作品タイトル不明
第百三話「糸子の煩悶」
文久元年の初春
一橋上屋敷もまた、初春の淑気に包まれていた。
床の間の青磁の花入れには、紅白の冬梅が一枝。その蕾は半ばまでほころび、淡い紅を覗かせている。違い棚には、京にいる父、忠房から届いた飾り扇が、恭しくしつらえられていた。
障子を透かして、柔らかな陽光が白く差し込む。庭に目を移せば、松の葉に降りた薄霜が朝日にきらめき、その片隅では、黄色いつわぶきの花が、終わろうとする冬の季節を静かに物語っていた。
翌朝の奥御殿の一室には、墨と紙の匂いが満ちていた。
格子窓から差し込む冬の光が、畳の上に細く斜めに落ちている。火鉢の炭が、ときおりぱちりと爆ぜる音だけが静寂を破る。
その部屋の中央、文机にかじりつくようにして、糸子は唸り続けていた。
「うーん……うーん………」
十三歳の姫君にしては、あまりに不格好な姿勢だった。両肘を机に突いて、細い指先で頬を押し上げ、目だけを上に泳がせている。
積み上げた紙の山は、もはや雪崩寸前だ。筆を持った右手には、乾きかけた墨がこびりついている。
昨夜からこのまま、眠れずにいたのかもしれない。
襖が、静かに引かれた。
「姫君様。お茶をお持ちしました」
葵が盆を抱えて入ってきた。白磁の茶碗から、ほのかな湯気が立ち昇っている。
煎茶の青く澄んだ香りが、墨の匂いに混じった。
糸子は顔も上げずに言った。
「おおきに、葵」
葵は盆をそっと文机の隅に置いて、山積みの紙をちらと見た。
達筆とは言い難い、しかし勢いだけは一人前の文字が、紙の上を所狭しと埋め尽くしている。
「姫君様は……先ほどからいったい、何を悩まれておいでなのですか?」
糸子はようやく顔を上げた。目の下にうっすらと隈が浮いている。それでも瞳だけは、奇妙に輝いていた。
「昨日ね…」と彼女は言った。
「動ける仲間ができたでしょう。だから……チーム名をつけようと思って」
「……ちーむ?」
葵は首を傾げた。聞いたことのない言葉だった。
唇の形をなぞるように、もう一度、小さく繰り返す。
「ちーむ」。
「あっ……そうか、ごめんなさい」
糸子は少し目を丸くして、それから考えるように視線を宙に投げた。
「英語なの、チームって。異国の言葉なの」
「意味はね……わかりやすく言えば、その集団を表す、顔のようなものかしら」
「顔……」葵は考えた。
「お店の、屋号のようなものでございましょうか?」
糸子の目が光った。
「そう! そんな感じよ!」
彼女は紙の山をがさりとかき分けて、一枚の紙を引き抜いた。
夜通し書き連ねたのだろう、端が少し破れている。それを葵の眼前に突きつけた。
「それで考えた…チーム名案が、これなのよ!」
葵は、おずおずと視線を走らせた。
【チーム名案】
「一六の 陣(いちろくのじん) 」
糸子が文箱にしまった「①〜⑥」の極秘の陣形。そして、糸子(13歳=1)と五人(5)を足した「6」の数字から。
「 文久異能結社(ぶんきゅういのうけっしゃ) 」
勝、村田、近藤、松屋父子、そして糸子という、幕末のオールスターがそれぞれの「異能(算盤、数式、剣術、人心掌握、未来予測)」をぶつけ合う構図から。
「壁を開ける 者(ウォール・ブレイカーズ) 」
異国が押し寄せてくる「日本の壁」の中で、逆に4年間の窓を開けて世界に打って出ようとする糸子たちの姿勢から。
「対異国特務・ 奥御殿衆(おくごてんしゅう) 」
異国という巨大な「化け物」の脅威から日本を守るために、各分野のトッププレイヤーが集結した防衛組織としての見立て。
「 四年猶予(フォー・イヤーズ・グレイス) 」
糸子が告げた「たった、四年だけの窓」「唯一の猶予」という圧倒的なタイムリミット感から。
「 特異文久四(ぶんきゅうよん・し) 」
「化け物のように力をつけて戻ってくる四年後のメリケン」に対抗するために、一橋上屋敷の奥に集められた異能のプロフェッショナル集団。
「 文久蜘蛛(ぶんきゅうぐも) 」/「六条の 糸(ろくじょうのいと) 」
中岡慎太郎が組む「三層の静かな人材の網」、生糸の輸出経路の一本化、そして「糸子」という名前にかかって。
「チーム 火鉢(ひばち) 」
部屋においてあるものとして圧倒的な存在感を放っていた「二つの火鉢」から。
「特務機関・ 文久(とくむきかん・ぶんきゅう) 」
メリケンの内戦、フランスの蚕の病など、すべて「シナリオ通り(試算通り)」に歴史を動かしていく、未来を予測する少女が作った絶対防衛組織。
「不戦の 六星(ふせんのろくせい) 」
勝の「オイラたち日本人の、血を流させねぇための戦だ」という、戦わないための戦いというコンセプトから。
「黒の 算盤(くろのそろばん) 」/「六つのコードネーム」
糸子が文箱に隠した、①〜⑥の役割が書かれた極秘の紙。全員が「口の固さ」でそれぞれの世界を守ってきたプロであることから。
「窓をあける者たち(ウィンドウ・メーカーズ)」
糸子が最後に告げた「窓が、開いたのでございます。たった、四年だけの窓が……」から。
「 黎明(れいめい) 」/「文久の 暁(あかつき) 」
世界(メリケン) の激変を知る糸子が、日本の夜明け(黎明)を前に陰で組織した秘密結社。
「 六極刃(ろっきょくじん) 」/「奥御殿の 六柱(ろくちゅう) 」
