くなる。
村垣は、ただ無言のまま、万次郎の姿をじっと凝視していた。
彼らとて、万次郎の名を知らぬわけではない。
土佐の貧しい漁師の倅に生まれ、遭難の果てにメリケンへと渡り、奇跡的に帰国を果たした男。
幕府の厳しい取り調べをも受けた、あの男だ…
その男がいま、こうして異国の地で異国の服をまとい、現地の人々から「ミスター・ナカハマ」と敬意を込めて呼ばれながら、自分たちを「日本の正使」として堂々と出迎えているのだ。
その日の夜、滞在先の一室にて。
万次郎は新見、村垣、小栗の三人を前にして、静かに、しかし重々しく語り始めた。
表層の華やかさだけでは見えてこない、メリケンの「今」の真実の姿を。
時代の糸が向こう側からどう引っ張られているのか、その張力を肌で感じ取った男にしか語り得ない、生々しい現実を。
「皆様。いま、この国は――」
万次郎の声音は、酷く低かった。
「真っ二つに割れようといたしております」
「割れる…とは?」
小栗の眉が、不穏な気配を察して動く。
「左様でございます」
「具体的には、いかなる形でだ?」
「奴隷を維持しようとする州と、それを認めぬ州。この二つが、もう十年、二十年という長い歳月、激しくぶつかり合ってまいりました。
そして今年、新たな大統領が選ばれます。間もなく訪れる秋、北の党から新しい大統領が誕生することは、ほぼ確実と目されているのです。
それが…決まった瞬間に――」
万次郎は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「南の州が、合衆国という連邦から離脱すると宣言しております。すでにいくつかの州では、内々の決議さえ済ませている状態です」
「抜けた後は、どうなる?」
「戦になります」
「時期はいつになる?」
「おそらく…半年、長く見ても一年のうちには火の手が上がるでしょう」
静まり返った部屋のなかで、新見が、ゆっくりと息を呑み込む音がした。
小栗の手が、机の上に置かれた湯呑みの縁を、しずかに、けれど強く撫でまわした。
村垣は、ただの一言も発さなかった。けれど、その白髪の混じった眉が、微かに、戦慄に震えていた。
万次郎はさらに言葉を重ねる。
「これからの数ヶ月、皆様はこの国の首府へお入りになります。
どこへ行ってもお祭りのような大騒ぎで歓迎されることでしょう。
…ですが、その喧騒の裏では、商人たちも銀行家も、みな恐怖に震えているのです。
戦が始まれば、金の流れは完全に止まる。金の流れが止まれば、大店とてひとたまりもなく倒れる。
その後に待っているのは、底なしの混乱でございます」
「……」
「どうか、ご自身の目でとくとご覧になってください。
街を観察されれば、私が今申し上げたことの意味が、わずか数日のうちに皆様の胸に染み込んでいくはずです。ですが――」
万次郎は、さらに声を潜めた。
「江戸へ送るご報告書にお書きになる際は、どうか、慎重にお願い申し上げます」
「慎重に、とはどういう意味だ?」
「これはあくまで、メリケンの内輪の揉め事でございます。
日本が将来、いかなる縁を、あちらのどちらの勢力と結ぶことになるのか――それはこれから数年の動向を見て決めるべきお話。
いま出す報告書のなかで、決してどちらか一方に肩入れするような書き方をなさいませぬよう」
新見は、万次郎の言葉の重みを噛みしめるように、深く、首を縦に振った。
「……承知した」
「左様であれば――」
七 ワシントン、選挙の熱
万延元年の五月、初夏のワシントン。
使節団は無事に批准書の交換を済ませ、現職の大統領ブキャナンとの謁見という大役も、すでに果たしていた。
一件落着、と胸をなでおろしたいところだったが、何かがおかしかった。
首府の街全体が、得体の知れない熱病に浮かされているのだ。
滞在先であるウィラード・ホテルの窓の外を、連日連夜、地鳴りのような足音とともに人々の狂気めいた群れが通り過ぎていく。
夜になれば、無数のたいまつが暗闇を血のように赤く染めた。
彼らが掲げる旗やプラカードは、真っ二つに分かれている。
あちらの群衆が叫ぶのは、共和党の新しい大統領候補、リンカーンという名の、やけに背が高く肩の張った男の名だ。
かと思えば、こちらの群衆は激しい罵声を浴びせ返し、小競り合いから殴り合いの乱闘へと発展していく。
「今、メリケンは次の頭を決める大戦の最中なのです」
通弁の福地たちが、窓の外を指差しながら緊張した面持ちで解説してくれた。
ただの奴隷制の是非だけではない。北部の工場を守るための関税の話、西へと伸ばす鉄道の利権、広大な土地の奪い合い――。
