作品タイトル不明
第百二話「四年間の窓」
一
文久元年、初春。
万次郎の書状を糸子が一人で写し直し、自分の言葉に解きほぐした、あの夜から数日。
一橋上屋敷、奥御殿。
その日、奥御殿の広間には、火鉢が二つ置かれていた。ひとつでは足りなかった。
坐る者の数を糸子は普段の倍にきっちり絞り込んだうえで、火を二つ用意させた。
広い部屋で人と人との間に火の置き場が二つ要る——その距離の取り方そのものが、今夜、彼女が自分の中で、何を切り分けて話そうとしているか、を物語っていた。
障子の外で薄い雪が舞っている。降るというほどの勢いもなく空中で、ただ、戸惑うように漂っているだけだ。庭の枯山水の上にその粒が、ひと粒ふた粒…わずかに白く積もり始めていた。
香木の匂いが、いつもより薄い。糸子が葵にわざわざ香をひと段、抑えるよう命じていた。今夜の話は、香に酔うた頭で聞く話ではない。
その代わりに炭の匂いが、火鉢の二つからほのかに立ち上がっていた。
乾いた静かな匂いだ。
その匂いの中で、五人が坐っていた。
松屋善兵衛。
松屋善次郎。
近藤勇。
村田蔵六。
勝麟太郎。
御簾の向こうに糸子。背後に葵。
近藤の脇に軽く頭を下げたまま、沖田総司が控えていた。沖田は会議には加わらない。ただ、廊下と襖の向こうの目を押さえる役で坐っていた。
善兵衛は火鉢の手前、五人の中ではいちばん年嵩の位置に、ゆったりと坐していた。
四十路の半ばを過ぎている。商人として髷の根の白いものを、今は気にもしない。
長年、神田の松屋本店で算盤珠と相場と人足を回してきた、太い眉と、よく動く口元。羽織の襟元は、自分で結ったようにわずかに緩い。
その隣に、善次郎。
二十歳を、いくつか過ぎたかどうかというところ。父・善兵衛とよく似た細い目。
しかし、口元の引き締まり方が、父より一段厳しい。商家の若旦那というよりも、すでに若き二代目というほうが近い。
善兵衛がふと、息子の横顔をちらりと見た。
今夜、何が話されるかは、まだ二人とも知らされていない。
だが、父である自分には御簾の向こうの姫君様の御懐に届く道筋が、半分しか開いていない。残りの半分は、息子のほうにすでに開いている。
それを善兵衛は、心の底ではよく分かっていた。
天朝物産会所の実質的な実務責任者は、善次郎…二十歳前後の自分の倅だ。
姫君様と直接やり取りできる人間は、この息子しかいない。
親父の自分は何も知らされず、江戸の惣会所で総采配を振るう役。
その役の分担を最初に決めたのは、姫君様だった。決めた時、決して嫉妬めいたものは、一切なかった。
しかし、息子と並んで、こうして御簾の前に呼ばれる夜になると…胸の奥のどこか、わずかに誇りに似た熱が静かに走るのを、彼は抑えられなかった。
二
御簾の向こうで、糸子の静かな声がした。
「まず、この帳面をご覧くださいませ」
葵が御簾の脇から、薄い綴じの帳面を一冊、廊下の側に押し出した。沖田の手を経由して、まず善次郎の膝の前に置かれた。
善次郎が両手で、それを受け取った。
帳面の表には、何の文字もない。
近衛家の家紋が、目立たぬ位置に極小の朱でひと粒、押されているだけ。
善次郎が頁をめくった。
最初の頁、二枚目、三枚目——文字を追う目の色が、少しずつ変わっていった。
頁の中身は糸子の手で、几帳面に整えられていた。万次郎の書状の要点。
メリケンの南北の経済の構造。北の工業力と南の綿花への依存。動員兵員の桁。鉄道網の長さ。製鉄所の数。火薬と銃身の年産。
それらが左右に対比され、いちばん下にひと言。
——「物資需給の限界曲線から見たる試算 四年前後にて、いずれか一方が力尽きる見込み」
善次郎の喉が、ごくりと鳴った。
帳面を隣の善兵衛に回した。
善兵衛がめくった。
最初の二、三枚は、ふつうにめくった。四枚目で止まった。五枚目を、急いでめくった。六枚目で、もう一度止まった。
読みながら口の中で、何かを呟いていた。
「……これは」
善兵衛が、低く漏らした。
言葉が続かなかった。
善次郎が、横目でちらりと父を見た。
長年、同じ商家の表と裏で、それぞれの数字と取っ組んできた父子だ。善次郎には、父の「これは」が何を意味するか、即座に分かった。
父は今、頭の中で二つの計算を、同時に走らせている。
ひとつは、メリケン内戦のもたらす、生糸需要の急拡大。
もうひとつは、その需要に江戸を通じて横浜の自分たちの店が、今、どれだけ応えられるか——応えられない量のぞっとするような開き。
善兵衛は、自分の暖簾の足腰の細さを、今、はっきりと自覚していた。長年、自分は江戸でいちばん太い算盤珠を弾いてきたと内心では誇っていた。
だが、御簾の向こうの姫君が、今、自分に見せている数字の桁は、その自負をひと突きで、串刺しにしていた。
「これは…」の中身を、もう少し言葉にすれば…こうだった。
——息子の知っている世界の方が、自分の知っている世界より、もう桁ひとつ大きい。
父として嬉しさと、わずかな寂しさが混ざった。
「父上…」
善次郎が、低く横を向いた。
「……」
善次郎はそれ以上は、言わなかった。言わずに、目だけで近藤の方を示した。
帳面は善兵衛から、近藤の手に回った。
近藤は坐ったまま、しばし襟元を整え直した。整え直してから、両手で帳面を開いた。
近藤の読み方は、商人のそれとは違った。
