作品タイトル不明
第56話 保守ログは、最後の異常を記録していた
北東中継塔の保守ログは、素直には開かなかった。
通信塔基部管理室の端末に、北東中継塔から吸い出したログ断片を並べる。ファイル名は残っている。作業記録、地形観測、同期履歴、外縁塔列監視、緊急停止報告。だが、中身は欠けていた。開こうとするたび、古い文字列が崩れ、画面の端でノイズになる。
レンは床に座り、端末を膝の上に置いた。壁際では仮設バッテリーが低く唸っている。通信塔の補助制御盤は、まだ北東中継塔の小さな点を表示していた。昨日より少しだけ強い青だ。
『保守ログの欠損率は六十二パーセントです。時系列復元には、通信塔側の記録と照合する必要があります』
「半分以上ないのか」
『はい。ただし、重要度の高い障害記録は冗長保存されています。完全ではありませんが、読める可能性があります』
『読まない可能性はありますか』
「ガタ、それはない」
『聞いてみただけです』
ガタは床の上で待機している。外に出ていないので、今日もやや機嫌がいい。前照灯を低くしたまま、端末の画面を見ているような位置にいた。
レンはログ断片を一つ開いた。文字が乱れ、数秒遅れて補正される。
[MAINTENANCE LOG:NE RELAY]
――――――――――
記録源:北東中継塔
状態:断片復元
主塔同期:不安定
外縁塔列監視:継続中断
最終保守員記録:欠損
緊急停止報告:一部残存
――――――――――
「最終保守員記録、欠損か」
『個人記録は損傷が大きいです。設備側の自動記録を優先して復元します』
「人の記録じゃなくて、塔が勝手に残した方か」
『はい。設備は最後まで異常を記録していました』
最後まで。
レンはその言葉を画面の中で見た気がした。半分沈んだ塔。折れたアンテナ。裂けた外装。暗い基部コアの奥で残っていた青白い点。あれが、最後まで記録していた。
端末に、古い時系列が少しずつ並ぶ。日付は標準暦では読めない。だが、事象の順番は追えた。最初は定期保守。次に粉塵濃度上昇。次に外縁塔列の応答遅延。そこまでは淡々としている。
その先から、ログの密度が変わった。
[AUTO EVENT TRACE]
――――――――――
外縁塔列:応答遅延
北東中継塔:補正信号増幅
通信塔:低出力警告
南側管制施設:応答低下
塔列経路:再計算
結果:同期不成立
――――――――――
「南側管制施設?」
『通信塔地図には未登録の設備名です。北東中継塔側のログにだけ残っています』
「南側なのに、北東中継塔のログに出るのか」
『はい。外縁塔列への経路計算に関与していた可能性があります。北東中継塔は単独の中継点ではなく、通信塔、南側管制施設、外縁塔列の三点補正で動いていたと推定されます』
「つまり、北東中継塔だけ起こしても外縁塔列へ行けない?」
『行けません。少なくとも、安定した経路は出せません』
『では行かない方がいいです』
「そこは同意だな」
『高評価です』
レンは地図を開いた。通信塔から北東中継塔へ伸びる細い線。その先に、昨日見えた外縁塔列候補の三点。そこへ、ノアがログから復元した古い補助線を重ねる。
線はまっすぐ外縁塔列へ伸びていなかった。
北東中継塔から一度、南へ折れている。通信塔の南側、まだ白いノイズに埋もれている領域へ向かい、そこから外縁塔列へ戻っていた。
レンは思わず眉を寄せた。
「遠回りすぎるだろ」
『経路ではなく、補正点です。物理的な道ではなく、塔列座標を確定するための管制補助施設と考えられます』
「測量の三角点みたいなものか」
『近いです。外縁塔列の位置を、通信塔、北東中継塔、南側管制施設の三点から補正していました』
『三角は安定します』
「ガタ、分かるのか」
『車輪は三点支持が好きです』
「それはちょっと違う」
『違いますか』
レンは少しだけ笑った。床下のファンが低く回り、管理室の空気がゆっくり動く。焦げ臭さはまだ消えないが、作業にはもう慣れていた。
ノアが次の断片を開く。
今度のログは、画面の揺れが大きかった。文字が一度崩れ、復元に時間がかかる。端末の処理音がわずかに高くなる。
[EMERGENCY TRACE]
――――――――――
粉塵嵐:長期化
外縁塔列:二番塔応答消失
北東中継塔:姿勢異常
南側管制施設:応答なし
通信塔:低出力退避
手動保守要請:未達
――――――――――
「二番塔が消えたのか」
『外縁塔列候補のうち、一基に対応する可能性があります。ただし、現在検出した三点との一致率は低いです』
「昔の二番塔と、今見えた三点が同じとは限らない」
『はい。外縁塔列側にも変位、倒壊、応答消失が発生している可能性があります』
「外側も壊れてる前提で見た方がいいな」
『推奨します』
『推奨だけでなく、強く推奨してください』
「ガタ、外側が嫌すぎるだろ」
『外側は遠いです。遠いものは壊れています』
「雑な法則だな」
『今のところ当たっています』
否定しづらかった。
レンは通信塔地図を拡大し、南側の白い領域を見る。そこには、まだ何もない。いや、何も出ていないだけだ。通信塔の低出力グリッドでは拾えていない。北東中継塔のログにだけ、南側管制施設という名前が残っている。
もしそれが本当に外縁塔列の補正点なら、次に向かうべき場所は外縁塔列ではない。南側管制施設だ。
ただし、位置が分からない。
「ノア、南側管制施設の座標は?」
『直接座標は欠損しています。ログ内に残る方位と同期遅延から、候補範囲を出します』
