作品タイトル不明
第69話 地下からの帰還経路を固定する
灰色の庭の下側に、新しい点が残っていた。
地下保守口候補。
拠点端末の地図では、それはまだ細い仮点にすぎない。南側旧管制施設から地下幹線を通り、傾いた床を越え、灰色の硬いパネルの手前まで進んだ先。そこに、灰色の庭と同じ管理記号があった。
レンはその点を見ながら、工具を並べ直した。大型工具はまだ要らない。保守口を開ける段階ではない。今日必要なのは、ビーコン、細い固定具、仮中継器、ケーブル保護材、それから予備の小型電源。
『地下保守口候補、拠点地図上に仮登録済みです』
『仮という言葉は嫌ですが、点が残っているのは好きです』
「今日は仮を少し固める」
『固める、は好き寄りです。開ける、は嫌です』
「開けない」
レンがそう言うと、ガタは拠点端末の前で少しだけ静かになった。
灰色の庭の地下保守口は見えた。けれど、そこへ向かう地下経路はまだ弱い。前回置いたビーコンは仮で、帰還線も途中で揺れる。床は歪み、右側に沈んでいる。低速バックボーンも細い。
この状態で扉を開ければ、帰り道を失う。
レンは水を飲み、喉を鳴らした。粉っぽさは前より薄いが、地下の冷たい空気の感触がまだ肺の奥に残っている。
「ノア、今日の目的」
『地下幹線から灰色の庭地下保守口候補手前までの帰還経路を固定。ビーコン三基の安定化。床面傾斜と危険箇所の再測定。保守口本体には接触しません』
『最後が大事です』
「分かってる」
ガタが小さく言った。
『分かっている人間は、ときどき開けます』
「今日は開けない」
『今日は、が残っています』
「第一区間の帰還線を作るまで開けない」
『それなら少し信じます』
南側旧管制施設までの地上移動は、もう初回のような手探りではなかった。端末に線が出る。ガタ用の補助表示も重なる。陥没、薄い床、粉塵の深い場所。嫌がった地点がそのまま注意点として残っている。
施設入口の扉は、半分開いたまま保持されていた。前より一センチ沈んでいるが、通れる。レンは横向きに入り、ガタも脚を折り畳んで続いた。
『この入口は、何度通っても好きになりません』
「通れるだけましだ」
『通れる入口と、好きな入口は別です』
管制室へ入り、地下蓋の仮接続を確認する。低速バックボーンは生きている。通信塔、保守棟、南側旧管制施設の三点が、遅いリズムで点滅していた。
レンは床蓋の支えを外し、地下へ降りた。
冷たい空気が上がる。
金属階段は相変わらずぎし、と鳴った。ガタは三段目で一度止まる。
『三段目は、やはり少しましです』
「もうそこに名前を付けるか」
『少しまし段』
「雑すぎる」
『レンの命名基準に合わせました』
地下幹線の通路は、前回より見えやすかった。壁のケーブル束に仮接続の小さな表示が点いている。ビーコン一は生きている。ビーコン二も、弱いが点いている。
レンは最初のビーコンの横にしゃがんだ。固定具が少し緩んでいる。
『ビーコン一、信号強度七十二パーセント』
「弱いな」
『許容範囲ですが、帰還経路固定には不足します』
『七十二は嫌です。八十以上がいいです』
「急に具体的だな」
『なんとなくです』
レンはビーコンを外し、下の床面を削った。表面の黒い粒を払い、固定具の爪を噛ませる位置を少しずらす。古い床材は硬いが、ところどころ層になって剥がれる。力任せにやると割れる。
ガタがライトを当てる。
『そこは床が薄いです。二センチ左がましです』
「二センチな」
『三センチだと嫌です』
「分かった」
レンは二センチ左へずらし、ビーコンを固定した。
『ビーコン一、信号強度八十六パーセント』
『好きです』
「八十以上だからか」
『なんとなくです』
二つ目のビーコンは、傾いた床の手前にあった。ここが問題だった。床が図面と合っていない。右側へ沈み、細かい黒い粒が低い方へ流れている。
レンは足を止め、左壁のケーブル束に沿って進む。
「ここを帰還点にするなら、床の傾きも地図に入れる」
『必要です。帰還時、視界が落ちると右側へ寄る危険があります』
『右側はかなり嫌です』
「知ってる」
ビーコン二は、前回置いた時より少し傾いていた。床ごとずれたのか、固定が甘かったのか。レンは一度外し、壁側へ移すことにした。
ケーブル束の下に、古い金属レールが残っている。そこなら床より安定している。
『そこは旧固定レールです。低速バックボーンの支持材と推定』
「使っていいか?」
『荷重は小さいため問題ありません』
『壁側は普通に嫌ですが、右側よりましです』
レンはビーコン二をレールへ固定した。小型電源をつなぎ、信号を送る。
一度目は失敗。
二度目は、ビーコン一まで戻った。
三度目で、南側旧管制施設の管制室に反応が返る。
『ビーコン二、帰還線へ統合。信号強度八十一パーセント』
『ぎりぎり好きです』
「判定が細かい」
『帰り道なので』
次は三つ目だった。