数字を追わない。文字の量を、丸ごと目に入れる。それから地名と人の名と軍の数を拾う。
近藤の眉が、四枚目でぴくりと動いた。五枚目でもう一度動いた。
最後の頁を、ゆっくり閉じた。
帳面を両手で、村田の前に滑らせた。
膝の上に手を戻してから、ぽつりと言った。
「量が多い…」
その「量」は、メリケンの動員兵員のことだったのか、戦の後で海の向こうに溢れる、武器と砲のことだったのか——あるいは、糸子が、これから、この場で提示しようとしている、仕事の総量を指していたのか。
近藤の言葉は、その全部をまとめて、ひと言「量が多い」と言っていた。
村田蔵六が無言で、帳面をめくり始めた。
風采は、相変わらず上がらない。額は禿げ上がり、目は細く口は薄い。
しかし、その細い目の動きだけは——他の四人の誰にも似ていなかった。
目が紙の上を見ない。見ずにただ、紙の上の文字の、その後ろ側の論理を見ていた。
最後の頁まで、めくり終わった。
しばらくの間、彼は膝の上の自分の手のひらを見ていた。
見てから、ようやく、低く静かに言った。
「なるほど……」
その「なるほど」は、村田蔵六という男の口から、めったに出ない種類のものだった。
彼が「なるほど」と言う時、彼の中では、ひとつの結論が、自分の数式に、すでにぴたりと嵌まっていた。
帳面は、勝の手に渡った。
勝麟太郎は、帳面を両手で開いた。
開いた瞬間、勝の口の中で、わずかな空気の音がした。冷たい笑いというよりも、ある種の感心の音だった。
頁をめくっていく勝の表情は、相変わらず緩い。なれどその目の奥だけは、最初の頁から最後の頁まで、一度も瞬きを忘れたように、止まっていた。
最後の頁を閉じる。
勝は、しばらく考えていた。
考えてから、両手の上に、帳面を軽く置き直した。
「……堀田様への接触は?」
その声は、いつもの江戸っ子のべらんめえとは、少し違った。
「時期は…オイラに、判断させてくれないか?」
ひと呼吸、置いてもう一度。
「ここに書いてある『四年』ってのは、軽く扱える札じゃねぇ。出すなら相手の頭の中の天秤が、こっち側に傾く瞬間まで待つ」
御簾の向こうから、糸子の声が応じた。
「わたくしも同じ様に考えまする」
短い、しかし重いひと言だった。
三
全員が、帳面を読み終えた。
部屋の中でしばらく、誰も口を開かなかった。
火鉢の炭が、ぱちりとひとつ爆ぜた。
その音が合図になった。
「皆様」
御簾の向こうで、糸子が静かに口を開いた。
「お読みいただいた、その通りにござりまする。メリケンは、近いうちに自国の内側で、大きな戦に入りまする」
「……」
「メリケンが、自分の中で乱れますれば、この国に押し寄せる黒船の数も、少のうなります。幕府もしばし、息がつける……のでしょうか?」
善兵衛が、思わず口を開いた。商人らしい素直な問いだった。
御簾の向こうで、糸子の声が、わずかに苦笑したように響いた。
「……息はつけまする。ですが、つけた息のすぐ脇に、別の口が近づいて参ります」
「別の口?」
「メリケンが手を引いた席に、イギリスとフランスが、すかさず滑り込んで参りまする。
幕府は、メリケンを失った恐怖から、今度はフランスの差し出す甘い汁に、飛びつくことになりましょう。一方の薩摩などの諸藩は、イギリスの知恵を借りるようになりましょう」
善兵衛の口が、ぽかんと開いたまま止まった。
「……つまり?」
糸子は、しばし間を置いた。
「ここにいる、善兵衛や善次郎は知りませぬが…」
「わたくしが以前、お話し申し上げました、代理戦争論——あれがいよいよ現実味を帯びて参る、ということでござります」
「……」
近藤の目が、わずかに細くなった。
代理戦争論。その言葉を近藤は、最初に聞いた時、頭の中で半分しか消化できなかった。
海の向こうの強い国同士が、日本という土俵の上で、長州などの雄藩を、それぞれの代わりに戦わせる——そういう絵を糸子は、何度か近藤に説いたことがあった。
あの時は、まだ半分、御伽噺のように聞いていた。
今、近藤の頭の中で、それがぴたりと嵌まった。
その絵の最初の構図が、もう海の向こうで組み立てられ始めている。
「そして同時に…」
糸子の声が続いた。
「向こうの戦が、終わるまでの時間およそ四年。これが、この国に与えられた、唯一の猶予になりまする」
「四年…?」
村田が、ぽつりと繰り返した。
「左様」
糸子は続けた。
「この四年のうちに、わたくしたちが朝廷が、日本が、いかに力を集め足場を固められるか——それでこの国の次の百年が決まりまする」
糸子の声に初めて、わずかに熱が混じった。
「もしも四年を、無為に過ごしますれば——」
「……」
「四年後、内戦を終え、化け物のように力をつけて戻ってきたメリケンと、それに乗っかったイギリス、フランスに、この国は骨まで、しゃぶられることとなりましょう」
部屋の中の火鉢の炭が、もう一度ぱちりと爆ぜた。
善次郎が、静かに目を伏せた。
善兵衛が口を閉じて、わずかに唇を噛んだ。父が息子の伏せた目を、ちらりと盗み見た。父の中で、ふっと…誇りに似た熱が、もう一度走った。
この息子の目の前に置かれている荷物の重さに、自分はもう、追いつけない。
なれど、その荷物を息子が、伏せた目だけで、すでに受け止めにかかっている…ということだけは、父にも分かった。
