作品タイトル不明
第58話 地下配線路に、帰り道の光を置く
南側補助配線区画の入口では、古いファンが低い音を立てて回っていた。
完全な換気ではない。前室の空気を少しずつ動かしているだけだ。それでも、閉じきった匂いは薄くなっていた。金属の冷たさと古い樹脂の臭いは残っているが、息をするたびに喉が引っかかる感じは前より少ない。
レンは扉の前で装備を確認した。小型帰還マーカー三基、短距離通信中継器二基、携帯ライト、予備バッテリー、崩落検知用の振動タグ。腰には点検棒。背中にはいつもより軽い工具パックを背負っている。
『本日の目的を確認します。南側補助配線区画から地下配線路第一踊り場まで降下。照明系統の一部確認。帰還マーカーと通信中継器の設置。南側管制施設方面への進入は行いません』
「言い方が強いな」
『行いません』
『行いません』
「二人で言うな」
『必要です』
ガタは前照灯を細くしたまま、入口の段差の手前で止まっていた。前回より小さく見える。いや、実際には同じ大きさだ。地下に向かう入口の前だと、機械まで少し縮こまって見える。
レンは膝を曲げ、ガタの車輪を確認した。溝に落ちないよう、前輪側に小さな補助リムを付けてある。段差用の仮パーツだ。長距離には向かないが、第一踊り場までなら使える。
「足回り、どうだ」
『足ではありません』
「車輪回り」
『嫌です』
「性能の話」
『動きます。嫌です』
レンは小さくうなずいた。
「よし。いつも通りだ」
『いつも通りを理由にしないでください』
ノアの表示がフェイスシールドに重なる。南側補助配線区画の簡易地図は、前回より少しだけ埋まっていた。入口前室、補助制御室、右奥の地下配線路下行階段。階段は五段目から先が黒い未確認領域になっている。
[DESCENT PREP]
――――――――――
換気系:低出力維持
照明系:未確認
通信:入口ビーコン安定
帰還マーカー:三基携行
中継器:二基携行
目標:第一踊り場
禁止:南側管制施設方面への進入
――――――――――
「禁止まで書くな」
『必要です』
『必要です』
「分かったって」
レンは南側補助配線区画へ入った。前室の空気はひんやりしている。壁の太いケーブル束が、ライトを受けて黒く光った。床の細い溝には、前回動いた粉塵が薄く寄っている。
左の補助制御室から、緑色の表示が漏れていた。換気はまだ生きている。低出力のまま、古いファンがぎこちなく回っていた。
右奥に、地下配線路へ降りる階段がある。
レンは入口に一基目の帰還マーカーを置いた。青い光が足元で点く。
[RETURN MARKER 01]
――――――――――
設置地点:地下配線路入口
通信塔基点:同期
信号強度:安定
帰還経路:記録開始
――――――――――
『第一マーカー、同期確認。ここから先、通信塔側の直接受信は弱くなります。中継器設置を推奨します』
「階段前に一基か」
『はい。地下では曲がり角と段差が通信を落とします』
『地下はだいたい悪いです』
「雑だけど、今日は否定できないな」
レンは短距離通信中継器を壁のケーブルラックに固定した。磁気クランプが弱く鳴り、青い点がつく。ノアの表示が一瞬だけ安定した。
[LOCAL RELAY 01]
――――――――――
設置地点:地下配線路入口
通信塔基点:中継確立
ガタ走行ログ:受信可能
内部探索:第一踊り場まで許可
――――――――――
「これで第一踊り場まで?」
『理論上は届きます。ただし、壁面配線と金属隔壁の影響で減衰する可能性があります』
「つまり、行ってみないと分からない」
『はい』
『嫌な理論です』
レンは階段をライトで照らした。五段目までは見える。その先は暗い。階段の幅は狭く、人ひとりと小型ローバーがぎりぎり通れる程度。手すりは右側だけ残っている。左側の壁には太いケーブル束が沿っており、ところどころ固定具が外れて垂れていた。
足を一段目に置く。
金属が、こん、と鳴った。
レンは止まる。
『荷重反応、許容範囲内。階段材に腐食あり。中央ではなく右寄りを推奨します』
「手すり側か」
『はい。壁面支持が残っています』
『私はどこを走ればいいですか』
『中央やや右寄り。ただし溝を避けてください』
『要求が多いです』
「文句言いながらできるだろ」