何重もの利害の層が複雑に絡み合い、この国を内側から引き裂こうとしていた。
小栗はホテルの窓辺にじっと佇み、その狂騒を、凍りついたような目で見つめ続けていた。
――君臣の礼が、ここにはない。
国のトップを、民衆がただの票数で選ぶ。
だからこそ、選ばれなかった側の数百万、数千万という人間が、必ず激しい不服を抱くのだ。
そしてその不服がひとたび牙を剥けば、これほどの暴動に近い群衆となって国家を揺るがす。
これこそ、万次郎が言っていた「共和制」という仕組みが宿命的に抱える、避けられぬ業ではないか。
小栗は心の中で冷徹に呟いていた
だが、と小栗は同時に、引き裂かれるような思考の深淵に落ちていく。
確かにこの仕組みは歪で、業に満ちている。
しかし――ならば、あのワシントン海軍造船所の圧倒的な規模は何だ。あのねじ一本にまで行き渡る、寸分の狂いもない正確さはどこから来る。
あの巨大な軍艦の、大砲を跳ね返す鋼の厚みは。
それらは紛れもなく、日本をいつでも叩き潰せる「本物」の力だ。
そして皮肉なことに、その凄まじい本物を生み出す土壌は、この衆愚政治とも言える、業にまみれた仕組みの真ん中にこそ存在しているのだった。
業と本物。
その両方が奇妙に、そして強固に結びついている。
日本が生き残るためには、この厄介な業を捨て去り、本物の技術と力だけをもぎ取らねばならぬ。
けれど、根を張る土壌を拒絶して、果実だけを盗み取るような都合のいいことが、果たして本当にできるのだろうか。
小栗の頭の中で、その重すぎる問いの螺旋だけが、ワシントンの狂ったような夜の底で、いつまでも、いつまでも回り続けていた。
八 帰り船、洋上
使節団の一行が、メリケンの東岸であるニューヨークの港を発ったのは、万延元年の十月末のことであった。
帰路の足となったのは、往路とは異なる米国海軍の巨大な蒸気フリゲート艦「ナイアガラ号」。
船は広大な大西洋を横切り、アフリカ南端の喜望峰を回り、インド洋の荒波を越えて、香港、そして長崎へと寄港する気の遠くなるような大航海だ。
刻一刻と祖国が近づく船室のなかで、正使の新見は毎夜、ランプの微かな灯りを頼りに手帳を開き続けていた。
そこには、異国の地で目撃し、耳にし、肌で感じ取ってきたすべての事象が、生々しい断片のまま書き付けられている。
日本に戻れば、この混沌とした断片を、一つの「公式な報告書」として美しくまとめ上げねばならない。
だが、その作業において最も新見を悩ませ、壁となったのは――。
新見はペンを置き、自嘲気味にふっと息を漏らした。
最も難しいのは、自分自身がこれから「誰に、何を、どこまで信じてもらいたいのか」その覚擁を決めることだった。
大統領という国のトップが、わずか四年で別の人間へとすり替わる。
国家の命運を分ける選挙のたびに、民衆が敵味方に分かれて激しく割れる。
その狂騒の裏では、工場の無機質な機械が、毎日ねじを何万本も正確に削り出している。
清潔な病院のなかでは、看護婦という名の女たちが、男顔負けの手際でばたばたと走り回って病人を救っている。
果たして、これらのどれを「大いなる脅威」として強く書き、どれを「異国の奇習」として薄く濁して書べきか。
この報告書が、一体誰の机の上で開かれるかによって、言葉の匙加減は変えざるを得なかった。
堀田様の机の上か。
安藤様の机の上か。
松平様の机の上か。
板倉様の机の上か。
それとも——酒井様の机の上だろうか。
新見の脳裏に最後の名前が浮かんだ瞬間、彼の口元から、わずかに苦々しい舌打ちが漏れた。
安政六年の冬、百名を超える脱藩浪人による彦根藩邸への討ち入り――。
あの大激震によって井伊大老が斃れて以来、幕府の権威は目に見えて失墜し、舵取りを失った船のように漂流を続けている。
強力な独裁者を失った江戸の城内では、いまや酒井忠績をはじめとする譜代の門閥たちが、己の地位と古い秩序を守るためだけに目を血走らせ、内向きの権力闘争に明け暮れているはずだった。
そんな硬直した頭の持ち主たちが最初にこの報告書を開けば、そこに書かれた新しい世界の真実など、半分も読まぬうちに「形無し」として切り捨てられるに決まっている。
国家の危機を前にしてもなお、前例と家柄に固執する彼らのなかに、メリケンという新しい世界の概念など、最初から一滴たりとも入る隙間はないのだ。
変革を拒む巨大な壁が、江戸で自分たちの帰りを待ち構えている。
新見は、思考を振り払うように手帳をパタンと閉じた。