「窓が、開いたのでございます」
糸子は、最後にひと言、添えた。
「たった、四年だけの窓が……」
四
勝がわずかに、姿勢を整え直した。
両手を膝の上に置き、口を開いた。
「姫様」
「なんでございましょう」
「…… ちいとばかり、尋ねても構わねえかい?」
「はい」
「メリケンの戦がいつ終わるか、なんてね。そんな海の向こうの戦の終いが、なんでい? 姫様には『四年だ』なんて、そんなピタリと言い当てられちまうもんなのかね。
向こうはでけえ国なんだ、いつ、どっちが根を上げるかなんて、誰にも分かりっこねえはずなのにさ」
勝の問いは、まっすぐだった。
無礼ではない。むしろ、勝は糸子のこれまでの話を、頭の中で何度も反芻してきた。何度も自問自答し納得して、ここまでついてきた。
勝が今、姫様に聞いている。
…ということは——他の四人も心の中で同じ問いを、抱えているということだ。
御簾の向こうで、糸子は、扇子を軽く開いたらしい音がした。
「……ご明察を頂きとう存じまする」
(まぁ、普通はそう思うよねー。胡散臭いことこの上ないし……)
その声は、静かだった。
「近衛家には、表には出ぬ独自の情報網が、ござりまする。京の公家の縁、長崎の通詞の縁、そして——メリケンに渡った中浜万次郎殿と。
これら、別々の方角から集まる点の情報をわたくしの方で、ひと筋に繋ぎ合わせて参りました」
(未来から転生して、それ専門で学んだから、知っているんです!って言えたら…どれだけ気が楽か。はぁ……)
「……」
「此度、万次郎殿よりの書状で、その集めていた情報の確証が、ようやく得られ点が、一枚の絵になったのでござりまする」
糸子は、ひと呼吸置いた。
「それらを徹底的に精査し、試算いたしました」
今度は御簾の中から、紙の音がわずかに聞こえた。糸子が別の帳面をめくる音だった。
「北の方の工業の年の鋼の量。鉄道の里数。製鉄所の煙突の数。汽船の建造数。動員し得る兵員の桁。一方の南の方の綿花一品への依存。北部に首を絞められた時の財政の保てる月数」
数字が、ひとつずつ語られた。
「これらを需要と供給の限界の曲線として、紙の上で引いて参りました。どれほど泥沼になろうとも、四年前後でいずれか一方が、必ず物資の底を見せる——そういう数字が、出て参りました」
「……」
「予言ではござりませぬ」
糸子は、はっきりと付け加えた。
「兵員と物資の生産と消費をぶつけ合わせた、ひとつの試算でござります。
間違いも当然含みまする。なれど…的中の幅は半年前後と、わたくしは見ております」
(試算…ひょっとしたら、とても便利な言葉かも知れない)
(試算通り——にやりっ…なんてねー)
村田蔵六の細い目が、わずかに見開かれた。
彼は長年、蘭学を通じて、数式の上で現実をなぞる訓練を続けてきた男である。
今、御簾の向こうから語られた論理を彼は、自分の中でもう一度、確かめていた。
工業力と兵員と補給物資と戦の継続可能期間——これらを紙の上でぶつけ合わせて、限界の点を出す。
これは、紙の上の絵だ。
しかし、これは紙の上の絵が、初めて海の向こうの戦の長さを当てに行く絵だった。
誰の手にもまだない、新しい種類の絵だ。
村田の口からもう一度、ぽつりと漏れた。
「……なるほど」
今度の「なるほど」は、さきほどよりも深かった。
「姫様」
また、勝が声を出した。
「はい」
「四年——その『四年』は、軽い札じゃねぇ」
「左様で」
「軽い札じゃねぇからどう使うか、こっちが決めねぇといけねぇ」
勝は自分の言葉で、自分に確かめるように続けた。
「四年は長ぇ。長ぇが、しかし、四年で日本の足腰を立て直すには短ぇ。これは長くて短ぇ、四年だ」
「左様、その通りでござります」
「短ぇ四年に何を置くか。何を置かねぇか。順番を間違えると四年は、あっさり抜ける」
「おっしゃる通りかと…」
「だからこそ——堀田様への接触は、時期をやはり現場に立つオイラに判断させてくれ。
あの方の頭の中で、メリケンの戦と英仏の動きと四年という言葉と——この三つが、ひと筋に繋がる瞬間が必ず来る。来た瞬間に、絶好の機会にこっちの札を出す。その前に見せちゃいけねぇ」
「お任せ申し上げまする」
(勝殿に全てお任せしちゃいます、わたくしに楽をさせて下さいー)
糸子の声は静かだった。
だが、その静けさの底には、勝へのある種の信頼の、確かな手触りがあった。
五
帳面を読み終え、四年という言葉の輪郭が、五人の中で、ようやく固まり始めた頃。
御簾の向こうで、糸子の声が続いた。
「皆様、お気づきかと存じまするが…」
ひと呼吸置く。
「これは——わたくし一人では、絶対に無理な量でござりまする」
部屋の中で、誰かが軽く笑った。
「ははははーーっ」
近藤だった。
「……姫様が『無理』と仰せになる案件、初めてお聞き致しましたな」
遠慮のない、しかし嫌味のない笑いだった。
火鉢の炭が、それに応じるようにぱちりと爆ぜた。
御簾の向こうで糸子も、わずかに笑ったようだった。
「これだけ同時に幾つもやらなければならない案件は、わたくしも初めてでございます」
(だから、みなの力を貸して欲しいのですよ)
糸子の声は笑いの後、静かに戻った。
「ですから——お願い申し上げまする」
(前世の様に…十三で過労死はしたくない!)