『できます。嫌です』
ガタが一段目を降りた。補助リムが段差を噛み、ぎこちなく下がる。がた、と小さな音がした。
名前通りだな、とレンは思ったが、言わなかった。言うと面倒になる。
レンもゆっくり降りる。二段目、三段目。温度がさらに下がった。背中側の前室から流れてくる風が、階段の中へ細く吸い込まれていく。
五段目で、ライトが届く範囲が少し広がった。階段はさらに下へ続いていた。壁のケーブル束が太くなり、床には細い排水溝が走っている。天井から古い表示板が斜めに垂れていた。
南側配線路。
文字はかすれているが、読めた。
「当たりだな」
『地下配線路で間違いありません。第一踊り場まで、残り七段です』
『七段もあります』
「少ないだろ」
『地下の七段は多いです』
レンは階段の途中に振動タグを貼った。小さな銀色のタグが壁にくっつき、低く点滅する。階段のきしみ、天井の振動、ケーブル束の揺れを拾うためのものだ。
[VIBRATION TAG 01]
――――――――――
設置地点:下行階段中段
崩落監視:開始
振動基準値:記録中
警告閾値:低め
――――――――――
「低め?」
『初回探索です。過敏に設定します』
「鳴りすぎるやつじゃないか」
『鳴らないより安全です』
『全部鳴らしましょう』
「それは進めない」
七段を降りると、小さな踊り場に出た。
第一踊り場は、思ったより狭かった。四畳ほどの床に、三方向の通路がつながっている。正面は閉じた隔壁。左はケーブル点検路らしい細い通路。右はさらに下へ降りる階段。南側管制施設方面の反応は、おそらく右の下に続いている。
だが、今日は降りない。
レンは自分に言い聞かせた。
踊り場の天井には、四角い照明パネルが二つあった。どちらも消えている。壁の制御盤には、赤く死んだ表示と、かろうじて残った黄色い点が一つ。
ガタが踊り場の中央で止まった。
『床、嫌です』
「またか。理由」
『鳴ります』
レンは足を少し動かした。床下で、かん、と薄い音がした。空洞がある。配線用の床下スペースだろう。踏み抜くほどではなさそうだが、油断はできない。
『床下配線空間を確認。重荷重は避けてください。ガタの走行は低速推奨です』
『低速は得意です』
「速いの苦手だもんな」
『必要がありません』
レンは二基目の帰還マーカーを踊り場の壁際に置いた。青い光が点く。入口側のマーカーと同期し、中継器を通して通信塔まで線が戻る。
[RETURN MARKER 02]
――――――――――
設置地点:第一踊り場
入口マーカー:同期
通信中継器:受信良好
帰還経路:確保
――――――――――
「帰り道、二本目」
『確認しました。第一踊り場を一時作業点として登録します』
『帰り道が増えるのは良いことです』
「今日はいいこと言うな」
『いつも言っています』
「そうか?」
『評価が低いです』
レンは踊り場の制御盤を開けた。蝶番が固く、ぎい、と鳴る。中には古い配線と、小さなブレーカーが並んでいた。照明系、換気補助、階段下センサー、南側ライン監視。文字はかすれているが、ノアが補正して表示してくれる。
『照明系統を確認します。第一踊り場と下行階段上部のみ、低出力で試験可能です。奥の通路までは含めません』
「また限定か」
『限定は安全です』
『限定は帰れます』
「ガタがだんだんノア寄りになってきたな」
『不本意です』
レンは照明系のブレーカーに手をかけた。古いスイッチだ。少し動かすだけで、粉のようなものが落ちる。いきなり入れると怖い。ノアの指示通り、補助バッテリーを間に挟み、出力を絞る。
[LIGHT TEST]
――――――――――
対象:第一踊り場/下行階段上部
出力:一・五パーセント
目的:点灯確認
奥側通路:対象外
異常時:即時遮断
――――――――――
「一・五パーセントで点くのか?」
『点くかどうかを確認します。明るくする試験ではありません』
「なるほど」
『暗いまま帰る選択もあります』
「試験はする」
『残念です』
レンはスイッチを上げた。
一瞬、何も起きなかった。
それから、天井の照明パネルが、ちか、と点いた。すぐ消える。もう一度、ちか。三度目で、弱い白色光がにじむように広がった。
明るいとは言えない。むしろ頼りない。だが、踊り場の床、正面の隔壁、左の点検路、右の下行階段の最初の数段が見える。