ランプの芯を吹き消し、窓の外に広がる、どこまでも深く、暗い洋上の闇をじっと見つめていた。
衣服に染み付いた異国の油の匂いは、容赦なく吹き込む夜風にかき消され、ただ黒い波濤の音だけが、船腹を激しく叩き続けていた。
九 帰着の翌々日、評定の間
使節団が品川の海へと帰着してから、わずか二日後のことである。
江戸城本丸、評定の間。
この部屋は夏場こそ心地よい風が通り抜けるものの、冬から春にかけてのこの時期は、骨の奥まで凍みるような底冷えが立ち込める。
床一面に敷き詰められた畳は、その隅々が長年にわたる幕臣たちの踏み込みによって、わずかにすり減り、鈍い光を放っていた。
床の間に掛けられた一幅の軸には、季節を無視した墨跡で「正風」の二文字が厳かにしたためられている。
この日、その張り詰めた空間に、五人の老中が居並んでいた。
上座に腰を下ろすのは、老中首座・堀田正睦。齢、五十一。元より痩せ型の体躯であるが、その顔色はどこか青白い。
しかし、切れ上がった目元に宿る知性の光だけは、些かも衰えを見せていなかった。時折、胸の奥から絞り出すような乾いた咳が漏れる。本人は何事もないように振る舞っていたが、座の近い者には、その病根が深く、そして長く彼を蝕んでいることが容易に察せられた。
その右隣には、外交および公武合体を一身に担う安藤信正。四十代の半ばを過ぎてもなお、若々しい頬の張りを残した精悍な男だ。
太い眉の下にある眼光は鋭く、言葉を発する前には、必ず深く一呼吸を置く奇妙な癖を持っていた。
その隣が、海防担当の松平乗全。長身で、座してなお肩幅の広さが際立つ。
幕府における海軍創設派の、事実上の旗頭である。
対面側には、財政を司る板倉勝静が控えていた。痩躯で目を細めたその佇まいは、備中松山藩の偉大なる改革者・山田方谷の薫陶を色濃く受けた、当代随一の経済の頭脳が座るにふさわしい凄みを放っている。
そして末席に座すのが、酒井忠績。譜代名門のなかでも最高峰の家格を誇る男だ。
年齢は四十そこそこであったが、その瞳には、若き日から宿命づけられた家柄の重みと、それに伴う絶対的な選民思想が冷ややかに宿っていた。
使節団の三名――新見正興、村垣範正、そして小栗忠順が、評定の間の下座へと静かに着座した。
廊下の外の板敷きには、立石斧次郎や玉虫左太夫、肥田浜五郎といった随行員たちが息を潜めて控えている。
堀田が、しずかに口を開いた。
喉を詰まらせるような小さな咳をひとつ落としてから、声を紡ぐ。
「……見事なご帰朝、まずは何よりであった」
その声は低くかすれていたが、どこか父親のような温かさを孕んでいた。
「長旅の疲れも癒えぬうちに、まことに心苦しいのであるが――本日、上様へ直々にご復命申し上げるにあたり、まずは我ら老中一同に、メリケンの真実をお聞かせ願いたい」
「ははっ、畏まりました」
正使の新見が、深く畳に頭を下げた。
新見の報告は、一刻(約二時間)近くに及んだ。
遥かメリケンの街並みの活気、ワシントンでの批准書交換の厳粛な儀式、大統領ブキャナンとの奇妙な握手。
ニューヨークの大通りを埋め尽くした、熱狂的なパレードの喧騒。
巨大な工場、煙を吐く造船所、地鳴りのような議会。
そして――あの国を内側から焼き尽くそうとしている、選挙の異常な熱気。
南部諸州の連邦脱退への具体的な動きと、現地で囁かれている「内戦不可避」という不穏な空気。
「――私どもが見届けてまいりました異国の有様、以上でございまする」
新見が再び、静かに頭を下げた。
部屋のなかに、重苦しい沈黙が降りた。誰もが言葉を失ったように、あるいは新見の持ってきた情報の重さを咀嚼するように、じっと動かない。
最初にその静寂を破ったのは、安藤信正だった。
「新見殿」
「ははっ」
「その、メリケンという国が本当に内戦に突入するというのは……貴殿の偽らざる見立てであるな?」
安藤の声は低く、しかし相手の魂を値踏みするような鋭さを持っていた。
「……私どもの独断ではございませぬ。どうかご明察いただきたく存じます」
「ご明察、と仰せになる根拠は?」
「左様。サンフランシスコにて、現地駐在総領事の中浜万次郎殿より、繰り返し強い警告がございました。中浜殿はあの国の社会の骨組み、そして人々の心の機微まで知り抜いておられる。
その万次郎殿が『この国は割れる』と断言されたのです。
さらに、私どもがワシントンやニューヨークの街頭で実際に目にした暴動さながらの狂騒も――中浜殿の冷徹なお見立てを、何よりも雄弁に裏付けておりました」
「その火の手は、いつ上がるのだ」