糸子は、ひと言ひと言選ぶように続けた。
「わたくしの頭の中の事柄を——皆様のお手で、動かしてくださりませ」
部屋の中の空気が、わずかに変わった。
善次郎が、ゆっくり頭を下げた。下げてから、はっきりと応じた。
「われわれは、姫様の描いていらっしゃるものを、実現するために、ここにおります」
「……」
「ご遠慮、ご無用にございます」
息子の声を聞きながら、善兵衛はわずかに目を伏せた。
二十歳を出たばかりの倅の口から、姫君様に向かって、こうもまっすぐな言葉が出る。
その光景を善兵衛は、横で見ていた。父親の自分の口からは、たぶん出ない言葉だった。
善兵衛は、息子の隣で深く、深く頷いた。
頷くことで息子の言葉に、自分の名も加えるという意思表示だった。
村田の細い目が、わずかに、静かに、御簾の方を向いた。
「姫様…」
「はい」
「ご遠慮なさいますな」
村田の声は相変わらず、低く淡々としていた。
「われわれは、姫様のお考えを、現実にするための駒のひとつでございます。駒は駒としてお使いください。要らぬ温情は、案件を遅らせるばかりにございます」
「村田殿…」
「おう、全くだ!」
いつもの調子で勝が続いた。
「全くその通りだぜ。オイラだってこうやって、姫様の絵の中に入っちまった以上は、姫様に『お願いします』なんて、いちいち言われると、こっちの方が、却って調子が狂う。普通に命じてくれて構わねぇ」
「勝殿……」
「ま、命じるってえと、姫様的には言い方が悪ぃか。…ならこう言やいいかな。『一緒にやろう!』これでいいだろう」
「なっ、姫様…」
勝は片目を瞑りながら、ふっと笑った。
近藤がその横で、姿勢を整え直した。背筋をまっすぐに伸ばした。
「われらは、姫様のお味方にございます」
短く、そして、揺るぎなく近藤は答えた。
「存分にお頼り下さい——」
「はい……」
御簾の向こうで糸子は、しばらく何も言わなかった。いや、言えなかった。
言わずにただ静かに、五人を見ていた。
葵が後ろから、糸子の横顔を見ていた。葵にしか見えない場所で、糸子の睫がわずかに揺れていた。
薄っすら目に涙が滲んでいた。
普段の…気高い姫君の仮面の隙間から、十三歳の少女としての素顔が、ほんの少しのぞいた。
糸子はしばらくの間、その揺れを自分の中で静かに整えた。
整えてから、ひと言だけ応じた。
「……ありがたきことに、お礼の申しようもござりませぬ」
その声はいつもの…御簾の向こうの計算されたものとは、わずかに違っていた。
しかし、すぐに糸子は、姫の声に戻った。
扇子を軽く開く音が、御簾の向こうから聞こえ
た。
六
糸子は扇子の先で、空中にゆっくりと、六本の線を引いた——ように見えた。
御簾の向こうのわずかな動きの気配だけで、五人の頭の中に、その動きが伝わった。
「ではお役目を、お分けいたしまする」
糸子の声は、すでに整っていた。
「一。資金、経理、会所の運営。これは、善次郎殿に、お頼み申し上げまする。
善兵衛殿には、江戸の暖簾と、惣会所の足回り、それから、生糸の経路の一本化——足元の現場を、しっかと、お握りくださりませ」
「ははっ」
善次郎が深く頭を下げた。
善兵衛も深く頭を下げた。
糸子は続けた。
「善次郎殿。本日の帳面の中身を、現場で動かせる形に、解いてくださりませ。
生糸の極印、横浜のお店の拡張、輸出経路の一本化、丹後・但馬の他に、信州、上州、奥州、武蔵と甲斐への専属の囲い込み——これまで繰り返し、お話し申し上げてきた一連の手筈を、四年のうちに、すべて形に致しまする」
「承知致しました」
「善兵衛殿には、善次郎の組み上げた数字の絵を、江戸の暖簾の動きに、お置き換えくださりませ。
横浜の番頭衆、川崎の人足衆、上州・奥州への買い付けの足——これらの『動く現場』は、長年、善兵衛殿が一番、よくご存じでござりまする」
「ははっ」
善兵衛の応じ方は、短かった。短いがその中に、長年の暖簾を背負ってきた者の重みがあった。
息子が頭で組んだ絵を、自分が足で踏み固める。
その役割分担を姫君様は、丁寧にわざわざ言葉にしてくださった——その配慮を善兵衛は、静かに受け取った。
「もうひとつ…」
糸子の声は続いた。
「メリケンの方の商人と、横浜で銭のお取引をなさいます折は——」
糸子はここで声を低くした。
「相手が紙のお金で、お決済をお申し出になっても、絶対にお受けにならぬよう、徹底をなさいませ」
「紙のお金で…?」
善兵衛が聞き返した。
「向こうはいずれ、戦費のために、金との交換のきかぬ紙の札を、大量に刷り出しまする。『グリーンバック』と呼ぶそうにござります。これはいずれ、紙くずに近い値打ちになりまする」
「左様で——」
「決済はメキシコ銀貨か、イギリスのポンド建ての手形に限ってくださいませ。
