作品タイトル不明
第71話 灰色の庭へ、最初の戻り印を置いた
拠点の作業台に、小さな固定具が並んでいた。
金属製の杭が六本。短距離ビーコンが二つ。赤い反射テープを巻いた細いマーカーが三本。どれも、扉を開ける道具ではない。
レンは工具バッグから開放用のカッターを抜き、少し迷ってから棚に戻した。
『優先度を下げる判断で合っています』
「分かってる。今日は切らない」
『外周接近点一への物理マーカー設置が主目的です。灰色の庭の境界接触は作業範囲外』
「言い方が硬いな」
『硬くしておく方が、手が滑りにくいです』
『手は滑らないでください。嫌です』
「ガタはいつも正直だな」
ガタは作業台の下で、金属杭を一本だけ見ていた。触りはしない。だが、前よりは近い。
灰色の庭は拠点地図の北西にある黒い円だった。外周入口候補、地下保守口候補、帰還線二本。そこに、CROSSOVERで拾った三点反応をもとにした仮点が置かれている。
OUTER GARDEN APPROACH POINTS。
RETURN MARK SEQUENCE。
ノアの補助名は硬かったが、意味は分かる。
戻れるようにしてから近づく。
それだけだ。
レンは固定具をバッグに入れ、最後に短距離ビーコンを腰のポーチへ押し込んだ。
「接近点一までの距離は」
『拠点外壁から三百四十六メートル。粉塵濃度は低。地表温度は安定。帰還線は拠点ビーコンと同期済み』
「ガタ、行けるか」
『行きたくはありません』
「そこは聞いてない」
『戻り印を置くなら、行けます』
レンはうなずいた。
外へ出ると、空は鈍い銀色だった。風は弱い。地表の細かな粉が、靴底でかすかに鳴る。遠くに灰色の庭が見えた。
庭、と呼ぶには冷たすぎる。黒い円は、地面に落ちた影のようにそこにあり、周りだけが妙に静かだった。
レンは歩幅を一定に保った。ガタは少し後ろをついてくる。ノアの声が耳元に落ちる。
『外周接近点一まで、残り百二十メートル』
「視界は問題なし」
『はい。現在の条件なら、接近点一まで進めます』
『条件つきで嫌です』
「条件なしの嫌よりはいい」
足元の粉が薄くなり、地面の色が変わった。黒い円の外側。境界には入っていない。だが、空気が一段冷える。
レンは左手を上げて、ガタを止めた。
「ここから先は俺だけで十メートル見る」
『嫌です』
『ガタの判断は妥当です。単独前進は五メートルまでを推奨』
「五メートルか。分かった」
レンは五歩だけ進んだ。
黒い円は目の前にある。音が少ない。自分の呼吸と、スーツ内部の小さな循環音だけが聞こえた。
ここで扉を探したくなる。
裂け目を見つけ、端末を当て、反応を読む。そうすれば、何か分かるかもしれない。
レンはバッグから開放工具ではなく、金属杭を抜いた。
地面に置く。
杭の先が、こつ、と硬い層に当たった。
「ノア、位置」
『外周接近点一。誤差一・二メートル。設置可能です』
「固定する」
レンは体重をかけて杭を押し込んだ。硬い。少し角度を変える。金属が低く鳴る。もう一度押す。
がちり。
杭が地面に噛んだ。
その瞬間、短距離ビーコンのランプが一度だけ青く点いた。
『物理マーカー固定を確認』
『帰れますか』
『帰還線、拠点ビーコンと接続。ガタの位置からも視認可能です』
『好きです』
ガタが少し前に出た。
レンは赤い反射テープを杭に巻き、短距離ビーコンを低出力で起動した。光は弱い。だが、灰色の地面の中では十分に目立つ。
[SYSTEM LOG]
――――――――――
OUTER GARDEN APPROACH POINT 01:MARKED
RETURN BEACON:LOW POWER ACTIVE
BASE RETURN LINE:STABLE
BOUNDARY CONTACT:NONE
――――――――――
「接触なし」
『はい。外周への干渉は検出していません』
「よし」
レンは一歩下がった。
黒い円は変わらない。開いてもいない。返事もない。
だが、レンの背中側には青い小さな光がある。拠点へ戻る方向を示す杭がある。
それだけで、黒い円の前に立つ感覚が少し変わった。
『レン』
「なんだ」
『戻り印が見えます』
「見えるな」
『灰色の庭は嫌ですが、これは好きです』
レンは短く笑った。
「俺も、これは好きだ」
帰り道は、行きより短く感じた。
粉の上に残った足跡。赤い反射テープ。青い小さな点。拠点外壁の白い照明。その四つが一直線に並ぶ。
拠点に戻ると、ノアが地図を更新した。
黒い円の外側に、小さな点が一つ残った。
『外周接近点一、拠点地図へ保存完了』
「消えないな」
『消えません。物理マーカーとビーコンの両方で確認しています』
『戻れる点です』
「そうだ」
灰色の庭は、まだ黒い。
中身は読めていない。扉も開いていない。
けれど、その外側に、レンたちの点が一つ置かれた。
次に近づく時、そこから始められる。
レンは地図上の小さな青点を見た。
黒い円へ向かうためではない。
戻ってくるための、最初の点だった。