「中浜殿の予測では、半年から…長くとも一年のうち、と」
「半年から一年…か」
安藤の太い眉が、ぴくりと跳ね上がった。
脳内で即座に、外交の巨大な盤面が組み替わっていく。
新見殿がその話を聞いたのが、半年前の万延元年8月頃だとすれば…現在から半年後ということになる。今まさに戦が起ころうとしておるのか、はたまた、この夏の終わり頃になるか…
激しい尊王攘夷の嵐のなかで、幕府が血眼になって交渉を進めている「江戸・大坂の開市開港の延期」――。
もし、メリケンが本当に未曾有の内戦に突入するならば、東の海を越えて軍艦を派遣する余裕など彼らにはなくなる。ハリス公使の後任も、そう簡単にはやって来まい。
ならば、延期交渉の主導権はこちらが握れる。相手にするのはイギリスとフランスの二国のみ。
彼らはメリケンが抜けた巨大な市場の穴を埋めようと躍り出てくるだろうが、その衝突を利用すれば、こちらに有利な条件を引き出せるやもしれぬ――。
「小栗殿」
安藤が、視線を隣の男へと移した。
「ははっ」
「貴殿は目付の職をもって、あの大陸を監視してこられた。正使の報告を補うべき、貴殿なりの見解はあるか」
小栗はしばし、彫刻のように無言のままだった。
ただじっと畳を見つめ、思考を極限まで研ぎ澄ます。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……ござりまする」
「申してみよ。拝聴しよう」
「メリケンは確実に内戦へと突入いたします。なれど、ご老中方に真に考えていただきたいのは、その内戦の最中のことではございませぬ。
その『内戦が終わった後』に訪れる世界の姿にございます」
「内戦の…後だと?」
「左様」
小栗の声が、一オクターブ低くなった。
「メリケンの工業の力は、まことに本物にございます。
鉄を鋳造する量、軍艦を組み上げる速度、ねじ一本に至るまで寸分の狂いもない均等な技術――これは、今の日の本の職人技では到底太刀打ちできぬ未知の領域です。
しかし、その恐るべき歩みが、内戦という巨大な内紛によって、一時的に『止まる』のでございます」
「止まる、なれば好都合ではないか」
「いいえ、逆でございます。止まった後、再びあの巨大な歯車が動き出したとき――」
小栗の漆黒の瞳が、爛々と異様な光を放った。
「動き出したときの勢いは、止まる前など比較にならぬほど、凶暴なまでに強くなって戻ってまいります。
なぜか。内戦という国家規模の大実験場のなかで、彼らは軍艦も、大砲も、銃も、鉄道も、すべての技術をこれまでの何倍もの速度で進化させ、整え直すからです」
「……」
「日本が、この『メリケンが身動きの取れぬ数年間』という天の与えた猶予を、ご油断なく活用し、自前の造船所や機械工場を作り上げねば――」
「作らねば、如何なる事態を招くというのだ?」
「戦を終え、真の怪物となったメリケンを、私たちは裸同然のまま迎えることになります。
その時、こちらに対等な外交を行えるだけの『力』が備わっていなければ――」
小栗の声は、もはや部屋全体の空気を圧するほどの重みを持っていた。
「メリケンは、もはや我々を『対等なお客』としては扱いますまい。容赦なく、ただの餌食として喰らい尽くすのみにございます」
評定の間の空気が、ぴたりと凍りついた。
海軍創設を悲願とする松平乗全が、深く、深く首を縦に振った。
経済の現実を知る板倉勝静の細い目が、驚愕にわずかに見開かれる。
首座の堀田正睦は、ただ静かに目を伏せ、沈思黙考に入っていた。
だが――ただ一人、末席の酒井忠績だけが、不快感を隠そうともせず、その端正な口元を冷ややかに歪めた。
「小栗殿」
酒井の声には、譜代名門としての絶対的な誇りと、侮蔑が混じり合っていた。
「メリケンの鉄の量だの、ねじの美しさだの、随分と肝の潰れるようなお話であるが……」
「ははっ」
「日本は、この神州は、二百数十年もの間、徳川のご威光のもとで美しき太平を保ってきたのだ。
異国の鉄の量ごときで、国家の勝ち負けがすべて決まるとでも仰るのか。あまりに軽薄な物言いではないか」
「酒井様」
小栗が、弾かれたように頭を上げた。その鋭い眼光には、明らかな怒りの火が混じっている。
「太平の世が長く続きすぎたゆえに、我らは外の海の上の、圧倒的な時代の奔流を見そびれてまいったのでございます! 。
安政六年のあの政変で井伊大老が斃れて以来、この国の足元がどれほど揺らいでいるか、お忘れですか! 今申し上げているのは、ただの勝ち負けの次元のお話ではございませぬ。