「どのくらい絞れる?」
『現在の情報では、半径八百メートル程度の候補域です』
「広いな」
『広いです。ただし、通信塔側の古い地下配線図と照合すれば、さらに絞れる可能性があります』
「地下配線図、あったか?」
『通信塔基部の未整理ログに残っている可能性があります』
「未整理ログって、あの山か」
『はい』
『読まない可能性はありますか』
「ないって」
『残念です』
レンは端末の横に積んだデータ片を見た。読めていないログがまだ大量にある。通信塔、保守棟、北東中継塔。どれも欠けていて、どれも古い。読むだけで一日が終わりそうだった。
だが、読まないと進めない。
昨日見えた外縁塔列の三点は、たぶんご褒美ではなく、警告でもあった。遠くにある。壊れている。直接向かえば、帰れない。
レンは頬の内側を軽く噛み、通信塔の未整理ログを開いた。
[BASE ARCHIVE SEARCH]
――――――――――
検索語:南側管制施設
照合対象:通信塔基部記録/地下配線図/旧保守経路
一致:低
関連語:南側補正棟/管制補助室/方位基準点
候補:三件
――――――――――
「名前が揺れてるな」
『正式名称が更新された可能性があります。南側管制施設、南側補正棟、管制補助室は同一設備を指す候補です』
「つまり、昔の人も呼び方がぶれてた」
『運用現場ではよくあります』
『現場は雑です』
「お前が言うと重いな」
候補の一つを開く。画面に、通信塔基部から南へ伸びる古い配線図が出た。かなり欠けている。途中の線は途切れ、端の方は白いノイズに食われている。それでも、地下ケーブルの束が南へ伸びているのは分かった。
そして、その途中に、小さな節点があった。
名前は、欠けている。
だが、そこから北東中継塔へ向かう補助線が細く伸びていた。
「これか?」
『可能性が高いです。通信塔南側、旧地下配線束の分岐点。北東中継塔との補正線があります』
「距離は?」
『通信塔基部から南南東へ一・二キロメートル前後。ただし、地表経路は未確認です』
「外を歩く?」
『候補は二つあります。地表から南側へ回る経路。もう一つは、通信塔基部から地下配線路をたどる経路です』
『地下は嫌です』
「まだ何も言ってない」
『先に言いました』
レンは地図を見た。地表経路は、粉塵の深い帯を横切る。北東中継塔の時より短いが、地形データがない。地下配線路は、通信塔の中から入れる可能性がある。ただし、崩落していれば逃げ道がない。
どちらも嫌だった。
「ノア、現時点で推奨は?」
『地下配線路の入口を確認することです。入るかどうかは別判断です。まず入口が残っているか、空気、崩落、電源、通信状態を調査します』
「外に出る前に、内側から調べる」
『はい。この手順なら進めます』
『この手順でも嫌です』
「ガタは嫌で固定だな」
『はい』
レンは南側管制施設候補に仮マーカーを置いた。地図上では、まだ白いノイズの中に埋もれた仮点だ。それでも、何もなかった場所に、次の目的地ができた。
外縁塔列へ直接向かわない。南側管制施設を探す。そこで補正を取る。北東中継塔の保守ログが示した道は、遠回りに見えて、たぶん安全な順番だった。
端末が短く鳴る。
ノアが緊急停止報告の最後の断片を復元した。
[LAST RELAY RECORD]
――――――――――
北東中継塔:姿勢異常
外縁塔列:座標補正不能
南側管制施設:応答途絶
通信塔:退避信号送信
最終処理:外縁塔列への直接誘導を禁止
理由:帰還経路喪失リスク
――――――――――
レンは黙って読んだ。
最後の処理は、進めという命令ではなかった。止まれという命令でもない。外縁塔列へ直接行くな、帰れなくなる、という警告だった。
半分沈んだ中継塔は、最後にそれを残していた。
「……ちゃんと止めてたんだな」
『はい。北東中継塔は、外縁塔列への直接誘導を禁止していました』
「壊れる前に」
『または、壊れながらです』
レンは画面を見たまま、しばらく動かなかった。古い設備が最後に残した警告。誰かが読んだかは分からない。保守員に届いたかも分からない。ただ、ログは残っていた。
読めた以上、無視する理由はない。
「分かった。外縁塔列へは行かない。先に南側管制施設を探す」
『適切です。次作業として、通信塔基部の地下配線路入口を探索します』
『地下ですか』
「入口を見るだけだ」
『その言い方は危険です』
「まあ、危険だな」
『認めないでください』
レンは保存ボタンを押した。北東中継塔保守ログ、南側管制施設候補、地下配線図、最後の誘導禁止記録。すべて別ファイルに分けて保管する。
端末の地図には、通信塔、北東中継塔、外縁塔列候補、そして新しい仮点が表示された。
南側管制施設候補。
白いノイズの中に置かれた、小さな橙色の点。
レンは立ち上がった。ずっと床に座っていたせいで、膝が少し固い。壁の補助灯が、低く青白く点いている。
「行くぞ。地下配線路の入口だけ確認する」
『了解しました。通信塔基部南側の未確認区画を案内します』
『入口だけです』
「入口だけ」
『信用はしていません』
「それでいい」
ガタが前照灯を点けた。床の粉塵が細く照らされる。通信塔基部管理室の南側には、まだ開けていない扉があった。小さな保守用の扉だ。今まで気にする余裕もなかった。
扉の上には、かすれた文字が残っている。
南側補助配線区画。
レンは手袋をはめ直し、端末を左手に持った。
外へ行く前に、下を見る。
半分沈んだ塔が最後に残した警告は、南へ続いていた。