これを外していただきますれば、わたくしどもの利は、半年も保たずに紙くずの中に消えまする」
善兵衛の喉が、ごくりと鳴った。
「……承知致しました」
「ご厳命とお受けくださいませ」
「ご厳命、しかとお受け申し上げます」
善兵衛の応じ方には、糸子への敬意と商人としての覚悟が、混ざっていた。
「二」
糸子の声は続いた。
「全国の人材の網。これは近く戻られる、中岡慎太郎殿に、お任せ申し上げまする」
「中岡殿?」
近藤が、わずかに頭を傾けた。
「ええ。中岡殿の作られた人材地図を半年ごとに、書き直していただきまする。組織の頂きに中岡殿。その下に各地の使い手の方々。さらにその下にご協力者。三層の静かな網を組みまする」
「左様で」
「中岡殿にはもうひとつ、お頼み申し上げる仕事がござります。各地で攘夷の熱に、火が付き過ぎぬよう、若い方々の頭をゆっくりと、別の方角に向けていただきまする」
「別の方角…?」
「武力ではなく合議。倒すか、倒されるかではなく、合議で新しい形を組む。その芽を各地に静かに、植えていただきまする」
糸子は、ここでひと呼吸置いた。
「中岡殿に、こうお伝え申しまする。『四年の窓のうちに、この国の若い方々の刀を抜くべき場所と、抜かぬべき場所の線引きを、できる限り整えていただきとうございます』と……」
近藤がしばらく、無言で聞いていた。
聞いてから低く応じた。
「……中岡殿、お疲れになりましょうな」
「ええ」
糸子の声は、静かだった。
「お疲れになりまする。なれど——お疲れにこそ、なっていただきたいのでございます。全国を歩ける目をお持ちの方は、わたくしの周りに中岡殿、お一人しかおられませぬ」
(だから中岡殿に組織化してもらうのです。そうじゃないと…中岡殿が今度は過労死してしまうー)
(けど、まぁ…坂本の友人ですからね、彼は……)
「三」
糸子は、続けた。
「武力。護衛。そして、これから先、横浜と長崎に流れ込む武器の出所と行き先の見張り。これは近藤殿、お頼み申し上げまする」
「御意」
「お屋敷の中のご護衛は、引き続き旭狼衛の皆様で。ただ、長崎の方は…近藤殿は、お動きになれませぬ」
「なにゆえ?」
「長崎の方は——すでに別の二人の若者に、お頼みすることと、なっておりまする」
「随分と手際がよいですな」
「坂本が、すでに九州に向かっています。途中、長崎を経由するように指示してありまする。そこで、坂本のお仲間の——近藤長次郎殿、沢村惣之丞殿のお二人に、長崎での武器商人の件を、お頼み申し上げる手筈と、相成りました」
「その二人は、大丈夫なのでしょうか?」
近藤が心配そうに聞いた。
「はい、人物像は坂本よりお聞きしておりまする」
「また、旭狼衛隊士、小野寺順平をその二人につけまする」
「坂本の友人二人の名目は、惣会所の長崎出張所のお調べ役。お手当は月に銀四匁を加えて、働きに応じてのご褒美。善兵衛の方から、月ごとにお渡しするように取り計らってくださいまし」
善兵衛が、ひと呼吸早く頷いた。
「はっ。長崎の月次の手当、確かに私の方で、整えさせていただきます」
「お頼み申します」
「お任せください」
善兵衛の口元が、わずかに引き締まった。
長崎の手当の出口になるということは、その月の金の流れに自分の判子が、毎月確かに残る…ということだ。書き残るところには、自分が責任を負う。長年の商人としての習い性が、ふっと息子の前で立ち上がった。
善次郎が、横でちらりと父を見た。父の口元の引き締まり方を、息子は見逃さなかった。
「父上」
善次郎が、小さく低く言った。
「うん」
「月次の支払いの控えは、わたくしの帳面ともひと月遅れで、必ず突き合わせていただきますよ」
「わかっている。今夜のうちに、別綴じを起こす」
父と息子のわずかなやり取りを、糸子は御簾の向こうから、静かに聞いていた。
聞いて、ふっと目を細めた。父子の役割が、御簾の向こうの自分が頼んだ通りに、すでに二人の中で動き始めている。
糸子は続けた。
「武器商人——特にイギリスのグラバーと申す者の周辺。その者の周りに集まる船、運ばれる箱、出ていく荷——これを長次郎殿と惣之丞殿に注視していただきまする」
「ただし、近藤殿。旭狼衛隊士を経由してお二人にお渡しになる書状の最後にひと言、こう添えていただきとうございます」
「なんでありましょうか」
「『あなた方にはきっと、外の世界が合うと思います』」
糸子の声はその一文を、わずかに静かに口にした。
近藤はその意味を、半分しか汲み取れなかった。
しかし、その一文の中に、糸子なりの若い二人へのある種の祈りのようなものが、含まれていることだけは感じ取れた。
近藤は、深く頭を下げた。
「御意」
「四」
糸子は続けた。