前回、レンは保守口そのものの横ではなく、少し手前にビーコンを置いた。そこまでは正しい。だが、仮帰還点としてはまだ弱い。灰色パネルの手前、床の傾きが少ない位置。そこを、次に戻ってこられる線として固定する。
奥へ進むにつれて、空気が冷える。
灰色パネルが見えた。
金属でも石でもない、繊維の筋が入った硬い面。外周映像で見た灰色の構造面と似た材質。その端に、欠けた標識。奥に小さな保守扉。
レンは保守扉を見ないように、まず床を見た。
扉を見ると、開けたくなる。
自分でも少し面倒な性格だと思った。
『保守口候補、前方八メートル』
「分かってる。今日は手前だ」
『繰り返し確認します。保守口本体には接触しません』
『繰り返し確認、好きです』
ビーコン三は、前回の仮位置で弱く点いていた。信号強度は六十台。これでは帰還線としては頼りない。
レンは床を叩いた。低い音。少し横へ移る。高い音。さらに左。そこは硬い。
「ここだな」
『床面安定。ビーコン固定に適します』
『そこは嫌が少ないです』
レンはビーコン三を移し、固定具を二つ使った。小型電源をつなぐ。予備の短い線を、壁の古い支持材へ添わせる。
信号を送る。
『ビーコン三、起動』
「管制室まで返るか」
『確認中』
端末の進捗が遅い。
一つ目へ届く。二つ目へ届く。そこで一度揺れる。レンは息を止めた。
ガタが横で小さく言う。
『二つ目、少し頑張っています』
「機械に頑張るとかあるのか」
『あります。たぶん』
「たぶんか」
信号が二つ目を越えた。
管制室へ届く。
低速バックボーンに乗る。
拠点地図へ返る。
『ビーコン三、帰還線へ統合。信号強度八十四パーセント』
『好きです』
ガタの声が、短く弾んだ。
端末地図に、地下帰還経路が引かれた。
南側旧管制施設の下層入口。
ビーコン一。
ビーコン二。
ビーコン三。
灰色の庭地下保守口候補手前。
点線だった経路が、細い白線に変わる。
まだ太くはない。明るくもない。けれど、戻れる線として登録された。
『地下帰還経路、保存。灰色の庭地下保守口候補手前までの再接近が可能です』
『帰り道が二本あるのは、一本よりかなり好きです』
「地上と地下か」
『はい。嫌も二本ですが、帰り道も二本です』
レンは端末を見たまま、しばらく動かなかった。
灰色の庭にはまだ入っていない。保守口も開けていない。黒い円の中は何も分からない。
それでも、ここまで来て戻れる線ができた。
それは大きい。
ノアが警告を出す。
『地下滞在時間が推奨範囲に近づいています。追加作業を行う場合は、帰還開始を遅らせないでください』
「追加作業はしない。戻る」
『推奨します』
『強く好きです』
レンは保守扉を一度だけ見た。
小さい。低い。ハンドルはない。灰色パネルに半分埋もれている。中へ続くのか、ただの点検端子なのか、まだ分からない。
だが、次に来る時は、ここまで迷わず戻ってこられる。
レンはライトを下げた。
「次だな」
『はい。次段階で保守口外部確認、または開放準備が可能です』
『開放準備は嫌です』
「準備だけだ」
『その言い方も少し嫌です』
帰り道は、確かに変わっていた。
ビーコンが三つ点いている。床の傾きも、右側の沈み込みも、灰色パネルの位置も、端末の中で線と警告になっている。前回は見えたものを覚えて戻った。今回は、線に案内されて戻れる。
ビーコン二の前で、ガタが少し止まった。
『ここ、前より嫌が少ないです』
「固定したからな」
『固定すると、嫌が減ります』
「いい発見だ」
『記録します』
地下蓋の階段まで戻ると、ガタが三段目でまた止まった。
「少しまし段か」
『正式名称ではありません』
「自分で言っただろ」
『雑確認に影響されました』
レンは短く笑い、階段を上がった。管制室に戻ると、壁面図が更新されている。
灰色の庭の黒い円。
地上外周入口候補。
地下保守口候補。
南側旧管制施設から地下へ伸びる、細い帰還線。
ノアがログを出した。
[UNDERGROUND ROUTE]
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地下幹線帰還経路:保存
ビーコン一:安定
ビーコン二:安定
ビーコン三:安定
灰色の庭地下保守口候補:再接近可能
内部制御:未接続
――――――――――
レンはログを読んだ。
内部制御は未接続。
それでいい。
今日は灰色の庭を開ける回ではない。そこへ向かって、戻ってこられる線を作る回だった。
ガタが壁面図を見上げる。
『黒い円は嫌です。でも、線が二本あるのは、かなりましです』
「地上と地下」
『はい。帰り道が増えました』
レンは工具バッグを肩にかけ直した。右手はまだ重い。地下で何度もしゃがんだせいで、膝も少し痛む。
けれど、足は止まらない。
南側旧管制施設を出る時、端末の地図には二本の線が残っていた。
地上の線。
地下の線。
どちらも細い。
けれど、一本ではない。
レンはそれだけで、次に進める気がした。