作品タイトル不明
第42話 保守棟の床下に、塔の線があった
保守棟は、見えてからが遠かった。
白い粉塵の向こうに、低い影がある。箱を斜めに埋めたような建物だった。外壁は半分ほど砂と粉に呑まれ、上部のアンテナらしい棒は途中で折れている。正面入口の位置は分かるが、扉の下半分が埋まっていた。
レンは足元の配線溝から少し距離を取りながら進んだ。配線溝の蓋は何枚も沈み、ところどころで隙間を見せている。踏めば抜ける。見れば分かる。見なくても、ガタがずっと嫌がっていた。
『下、嫌です』
「分かってる。踏んでない」
『近いです』
「一メートル以上空けてる」
『一・二メートル推奨です』
「お前、ノアの表示まで読むのか」
『見えます。不快です』
ノアの声がヘルメットの内側に入る。
『保守棟候補まで二十七メートル。側面点検口の位置を再推定しました。正面入口は埋没。側面からの進入が現実的です』
「ガタの予感、当たりか」
『側面、嫌です』
「当たって嬉しくなさそうだな」
『嫌なので』
レンは短く息を吐いた。
粉塵が外装に当たる音が、さっきより細かい。しゃらしゃら、という乾いた音が続いている。視界の端では通信塔の影が何度か見えたり消えたりした。まっすぐ立っている。遠い。だが、さっきよりも現実に近い。
今は保守棟だ。
レンは側面へ回り込んだ。外壁の下に、点検口らしい長方形の輪郭があった。半分は白い粉に埋まり、取っ手は錆びて固まっている。近くの壁には、古い管理表示が残っていた。読めない。文字が削れているのではなく、表示層が死んでいる。
[MAINTENANCE UNIT - OUTER ACCESS]
――――――――――
側面点検口:半埋没
内部圧:不明
補助電源:停止
床面傾斜:検出
地下配線溝:接続可能性あり
――――――――――
「内部圧、不明か」
『大気漏れは検出されません。点検口開放時の粉塵流入に注意してください』
「ガタは入れるか」
『点検口幅から判断し、ガタ本体の進入は困難です』
『入らない。嬉しいです』
「露骨に嬉しそうだな」
『外で待ちます。不快ですが』
レンは工具を取り出し、点検口の周りの粉を払った。手袋が白くなる。金属縁を指でなぞると、ざらついた粉と腐食した塗装が混じって剥がれた。
取っ手は動かない。
「固いな」
『右下のロックが残っています』
「見えてる」
レンは細い工具を差し込み、右下のロックへ力をかけた。
ぎ、と嫌な音。
もう一度。
ぎぎ、と金属がこすれる音。
右腕に力を入れすぎて、接合部が一瞬だけ警告を出した。レンは舌打ちしかけて、やめた。力任せにやると壊す。
工具を差し替える。角度を少し変える。ロックの根元に溜まった粉を掻き出す。
がちん。
ロックが落ちた。
「よし」
『開放時、粉塵流入に注意』
「分かってる」
レンは点検口を少しだけ開けた。
中から、冷えた空気ではなく、古い粉塵が流れ出した。白い粒ではない。灰色に近い、細かく重い粉だ。ヘルメットのライトにまとわりつき、すぐ床へ落ちる。
匂いはしないはずなのに、焦げた樹脂の記憶が喉の奥をこすった。
レンは点検口をもう少し開け、体を横にして中へ入った。
狭い。
肩が壁に当たる。右腕が引っかかる。腰の工具が鳴る。中は暗く、床は斜めだった。足を置いた瞬間、薄い金属板がべこんと沈む。
『下、嫌です』
外からガタの声がした。
「お前、外からでも言うのか」
『聞こえます。床、嫌です』
『レン、足元に荷重を集中させないでください。床板の支持が弱っています』
「先に言ってくれ」
『今言いました』
「今かよ」
レンは壁に手をつき、足の位置を変えた。床板が小さく戻る。ぎし、と音が鳴った。
保守棟の中は、ほとんど空だった。
壁際に小さな制御盤。倒れた棚。粉をかぶった端子箱。床の中央に、点検蓋らしい長い板がある。そこだけ、粉塵の積もり方が少し違っていた。外で見た配線溝の延長だ。