この徳川の世が、日本という国が、この先『生き残れるか、それとも跡形もなく滅びるか』という、切羽詰まった瀬戸際のお話をしておるのです!」
「無礼あろう! 生き残るの滅びるのと、そのような不吉な言葉を軽々に口にするな!」
「失礼ながら、軽々と申し上げてなどおりませぬ! メリケンの土を踏み、この両の目で冷徹に見届けてまいった、紛れもない現実を申し上げておるのです!」
酒井の目が、激昂に細く釣り上がった。
小栗もまた、一歩も退かぬ構えで睨み返す。
二人の間に火花が散ろうとしたその瞬間、上座の堀田正睦が静かに、しかし重みのある咳をひとつ落として、その一触即発の空気を遮った。
十 堀田正睦の脳裏
堀田正睦は、手元の湯呑みのなかで、すっかり冷めきって池のように静まり返る茶をじっと見つめていた。
視線は手元に落としながらも、彼の脳裏には、まったく別の「名前」が強烈な存在感を伴って浮かび上がっていた。
この評定の間にいる誰もが、その名を口にすることはない。
けれど、堀田の胸の奥底でだけは、先ほどから警鐘のようにしずかに、しかし執拗に響き続けている名。
朝廷の使者――近衛糸子。
現在、一橋上屋敷の奥御殿に、滞在されている近衛家の姫君であった。
堀田は、かすかにきしむ音を立てて湯呑みを畳へ置いた。
彼の記憶は、わずか半月ほど前のあの夜へと急速に引き戻されていく。
役宅の書斎に、人目を忍んでしずかに滑り込んできた、勝海舟の不敵な面構え。
あのとき、勝がもたらした言葉は、驚くほど短く、そして容赦のないものだった。
『――メリケンはな、堀田様、間もなく自国の内戦って泥沼に頭まで沈んじまいます。
これから先の四年間、奴らが日本にかけてくる圧力は、嘘みたいに激減する。
それだけじゃねえ、イギリスもフランスも、メリケンの内乱がどう転ぶかで頭がいっぱいになって、こっちを振り向く余裕がなくなる。
つまりな、これからの三年余りこそが、日本にとって最も外圧の少ない「奇跡の空白期」なんでございます。
この好機に、御公儀が自ら主導権を握って外交と経済の帳尻を合わせちまわなきゃ、四年後、戦を終えた怪物が再び海を渡ってきたとき、御公儀の手足はもう、一寸たりとも動かなくなっていますよ』
そのあまりに正確で、あまりに恐ろしい先見予測。堀田が思わず『……その情報の出所はどこだ』と低く問い詰めたとき、勝はただニヤリと不敵に笑い、ひと言だけ答えたのだ。
『近衛家…でございますよ』
あの夜、堀田はその「近衛家」という三文字を、暗闇のなかで幾度も転がし、考えあぐねていた。
京の五摂家筆頭。だが、あそこの誰がこれほど世界を広く見通す目を持っているというのか。
当代の近衛忠房様の顔が浮かんだが、即座に打ち消した。
あの方は温厚で極めて聡明な文人ではあるが、海の向こうの大国が内戦に突入する正確な時期まで断言できるほどの、生々しい国際感覚はお持ちでない。
ならば――その背後に、別の「頭脳」が控えている。
当時はそれ以上、深く詮索することをあえて避けた堀田だった。
だが今、この評定の間で、新見や小栗の口から「メリケンの内戦」という言葉が生々しい現実として語られた瞬間――。
堀田のなかで、勝が残していったパズルのピースが、恐ろしいほどの正確さでぴたりと噛み合った。
メリケンは間もなく、自国の内戦に深く沈む。
その驚天動地の先見性は、半月も前に…すでに堀田の机の上に置かれていたのだ。
そして今日、命懸けで海を渡った使節団が、現地の生きた証言をもってそれを完璧に裏付けた。
堀田の背筋を、冷たい汗が伝わっていく。確信せざるを得なかった。
あの近衛の姫君は、新見たちが品川沖の深い霧のなかで、揺れる小舟に震えていたあの帰着の朝よりも、もっと前から、この世界の秘密をすべて握り潰しておられたのだ。
しかも、堀田の脳裏で、さらなる連想の火花が散った。
勝が役宅にやってきたのとほぼ同じ時期、堀田のもとへ、別の極秘ルートから一通の書状が届けられていた。
差出人は、サンフランシスコにいる中浜万次郎。日付は十二月二十六日。
その書状に書き連ねられていた内容もまた、今ここで新見が必死に報告しているメリケン内戦の予告と、恐ろしいほど瓜二つだった。
……しかし、幕府内部では、その報告書の内容に疑義がかけられていた。
万次郎は、その書状を公式に幕府宛てとしても出している。
「幕府宛てにも…」出しているということは――当然、それとは別に「個人の宛先」へも同じ内容、あるいはそれ以上の密書を送っているということだ。
その、万次郎が命懸けで送った「別の宛先」とは、一体誰か?