「語学、教育、それと書物の製作。これは村田殿に、お頼み申し上げまする」
「左様で」
「これまで通り、商務語学所の方々を英語と蘭語、しっかりとお育てくださりませ。それから——」
糸子の声に、わずかに別の力が加わった。
「これからは、フランス語通詞の方を急ぎ、お探しくださりませ」
「フランスの?」
村田の眉が、ぴくりと上がった。
「はい…」
「メリケンがいったん引きまする。なれど、今度はイギリスとフランスが、押し寄せて参ります。
中でもフランスは、生糸の機屋衆の蚕の病で、わたくしどもの糸を、喉から手が出るほど欲しがりましょう。
横浜と長崎、その両方でフランス語の話せる方をひとり、ふたりと確保致しとうござります」
「長崎の通詞の中に、心当たりはございましょうや?」
村田は、即答した。
「はい、何名か心当たりがございます」
「それではよろしゅうお頼み申します」
無言で村田は頷く。
村田の応じ方は相変わらず、抑揚に乏しかった。だが、彼の中ではすでに誰の顔に、最初に当たるかまで決まっていた。
「五」
糸子は続けた。
「幕府の中でのお話し合いの種蒔き。これは勝殿に、変わらずお頼み申し上げまする」
「はっ」
「平岡殿との縁を、しっかりとお続けくださりませ。あのお方を通じて、一橋様の周りにゆっくりと、合議のお話を染み込ませていただきまする」
「わかった」
「それから——堀田様への本日の話の伝え方は、勝殿のご判断に、お任せ致します。先ほどお話しいただいた通りにお願い申し上げまする」
「承知した!」
勝は軽く頷いた。
頷きながら自分の中で、ひそかに考えていた。
老中首座、堀田正睦様の中の天秤。そこに乗せる重さの匙加減を間違えると堀田様は、こちら側ではなく酒井のような譜代の門閥の方へ、滑り落ちる。しかし、匙加減さえ整えば——堀田様は、十分に味方になりえる。
その匙加減を見極めるのが、自分の役だと勝は、もう一度、自分に言い聞かせた。
「そして、六」
糸子の声が、最後の一本に辿り着いた。
「メリケンの動き、海の向こうの市場、万次郎殿との通信——これはわたくし自身の手で、行わせていただきまする」
部屋の中の誰一人、口を挟まなかった。
糸子の「自分の手で握る」という言葉の中身を、五人とも即座に了解していた。
他の誰にも託せぬ仕事——糸子はそう言いたかった。
なぜ託せぬか?までは、彼女は説明しなかった。
しかし五人とも、それを深くは聞かなかった。聞かぬことが、今夜の自分たちの分の礼節だと、五人とも心得ていた。
七 応!!
六本の線が引き終わった。
部屋の中でしばらく、再び静かな間があった。
火鉢の炭がもう一度、ぱちりと爆ぜた。
「皆様…」
糸子の声が、最後に続いた。
「メリケンの内戦で開く、この空白の四年。一滴も残さずに使い切りまする」
「これ以上、日本を異国の好き勝手にはさせてなりませぬ」
「わたくしたちは——この国を変えましょうぞ」
御簾の向こうから糸子の声が、初めてはっきりと号令の形を取った。
勝が静かに、しかし強く応じた。
「これは——」
「うん」
「オイラたち日本人の、血を流させねぇための戦だ」
勝の口調は、軽い江戸っ子のべらんめえに戻っていた。だが、その軽さの底に確かな重さが宿っていた。
近藤が続いた。
「決して負けるわけには、参りませぬな」
「はい…」
糸子の声が応じた。
「決して負けるわけには、参りませぬ」
「各々方……よろしいですね」
糸子の声が、最後に、五人に確かめた。
五人は、互いの顔を、静かに見合った。
火鉢のふたつを挟んで——
善兵衛が頷いた。
天朝御用商務惣会所を束ね、日本の生糸ルートを一本に纏める――その物流の血脈を命がけで通す老練の覚悟が、その深い皺に刻まれていた。
善次郎が頷いた。
天朝物産会所の実務責任者として、すべての資金、帳簿を握る重圧。渋沢らを率いて異国商人と渡り合う若き双肩に、日本の本気を載せて、父の頷きの上に己のそれを重ねた。
近藤が頷いた。
旭狼衛隊長として、刃を振るうだけではない。塾生の暴走を抑え、江戸を護り、長崎の坂本の仲間たちとも連携して武器商人を好き勝手させない――ただの剣客から、この国の「武」の最高峰の管理者になる覚悟の頷きであった。
村田が頷いた。
語学、教育、出版。生徒らと共に世界と戦うために言葉の壁を打ち砕く。異国の知を瞬時に翻訳し、日本を「学ぶ国」へと変える冷徹な計算の果てに、確信を込めて頷いた。
勝が頷いた。
慶喜の周辺に公議政体の種を蒔き、幕府を内側から操る。己の名は決して記録に残らなくても構わない――日本を救うためなら歴史の影に埋もれたっていい、不敵で…しかし孤独な覚悟の頷きだった。
父と息子の頷きは、わずかにほぼ同時だった。半呼吸、父の方が早かった。
善次郎が父の頷きを、横目で確かめてから、自分の頷きをその上に重ねた。