レンは膝をつき、点検蓋の縁を探った。
『その下です』
「ガタ?」
『下、かなり嫌です』
「便利だな、本当に」
ノアが短く補足する。
『外部配線溝と内部床下構造が一致しています。点検蓋の下に通信塔方向の配線束がある可能性が高いです』
「ここが手入れ口ってわけか」
『はい。保守棟候補ではなく、保守棟と判断できます』
レンは粉を払い、点検蓋のロックを探した。
片方は壊れていた。もう片方は固着。中央の固定ピンは曲がっている。嫌な組み合わせだった。
工具を差し込む。粉が詰まっている。引く。動かない。押す。鳴るだけ。
「面倒なやつだな」
『破損を避けるなら、固定ピンを切断してください』
「切ったら戻せない」
『床下確認の方が優先です。仮固定材はあります』
「あるけど、少ない」
『ここを起こせば、通信塔外縁ラインの状態を先に確認できます』
「……分かってる」
レンは切断用の小型工具を出した。先端が低く唸る。振動が手袋越しに伝わる。固定ピンに当てると、火花が細く散った。
ぱち。
ぱち、ぱち。
狭い室内に、焼けた金属の光が跳ねる。
切れた。
点検蓋に手をかける。重い。粉を吸って、縁が噛んでいる。レンは右腕で支え、左手で工具を差し込み、少しずつ持ち上げた。
がこん。
蓋が外れた。
下に、配線束があった。
黒い太いケーブルが三本。細い線が何十本も束ねられている。被覆は白く粉をかぶり、いくつかは外装が割れていた。だが、切れてはいない。奥へ、通信塔の方向へ、まっすぐ伸びている。
レンは思わず息を止めた。
「残ってる」
『配線束を確認。導通試験を推奨します』
『下、最悪です』
「お前は嫌がってろ」
レンはケーブルの端子箱を探した。床下の右側に、小さな接続モジュールがある。カバーはひび割れ、端子は白い粉と灰色の湿気で汚れていた。指で触ると、粉が固まっている。
死にかけている。
でも、死んではいない。
[FLOOR LINE INSPECTION]
――――――――――
主配線束:連続
外装劣化:中
端子腐食:高
補助電源:停止
塔外縁ライン:未導通
推奨:端子洗浄/低出力導通試験
――――――――――
「端子洗浄か」
『携行キットで対応可能です』
「一回分しかない」
『ここに使う価値はあります』
「言い切るな」
『通信塔へ近づくための前段階です』
レンは洗浄キットを取り出した。
小さな布。揮発剤の入ったカートリッジ。接点磨き。予備端子。地味な道具ばかりだ。だが、今はこれが一番大事だった。
端子をひとつずつ拭く。
白い粉が布へ移る。灰色の汚れが伸びる。接点の奥に残った塊を細い棒で削る。強くやりすぎると端子ごと折れる。弱すぎると汚れが残る。
狭い。
手元が見えにくい。
右腕の関節が壁に当たり、かん、と鳴った。
「くそ、狭い」
『作業姿勢が非推奨です』
「知ってる」
『右肘を十二度下げてください』
「下げる場所がない」
『では、左膝を後方へ』
「床が抜ける」
『床、嫌です』
「参加するな」
ガタの声が外から聞こえるせいで、少しだけ楽だった。
レンは左膝をずらし、右肩を壁に押し付ける形で手元を確保した。接点磨きを端子に当てる。ゆっくり回す。ざり、ざり、と嫌な感触が伝わる。
一つ。
二つ。
三つ。
端子の色が少し戻る。
最後に予備端子をひとつ噛ませ、低出力導通用の小型バッテリを接続する。
「ノア、導通試験」
『低出力で実施します。過負荷時は即時遮断します』
「やれ」
小さなクリック音。
次の瞬間、床下の配線束に、青白い光が一本走った。
細く、弱く、それでも確かに奥へ流れていく。
保守棟の壁際で、死んでいた表示灯が一つ点いた。
ぽん、と古い音がした。
「点いた」
『保守棟補助電源、低出力復帰。床下配線、一部導通』
『外、光りました』