堀田の脳裏に、近衛家の姫君の、あのどこまでも静かで底の知れない、わずか十三歳の少女の幻視がはっきりと浮かび上がった。
御簾の奥にいらっしゃるお方ゆえ、直接その眼差しを拝したことはない。
しかし、その存在の重みは、勝海舟という男の肉声を通じて、もはや堀田のなかで無視できない巨大な輪郭を持っていた。
堀田はしばらくの間、じっと目を伏せ、高鳴る鼓動を必死に抑えていた。
――あの姫君様は、すべてを最初から見通しておられた。
――その上で、勝をわしの元へ寄越したのだ。
――一体、わしに何を仕掛けろ、とお望みなのだ。
堀田のなかで、その問いに対する答えは、もう半分以上、形を成しつつあった。
だが、その答えが示すあまりに過激な幕府改革の未来に、彼はまだ、正面から向き合う勇気を持てずにいた。
己の保身か、徳川の意地か。目を背けている自分自身を、堀田はひどく冷徹に自覚していた。
「……堀田殿」
隣に座る安藤信正の鋭い声が、堀田を、張り詰めた評定の間の現実へと引き戻した。
「ご老中首座としての、ご所見をお聞かせ願いたい」
「……ああ、失敬」
堀田は静かに、しかし威厳を崩さぬよう湯呑みから手を離した。
「皆様のご所見、いずれも誠に理にかなったものばかり。メリケンの内戦は、もはや避けられぬ現実と見るべきでしょう。
これを大前提として、これからの数年間、我が御公儀の舵取りをどのように整え直すか……一刻の猶予もございませぬ」
「左様でございますな」
安藤が深く頷く。
「ついては、本日の一件は、まず私が責任を持って上様のお耳へ直接お入れ申し上げます。
その上で、改めて具体的な策を練るための評定を設けたい。それまでは、本日この場で交わされたお話の中身は――」
堀田の鋭い視線が、末席に座る酒井忠績の方へと、滑るように動いた。
「如何なる理由があろうとも、皆々様のご家中、あるいは門下の方々に至るまで、決して、一言半句たりともお漏らしにならぬよう、厳重にお願いいたしまする」
「承知いたしました」
松平、板倉、安藤の三人が、示し合わせたように次々と深く首を縦に振った。
酒井は、部屋に満ちる無言の圧力に抗うように、わずかな、しかし明確な沈黙を置いてから、不承不承といった様子で低く応じた。
「……承知」
十一 評定の後、廊下
張り詰めた評定が終わりを告げた後、堀田正睦は、江戸城本丸の長い鴬張りの廊下を、一人でゆっくりと歩いていた。
一歩、足を踏み出すごとに、胸の奥が締め付けられるようにきしむ。
たまらず、乾いた咳がひとつ漏れた。
とっさに着物の袖で口元を強く押さえる。腕を戻したとき、真っ白な絹の布地の上に、痛々しいほど鮮やかな、薄紅色の斑点がじんわりと滲んでいた。
堀田は一瞬だけそれを見つめ、何事もなかったかのように、しずかにその袖を懐の奥深くへとしまい込んだ。
廊下の突き当たり、人の気配が途絶えた薄暗い隅の一角で、堀田はふと足を止めた。
壁に寄りかかるようにして、しばらくの間、深く目を閉じる。
重苦しい現実の五感から解放された暗闇のなかで、彼の頭脳は、ようやくすべての呪縛を振り払い、自由闊達に動き始めていた。
(――もし、あの恐るべき姫君様が、今のわしの立場におられたなら、一体どう動かれるか)
堀田は心の中で、初めて、何の衒いもなくその問いを自分自身に許していた。
メリケンが、間もなく未曾有の内戦という泥沼に沈む。
大国であるイギリスもフランスも、その巨大な内乱の行方を凝視し、そちらの対応に完全に目を奪われる。
これから訪れる、三年から四年という歳月。
それは、黒船来航以来、この日本が初めて与えられる、外圧が最も少ない「奇跡の空白期」だ。
あの十三歳の姫君なら、天がもたらしたこのあまりに貴重な時間を、一体何のためにどう使い切られるというのか。
堀田は立ち尽くしたまま、己の脳裏を奔流のように駆け抜けていく、いくつかの答えをじっと追いかけていた。
まずは、経済の立て直し。
すでに朝廷…いや、近衛家の息がかかった御所御用達の惣会所(中央集権的な交易機関)が設立され、莫大な利益を生む生糸の輸出管理が動き出している。
次に、人材の確保。近衛家の周囲には、いつの間にか長州、土佐、あるいは武州や上州といった、身分は低くとも牙を研ぐ若き志士たちが、磁石に吸い寄せられるように集まり始めている。
あの姫君の張り巡らせた見えない糸の影は、すでに日の本全土の要所へと、音もなく伸びていた。
そして、もう一つ。
おそらく、それらすべてを従えた、最も深い漆黒の底で――。
堀田の背筋に、ぞくりとした戦慄が走った。
(……幕府そのものを、全く新しい国家の形へと、根底から移し替える何かだ)
気づけば、堀田の目元が、わずかに熱く湿っていた。
なぜ自分が涙ぐんでいるのか、彼自身にもすぐには判然としなかった。
徳川の宿老として、子供のような少女に先を越されていることへの、烈しい悔しさだろうか。
あるいは、それほどの世界の真理をいとも容易く見通せる、その天賦の才への羨ましさだろうか?。