それで二つの頷きが、ひとつになった。
「「「「「応!!!」」」」」
五人の声が揃った。
その声は奥御殿の広間の火鉢の炭の音さえ、しばし押し戻すほどの確かな響きを持っていた。
障子の外で薄く舞っていた雪が、その声にわずかに震えたように見えた。
御簾の向こうで糸子は、扇子をぱちりと閉じた。
その音は静かだった。
八
会議はそれから、もう半刻ほど続いた。
各人の役割の細部の詰め。月ごとの報告の形。万次郎との文の往来の経路。
横浜と長崎の…それぞれの担当の連絡の取り方。中岡が戻った後の最初の動き。
その全てを五人は、火鉢の前でひと言ずつ確かめ合った。
善兵衛は長年の暖簾の足腰で、横浜の番頭衆と、川崎・上州への足の動かし方を淀みなく挙げていった。
善次郎は父の足の動かし方の上に、月次の数字の絞り方を几帳面に重ねていった。
父子の組み合わせは、見ていて気持ちのいい仕事の積み方をした。
近藤は武力の出し入れの段取りを、口短に取り決めた。
村田は語学所のフランス語担当の手当て先を、頭の中でもう二人に絞り込んでいた。
勝は堀田と平岡の二人を、別々の天秤として、いつどちらに何の重しを乗せるかを、自分の頭の中で、淡々と組み立てていた。
最後に糸子の声が、静かに付け加えた。
「それから皆さまにもうひとつ、お願いがござります」
「なんでしょうか?、姫様」
「本日のお話の中身——特に、四年という言葉の中身は、皆様のそれぞれのお手元に留めてくださいませ。お屋敷のご家中にもお話しなさらぬよう」
「承知」
「四年という言葉が、外に漏れた瞬間に四年は、半分になりまする。半分になった四年で、わたくしどもは、この絵を仕上げられませぬ」
「分かりました」
五人が揃って頷いた。
その頷きの中に、それぞれの長年の職業人としての習慣が、静かに宿っていた。
商人は口の固さで、暖簾を守ってきた。
武士は口の固さで、家を守ってきた。
学者は口の固さで、自分の論理の清さを守ってきた。
幕臣は口の固さで、自分の命を守ってきた。
五人とも口は固かった。
その固さが、今夜揃って、糸子の絵の最初の四隅を押さえた。
帰り際、善兵衛が、息子の善次郎の脇にふっと寄った。
「善次郎」
「はい、父上」
「四年は長いのか、短いのか…」
善兵衛の声は、声に出して言うほどでもないというほどの低さだった。
善次郎が、しばし考えた。
「父上には、長くお見えになりましょう」
「お前には、短く感じるのか?」
「はい短く感じます」
「そうか…」
善兵衛はふっと笑った。笑った口元の皺が、深かった。
「それでよい。お前の方が、長く生きる。お前の頭で長く回せ。私はお前の足元を固めとく」
「父上」
「言わずもがな…よ」
善兵衛はそれだけ言って、廊下の方へ先に立った。
善次郎はその背中を、しばし見ていた。
見てから深く、頭を下げた。誰も見ていなかった。
父も振り返らなかった。
ただ廊下の角を曲がる時、父の襟元の緩みが、いつもよほんのわずか…戻されていた。
九
五人が辞して廊下を、静かに去っていった。
沖田が最後に襖を静かに閉めた。
葵が火鉢のひとつを、火箸で軽く整え直した。
「姫君様。お湯をお持ち致しましょうか」
「ええ。お願い」
「しばしお待ちください」
葵がいったん部屋を出た。
部屋の中に糸子は一人、残った。
御簾を片手で軽く押し上げた。
御簾の中から初めて、部屋の全景が見えた。
火鉢が二つ。
五つの坐布団。
まだ、わずかに温もりが残っていた。
炭の匂いが、その温もりの上をゆっくりと流れていた。
糸子はしばらくその光景を見ていた。
見ながら文机の上に、自分の手で新しい紙を引き出した。
紙の上に几帳面な字で、六本の線を書いた。
「①資金・経理・会所運営 善次郎(管理)/善兵衛(実務)」
「②人材網 中岡慎太郎(帰着次第)」
「③武力・武器商人監視 近藤勇(旭狼衛)/近藤長次郎・沢村惣之丞/長崎通詞・楢林栄左衛門」
「④語学・教育・出版 村田蔵六(仏語担当の確保 急ぎ)」
「⑤幕府工作・慶喜への種蒔き 勝麟太郎(堀田の天秤 注視)」
「⑥外交・海外市場・万次郎連絡 糸子」
書き終えてから糸子は、しばらくその紙の最後の一行を見ていた。
⑥
糸子本人……
糸子の指の先が、その一行の文字の上を静かに撫でた。
胸の奥である感覚が、静かに静かに降りてきた。
よかった…と糸子は思った。
五人がいてくれた。「応」と声を揃えてくれた。
ひとりではない。
わたくしはひとりでは…ない。
なれど——
糸子の指はもう一度、最後の一行の自分の名前に戻った。
この一行だけは、誰にも渡せなかった。
なぜ?メリケンの内戦が、四年で終わるか。
なぜ?内戦の後、武器が海の向こうから押し寄せて、長州と薩摩の手に入ろうとするのか?。