「塔か?」
『遠方、微弱発光です。不快ではありません』
「不快じゃないんだ」
『珍しいです』
レンは点検口の方を見た。
外の白い粉塵の向こうで、遠くの通信塔が一瞬だけ光った。見間違いかと思うほど弱い。塔の外縁に、細い青白い線が走って、すぐ消える。
だが、見えた。
保守棟から塔へ、線が通った。
[MAINTENANCE NODE RESTORE]
――――――――――
保守棟補助電源:低出力復帰
床下配線:一部導通
通信塔外縁ライン:仮接続
塔基部応答:微弱
――――――――――
レンはしばらく表示を見ていた。
地味な成功だった。
水が出るわけでもない。扉が開くわけでもない。だが、塔が応えた。ここを直したことで、遠くの塔が一度だけ光った。
それだけで十分だった。
いや、十分ではない。
でも、進んだ。
「ノア、通信塔外縁ラインは使えるか」
『限定的に使用可能です。現時点では状態確認と外縁パネル位置の推定が可能です』
「パネルの位置、出せるか」
『出せます』
壁面端末の死んだ表示の一部が、低く光った。ノアがレンの腕端末に地図を送る。保守棟から通信塔へ向かう線。その先、塔の外周に、小さな点が三つ出た。
[TOWER OUTER ACCESS ESTIMATE]
――――――――――
外縁パネル候補:三
推奨候補:北西側パネル
到達経路:保守棟外周経由
危険:塔下傾斜/粉塵堆積/外装片
――――――――――
「北西側パネル」
『塔下に直接入らず、外縁から接触できます。この経路なら進めます』
「またうまい言い方だ」
『事実です』
外からガタが鳴った。
『塔下、嫌です』
「まだ行ってない」
『予感です』
「その予感、たぶん当たるな」
レンは点検蓋を仮固定した。切ったピンの代わりに、持ってきた細い固定材を噛ませる。完全ではない。だが、開けっぱなしよりはいい。
床から立ち上がろうとして、膝が少し遅れた。
外部スーツが重い。狭い場所で変な姿勢を続けたせいで、肩と腰が張っている。右腕の接合部にも、黄色い負荷表示が出ていた。
『右腕接合部、負荷上昇』
「見えてる」
『水分摂取も不足気味です』
「今ここで飲むのか」
『可能です』
「嫌だ」
『非効率です』
「知ってる」
レンは腰のチューブから少しだけ水を飲んだ。ぬるい。金属っぽい味がする気がした。たぶん気のせいだ。
点検口から外へ出る。
白い粉塵が、ヘルメットに当たる。
ガタは点検口の外で待っていた。右前輪のまわりに粉が溜まっている。前部センサーが、保守棟の床下方向を向いていた。
『中、嫌でした』
「入ってないだろ」
『聞こえました』
「音で嫌がるな」
『十分です』
レンは保守棟の側面から、遠くの塔を見た。
粉塵の向こうで、通信塔はまだ立っている。さっきの光はもう消えていた。だが、腕端末の地図には新しい線が残っている。保守棟から塔外縁へ伸びる仮接続。細い。弱い。それでも線だ。
ただ白い外を歩いているだけではない。
ここから先は、塔へ触るための経路になる。
「ノア、次は外縁パネルだな」
『はい。保守棟の低出力ラインを維持できる間に、北西側外縁パネルへ向かうことを推奨します』
「維持時間は」
『現状で三十六分。端子の温度上昇次第で短縮します』
「短いな」
『ですが、今なら行けます』
レンは工具ベルトを確認した。洗浄キットは使った。予備端子もひとつ減った。右腕は少し重い。ガタは嫌がっている。ノアは経路を出している。
塔の外縁パネルまで、行ける。
『外縁、嫌です』
「お前、何なら嫌じゃないんだ」
『平坦、低粉塵、低振動、低荷重、屋内』
「贅沢だな」
『通常です』
レンは少しだけ笑った。
視界の向こうで、通信塔の影が白く滲んでいる。
保守棟の床下で、塔へ向かう線はまだ生きていた。
レンはその線をたどるように、粉塵の中へ足を出した。