……いや、そのどちらをも遥かに超越した、歪んだ時代の終わりを見届ける者の、奇妙な歓喜に近い何かであった。
堀田はもう若くない。齢五十一、病に侵され、いつ倒れてもおかしくない老中である。
なれど、その老いた頭脳のなかで、彼が若い頃から――それこそ蘭学に傾倒し、開国こそが日の本の生きる道だと信じて疑わなかったあの熱き日から――ずっと温め続けてきた理想の「国家の設計図」が、今、全く別の…信じられぬほど小さな手によって、すでに鮮やかに描かれ始めているのを、彼は確かに目撃していた。
その絵筆を握っているのは、わずか十三歳の公家の姫なのだ。
かつて阿部正弘と共に国難に立ち向かい、また、井伊直弼の大老就任に涙を呑んだ幕府の老中たちが、誰一人として、保身と意地のせいで本気では成し遂げようとしなかった大博打。
「日本を、内戦で血を流させることなく、無傷のまま新しい時代へと受け継がせるための絵図」
それを、十三歳の少女が、一橋上屋敷の奥御殿の小さな机の上で、冷静で現実的な試算をしながら描いている。
堀田の唇から、ふっと、自嘲気味な笑みがこぼれた。
「……到底、敵わぬな」
笑った拍子に、また激しい咳がひとつ、胸の底からせり上がってきた。
今度の咳のあと、袖の白布に広がった紅は、先ほどよりも明らかに濃く、そして不吉なほど大きかった。
堀田は静かに息を整え、廊下の端にある障子を、指先でわずかに開けた。
城の北側に広がる、広大な庭園が視界に入る。
そこには、まだ冬の名残を色濃く残した、寒々しい枯れ野の景色が広がっていた。
だが、じっと目を凝らせば、その冷たい泥と枯れ草の根元に、ひとつ、またひとつと、生命力に満ちた薄緑の新芽が、確かに頭を覗かせ始めていた。
どんなに凍てつく冬が続こうとも、春は、確実にやってくるのだ。
堀田は静かに、その小さな緑を見つめていた。
「……あの姫様に、死ぬまでに一度だけでいい、お会いしてみたいものだ」
誰の耳にも届かぬほどの小さな、消え入るような声で、堀田は呟いた。
口にしてから、自分が抱いたそのあまりに純粋で、あまりに危険な願望に、自分自身でわずかに驚きを覚えた。
だが、その驚きの正体を、今の堀田は深く追いかけようとはしなかった。
ただ、冷え切った身体の奥底で、灯火のようなその想いだけを、じっと温めていた。
十二 福沢諭吉、塾の戻り
評定の間が張り詰めた政治の熱に揺れていた、その同じ日の夕刻。
江戸、芝、三田へと続く中津藩中屋敷。
夕暮れの木漏れ日が差す敷地の一画に、粗末な木造りの小さな塾があった。
その古びた戸口に、福沢諭吉が立ち止まっていた。
見上げる軒先も、建付けの悪い木の扉も、九ヶ月前に彼が旅立ったあの日のままだ。
だが、その戸の前に佇む彼自身は、もはや九ヶ月前とは完全に別人になっていた。
ガラリと音を立てて扉を開けると、薄暗い室内から、十数人の塾生たちが一斉に振り返った。
数日前から彼の帰朝の噂を聞きつけ、「先生が戻られるなら」と再び集まり、車座になって待っていた中津藩の若い藩士や門下生たちだった。
「――先生!」
「お帰りなさいませ、福沢先生!」
一瞬の静寂の後、弾けたような歓声が上がった。
福沢は戸口に佇んだまま、旅の汚れが残る頭巾をゆっくりと外した。
その瞬間、江戸の冷たい夕風が、彼の額ににじんだ汗を優しく撫でるように吹き抜けていく。
「……ただいま戻った」
福沢は、教壇に立ついつもの少しぶっきらぼうな、しかし力強い声で言った。
「待たせたな。向こうで見てきたこと、聞いてきたことのすべてを、これからお前たちに容赦なく叩き込む。
何度でも、何度でも話してやる。今夜から、それこそ毎晩、夜通しだ」
塾生たちの目が、期待にらんらんと輝く。
福沢は脇に抱えていた大きな風呂敷包みを、どさりと机の上に置いた。
結び目を解くと、中から現れたのは、あのメリケンで買い込んできた分厚い『ウェブスターの辞書』であった。
「先生、それは……」
「先に、これだけは、お前たちにしっかりと申し上げておく」
福沢は、机を囲む若い塾生たちの顔を、一人ひとり射すような眼差しで見渡した。
「我々はこれから、聞いたこともない新しい言葉を、山のように覚えねばならぬ。
この国にない、新しい社会の仕組みや考え方を、血を吐く思いで学び取らねばならぬ。
これまでのオランダ語の時代は終わりだ、これからは英語の時代が来る。
だがな、その膨大な知識の、すべての根底に据え置かねばならぬ一語がある――」
福沢の目が、暗がりの中で異様なまでの輝きを放った。
「それをな、『独立、自尊』と申すのだ」
「どくりつ……じそん、ですか」
一人の若者が、その言葉の響きを確かめるように小さく呟いた。
「そうだ。お上にも、親にも、藩にも、誰の力にも寄りかからず、己の二本の足で大地に立ち、己の頭で物事を徹底的に考える。
国が独立するためには、まずそこに生きる人間が一人残らず『独立』せねばならん。
これからの日本の、最も深い底に座っているべき一語じゃ」
塾生たちは、しずかに、しかし深く首を縦に振った。