なぜ?フランスの蚕の病が、この時期にぴたりと来るか。
なぜ?イギリスの公使が、これから雄藩の方へ傾くか。
糸子の中でそれらの全部の答えを知っている。
だが、それらの答えの根拠は、誰にも説明できない。
近衛家の独自の情報網…と語ることはできる。試算の数字で、輪郭をなぞることもできる。
しかし、本当の出所——糸子が別の時代からこの幕末に運んできた記憶——は誰にも見せられるものではない。
見せた瞬間に五人の中で、何かが確実に変わるのが怖かった。
変わったものは、もう元には戻らないのだから。
だから——糸子は、見せないことに決めた。
見せないまま、その荷物を自分一人で運ぶ。
糸子の指先が、最後の一行の上でしばし止まった。
止まってから、ふっと笑った。
声には、出さなかった。
だが、その笑いの中には、悲しさも得意も両方が混じっていた。
この荷物の本当の重さを、自分が四年間、持ち続けられるか——その自問は糸子の中で、まだ誰にも応えられていなかった。
しかし、応える前に窓の四年は、もう走り始めていた。
葵が湯呑みを運んで戻ってきた。
糸子は急いで、紙を文箱に静かにしまった。
「葵」
「はい、姫君様」
「おおきに」
「当然のことでございます」
葵は湯呑みを微笑みながら、糸子の前に丁寧に置いた。
置いてからわずかに、糸子の顔を覗き込んだ。
「姫君様…」
「なに、葵」
「お顔の色が少し、すぐれませんが…お疲れのように見えになります」
「そうかしら?」
「はい、ゆっくり、お召し上がりくださいませ」
糸子は、湯呑みを、両手で受け取った。
受け取ってから、葵の方をちらりと見た。
葵はいつも通り、にこにこと…糸子の傍に控えていた。
その「いつも通り」が、糸子の中の一番、固い柱てして静かに支えていた。
「葵」
「はい」
「これからもよろしくね」
「当然でございます」
「ええ。いろいろ大変な四年になりましょう」
「葵は姫君様のお傍におりますよ。四年でも…いつまででも……」
「頼もしいわね……ふふふ」
糸子は、静かに笑った。
葵には四年…という言葉の本当の中身は、何ひとつ分かっていなかった。
だが、葵の応じ方の中には、糸子が今夜、本当に欲しかったものがあった。
いつまででも、傍にいる…ということが、どれ程ありがたいことであるか。
糸子は湯呑みを静かに、口元に運んだ。
お湯の温かさが、舌の上をゆっくりと降りていった。
十
その夜遅く、粉雪が止んだ。
奥御殿の障子をわずかに開けた糸子の目に、庭の白さが静かに映った。
枯山水の石と石の間に、ほんの薄く雪の粒が残っていた。
空に星が、ひとつふたつと覗き始めていた。
星の光は、メリケンの方角から来ているのか、京の方角から来ているのか——糸子には、もう、どちらでもよかった。
星は静かに光っていた。
糸子はしばらく、その星を見ていた。
扇子を袖の中で、もう一度ぱちりと閉じた。
その音は奥御殿の廊下の方には、流れなかった。
糸子と星と…止んだ雪の三者の間にだけ、静かに聞こえる音だった。
ふと糸子の頭の中に、夕刻、廊下の角で交わされた、父子の小さなやり取りが戻ってきた。
善兵衛と善次郎。
長くと短く。
「お前の頭で長く回せ。私はお前の足元を固めておく」
糸子はその一言を、聞いていたわけではない。
しかし、葵を介して廊下の二人の影が、しばらく寄り添ってから、別々の方角に分かれていったのを、奥御殿の障子越しに、気配で察していた。
二十歳前後の、若きニ代目。
四十路の半ばの、暖簾の足腰。
あの父子の組み合わせ一つで、横浜と江戸の年月分の重みが、ひと筋の縄に綯われていく——糸子は、その縄の感触を自分の指先で、ひそかに撫でた。
わたくしには、父と息子のああいう組み方は、できない。
けれど、わたくしには、ああいう組み方を傍で見て、それを絵の中に置くということができる。
糸子はそれで、十分だと思った。
四年。
糸子の唇の端がふっと上がった。
「…ふふふふふふ腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐」
ごく小さな笑いが、星明かりの中で漏れた。
葵が後ろでいつも通り、にこにこと控えていた。
遠く江戸の街のどこかで、夜回りの拍子木の音が、静かに鳴っていた。
その拍子木の音の向こう、海のさらに向こうで——
アメリカの南北戦争がもう、すぐそこまで…近づいていた。
誰もまだ、その四月が、世界そのものの形を根本から変える月になることを知らなかった。
知っているのは——奥御殿の障子の脇に立つ姫君、ただ一人だった。
姫君は扇子を袖の中で、もう一度静かに撫でた。
撫でてから、障子を静かに閉めた。
文久元年、初春のことであった。
第百二話 了