闇が、少しだけ押し返された。
『照明系、低出力点灯を確認。異常発熱なし。第一踊り場の視認性が向上しました』
「見えるな」
『はい。見えます』
『見えるのも嫌です』
「さっきもそれ言ってたな」
『見えると行きたくなるからです』
レンは返事をしなかった。
実際、右の下行階段が見えた。そこからさらに下へ続いている。壁には南側ラインの太いケーブル束。階段の途中に、古い標識が半分落ちていた。
南側管制補助。
そこまで読めた。
レンは喉を鳴らしそうになって、やめた。
「ノア、右の標識」
『確認しました。南側管制補助、または南側管制補助線と読めます。南側管制施設候補との関連性が高いです』
「当たりだ」
『可能性は高いです。ただし、本日の目的は第一踊り場の安全確保です』
「分かってる」
『繰り返します。本日の目的は第一踊り場の安全確保です』
「分かってるって」
『信用補正が必要です』
『もっと補正してください』
レンは右の階段に近づかず、踊り場の壁に二基目の通信中継器を固定した。これで入口、階段中段、第一踊り場の通信がつながる。ノアの表示が少し安定し、ガタの走行ログも途切れなくなった。
[LOCAL RELAY 02]
――――――――――
設置地点:第一踊り場
入口中継器:同期
通信塔基点:接続維持
下行階段:通信未確認
第一踊り場:作業点登録
――――――――――
「これで次は下まで届くか?」
『下行階段の曲がり角までは届く可能性があります。南側管制施設方面へ進むには、さらに中継器が必要です』
「増やせば進める」
『はい。手順を踏めば進めます』
『増やさなければ帰れます』
「ガタ、今日も帰りたいだけだな」
『はい』
レンは左の点検路も確認した。こちらは狭く、すぐ先で配線束が崩れて塞がっている。通れない。だが、壁面の表示から、ここは補助点検路で、南側管制施設への主経路ではないと分かった。
正面の隔壁も閉じている。ロックは死んでいるが、向こう側の空間情報は取れない。無理に開ける必要はない。
今日の収穫は右だ。
南側管制補助線へ続く階段。その手前に、帰り道の光と通信中継を置けた。
[FIRST LANDING CHECK]
――――――――――
第一踊り場:到達
帰還マーカー:設置
通信中継器:設置
照明系:低出力点灯
左点検路:閉塞
右下行階段:南側管制補助線候補
次作業:下行階段調査/中継器追加
――――――――――
レンはログを保存した。端末の地図に、通信塔基部から地下へ伸びる細い線が追加される。入口、階段中段、第一踊り場。三つの点が青くつながった。
短い。
まだ短い線だ。
けれど、地下に線ができた。
「今日はここまでだな」
『適切です』
『非常に適切です』
「ガタは分かりやすいな」
『帰還判断は常に高評価です』
レンはもう一度、右の下行階段を見た。弱い照明の先で、数段だけが白く浮かんでいる。その奥は暗い。けれど、前回のただの闇ではない。標識があり、ケーブルがあり、微弱なライン反応がある。
南側管制施設は、たぶんこの下のどこかにつながっている。
行ける。
そう思った。
だから、今日は戻る。
「帰るぞ」
『了解しました。帰還経路を表示します』
『高評価です』
ガタが先に入口側へ向かった。踊り場から階段を上がる動きは、降りる時より少しだけ速い。補助リムが段差を噛み、がた、がた、と音を立てる。
レンは最後に照明の出力を維持設定にした。完全に消すと、次に来た時また暗闇から始めることになる。出力を落とし、踊り場の輪郭だけが分かる程度に残す。
青い帰還マーカーが壁際で点滅している。
白く弱い照明と、青い帰還マーカー。
地下配線路に、初めて帰り道の光が置かれた。
前室へ戻ると、古いファンの音が聞こえてきた。ぎこちないが、止まっていない。南へ向かう線は、少しずつ呼吸を戻している。
レンは入口扉を越え、通信塔基部管理室へ戻った。管理室の空気が暖かい。いつもの焦げ臭ささえ、今は少し安心する。
端末の地図を見る。
通信塔。
北東中継塔。
外縁塔列候補。
南側補助配線区画。
そして、地下第一踊り場。
線はまだ途中だ。
それでも、南へ進む準備はできた。
次は、下行階段の先を調べる。南側管制施設へ続くかもしれない、暗い配線路の奥へ。