糸子が紙の上に書き付けた①〜⑥の担当領域を「 極(きょく) 」または「柱」に見立てて。
「 零零四(ゼロゼロフォー) ・班」/「四年委員会」
作中で最も強調されるキーワード「たった、四年だけの窓」から。
「奇跡の 六人(キセキのろくにん) 」/「文久の世代」
糸子が扇子で空中に引いた「六本の線」と、それぞれが代替不可能な突出した 才能(スペック) を持つことから。
文字は続く。続く。さらに続く。
……………………
…………
……
…
葵の目が、少しずつ細くなっていった。
糸子は両手を組んで、机の上に顎を乗せた。
「わたくし的にはね。『文久の 暁(あかつき) 』、『窓をあける者たち(ウィンドウ・メーカーズ)』、『特務機関・文久』、『六条の 糸(ろくじょうのいと) 』……この四つで、どうしても絞り切れなくて」
――目を閉じれば、糸子の胸の中には、昨日の熱気がまだ確かに残っていた。
『メリケンの内戦で開く、この空白の四年。一滴も残さずに使い切りまする』
『これ以上、日本を異国の好き勝手にはさせてなりませぬ』
『わたくしたちは――この国を変えましょうぞ』
自分の言葉に応えてくれた、頼もしい協力者たちの顔。
『これは――オイラたち日本人の、血を流させねぇための戦だ』
『決して負けるわけには、参りませぬ』
『「「「「応!!!」」」』
翌日から五人の 漢(おとこ) たちは、精力的に動き出していた。
昨日の決意を胸に……。
各々ができること、やれることを早速、始めていた。
――そう。
誰もが命を賭け、一刻を惜しんで、日本の未来のために「一滴も残さず」動き出しているのだ。まさに、プロフェッショナル集団なのである。
──で、あるならば。
その集団に属する者として「顔」たる名前が、ダサくていいはずがない。
「……だからね、葵。どうしても、格好いい名前が必要なのよ! 」
指を折りながら名前を挙げる糸子の姿は、菓子の好みを論じる子どものようでもあり、しかし目に宿る光だけは、十三歳のものではなかった。
「葵なら、どれがいいと思う?」
葵は、沈黙した。
その沈黙は、少し長かった……
やがて葵は、ゆっくりと口を開いた。
「姫君様……」
「うん?」
「どうしても、お名前をおつけにならないといけないのでしょうか?」
糸子の動きが、止まった。
「名などなくとも、皆さまにはわかっておいでなのでは……?」
糸子の瞳から光が消えた。みるみるうちに眉が下がり、口の端が引っ張られ、その細い肩がかすかに落ちる。
……見ていられないほど、あからさまな絶望の顔だった。
葵は、一瞬で理解した。
「いえ!」
声が裏返った。
「絶対に、あったほうがよいです! この中から決めましょう、はい、決めましょう!!」
糸子の顔が、あっという間に晴れた。
「そうよねぇ! やっぱり葵はわかってくれると思っていたわ。一番の理解者よ、あなたって!!」
葵はほっと息をついた。
……危なかった。
あと少し遅ければ、今日一日、引きずられるところだった。
「では……私はこれがよいと思います」
葵は、指を差した。
なんとなく、勢いで……
――そう、本当になんとなくである。
その指の先には、紙の端の端と…思しきところに、小さな文字で書かれていた。
――――「ねるふ文久」
「………………」
静寂。
糸子の目が、ゆっくりと細くなった。
「……葵」
「は、はい」
「それは、没案よ」
「そっ……」葵の声が一オクターブ上がる。
「そうですかー! 私にはよくわかりません、このあたりのことは! 姫君様がゆっくりゆっくり…お決めになればよいと思いますよー!」
「それでは失礼致しますね!!」
盆を持って…葵は急いで、部屋から出て行った。
廊下に出た瞬間、ほとんど駆け足になった。背後で格子窓がかたかたと鳴る。
冷たい廊下板が、足の裏に痛いほど冷たかった。
葵の退室を、糸子は呆然と見ていた。
「なにも…逃げ出さなくても………ちっ」
あからさまな舌打ちだった。
……それから丸一日、糸子は部屋に籠もった。
茶が冷え、また新しい茶が届き、また冷えた。
紙の山は雪崩を起こし、また積み直され、また崩れた。
火鉢の炭は三度、もうひとりの侍女、小夜が足した。
糸子は唸り続けた。
書き続けた。見つめ続けた。
日が傾き、奥御殿に夕の朱が差し込んできた頃、糸子はまだ机の前にいた。
頬に指を押し当てたまま、宙を見つめたまま。
紙の上には、誰の目にも優劣のつかない名前たちが、ただ並んでいる。
それから丸一日あーでもないこーでもないと、チーム名を必死で考えて、全く無駄な一日を過ごす糸子であった。
遠からぬ未来。
歴史の教科書には決して載らない、しかし確実にこの国を異国の脅威から救い出すことになる、その「集団」がまさに胎動しようとしていた。
各界の偉人たちが、その「稀有な指導者」の冷徹なまでの先見性に共鳴し、命を賭して暗躍を始めている。
――その稀有な姫君が、今まさに「ねるふ文久」という文字列を、恥ずかしさのあまり真っ赤な顔で火鉢に放り込み、証拠隠滅を図っていることなど、彼らは知る由もない。
たった、四年だけの窓……
これで四年間、一滴も残さずにすべて使い切ることは、果たしてできるのであろうか?。
この尊い猶予を、彼女はネーミングの模索だけで…数パーセントほど無駄に消費した。
非常に……
非常に心配である。
第百三話 了