正直に言えば、彼らはまだ、そのたった四文字に込められた本当の重みも、それがもたらす恐ろしいほどの自由の意味も、何一つ分かってはいなかった。
だが、この頼りない若者たちの胸に植え付けられた小さな種が、これから、何十年という激動の歳月のなかで、彼ら自身を、そしてこの国を支える巨大な大木へと育っていくことを――。
福沢諭吉だけは、塾の窓から差し込む美しい夕焼けの光のなかで、ひそかに、しかし寸分の疑いもなく確信していた。
十三 一橋上屋敷、奥御殿
夜がしんしんと更けていく。
一橋上屋敷の広大な敷地の最奥、静寂に包まれた奥御殿の一室。
糸子の私室では、障子の向こうに、春の訪れを予感させる朧げな月が淡い光を投げかけていた。
部屋の隅に置かれた火鉢のなかでは、熾火が相変わらず赤々と熱を湛えている。そこへくべられた香木の、甘く、どこか冷ややかな香りが、微動だにしない空気のなかを静かに漂っていた。
糸子は文机の前に端座し、手元の書類をじっと見つめていた。
そこには、系統の異なる二通の書状の写しが並べられている。
一通は、半月ほど前に中浜万次郎から遥かサンフランシスコの地を経て届けられた密書の写し。
そしてもう一通は、勝海舟が老中首座・堀田正睦の役宅へ人目を忍んで足を運び、その直後に糸子のもとへ送り届けてきた、堀田の動揺を生々しく記録した簡単な覚書であった。
糸子はその二枚の紙に添えるように、自らの手でひと言だけ書き付けた、小さな白い紙片を置いていた。
『使節団、帰朝。本日、評定。堀田、揺れる』
墨の乾いたその文字を、糸子は愛おしむかのように、しばらくの間じっと見つめていた。
背後で控えていた葵が、衣擦れの音を小さく立てながら、新しく淹れた温かいお茶を差し出した。
「姫君様、お夕餉の支度、今宵はもう少し遅めにお運びさせましょうか」
「いいえ。いつも通りで結構ですよ。お腹もそれなりに空きましたし」
「畏まりました。では、そのように」
糸子は小さく頷くと、手元の紙片を蒔絵の文箱のなかへ、音もなく滑り込ませて蓋を閉じた。
それから、手元にあった扇子を、流れるような動作で軽く開いた。
「葵」
「はい、何でございましょう」
「使節団の皆様も、長旅の果てにようやく品川へお帰りになりましたね」
「左様でございますか。無事のお着き、何よりでございます」
「ええ。新見殿、村垣殿、小栗殿…。それから、あの諭…ではなく、福沢殿も……」
「皆様、さぞやお疲れでございましょうね」
「ええ、本当にお疲れでしょうね」
糸子は、どこか遠くを見るような目で静かに頷いた。
「けれどね、葵。そのお疲れの皆様が、今夜、ようやく戻れたご自身の畳の上で、一体何を考え、どんな世の先を夢見ていらっしゃるか――」
「……」
「そうやって想像を巡らせるだけで、わたくしは、どうにも嬉しくて仕方がありませんの…」
糸子の形の良い口元が、いたずらっぽく、わずかに釣り上がった。
「皆様は、ご自身の両の目で、あのメリケンという国の爆発的な力を御覧になって戻ってこられた。
そして、あの国を揺るがす戦の足音を、その耳で直接お聞きになって戻ってこられたのです。それはね、わたくしがいくら文面の上の文字で『こうなりますよ』とお知らせするよりも、何十倍も、何百倍も重い意味を持ちまする」
「そうでございましょう…。実際に見てこられたお言葉には、敵いませぬから」
「…ええ。だからこそ、これからは面白いのです。わたくしが先んじて放っておいた言葉と、皆様が命懸けで持ち帰った生々しいご経験が、これから歯車のようにぴったりと噛み合っていきまする。
それが噛み合った瞬間にね、わたくしが描いているこの国の絵は、また一筆、誰も辿り着けない深いところまで進むのです」
糸子は、開いていた扇子を「ぱちり」と心地よい音を立てて閉じた。
閉じた扇子の乾いた音が、奥御殿の静まり返った畳の上を、波紋のように静かに伝わっていく。
その小さな響きは――。
遠く品川沖の夜明けの霧のなかに立つ小舟の気配と、ワシントンを揺るがした選挙の狂騒、江戸城の評定の間で漏れた堀田の苦しげな咳の音、そして芝の蘭学塾の戸口を吹き抜けた新しい風――そのすべてを、目に見えない一本の細い線の上へと、手際よく結び直す合図のようであった。
「……ふふふ、うけ、け、けけけけけっ」
扇子の影から、いつもの低く、おどろおどろしい鈴の鳴るような笑い声が漏れた。
だが葵は、そんな主の奇妙な笑い声にも全く動じることなく、いつものように穏やかに、にこにこと微笑みながら付き従っている。
障子の外では、雲がゆっくりと流れ、薄い月をその懐へと隠していった。
文久元年、二月の…ある静かな夜のことである。
江戸の町の方々で、海を渡った四人の使節たちが、それぞれの我が家の畳の上で、泥のような深い眠りと、それぞれの未来の夢の中へと入り始めていた。
ただひとり、この奥御殿に佇む十三歳の姫君だけが、まだ目を爛々と輝かせて起きていた。
起きたまま、誰も見たことのない次の時代の絵の、最初の一筆を、その小さな心の中で、すでに力強く引き始めていたのである。
第百四話 了