軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第41話 白い粉塵の中へ出る

出発前の確認は、三回やった。

右腕シール、粉塵フィルタ、外部用バッテリ、帰還ビーコン、工具一式、予備ケーブル、ガタの右前輪。端末のリストに並んだ項目は、どれも緑ではなかった。黄色。低出力。仮固定。許容範囲内。そういう言葉ばかりが並んでいる。

それでも、行ける形にはなっていた。

[EVA PRECHECK]

――――――――――

右腕外装シール:許容範囲

粉塵フィルタ:残量七一%

帰還ビーコン:充電完了

外部用工具:携行

小型作業ローバー《ガタ》:同行可能

推奨経路:保守棟経由

――――――――――

レンは表示を見て、息を吐いた。

「完璧じゃないな」

『完璧ではありません』

「そこは気を使え」

『完璧ではありませんが、出発可能です』

「少しマシになった」

ノアの表示が、壁面端末の右側に展開される。外部地図は相変わらず欠けている。拠点、外壁ハッチ、保守棟候補、通信塔候補。点と線だけの雑な地図だ。だが、昨日までより線が太い。保守棟を経由すれば、塔外縁の反応を拾いやすいらしい。

作業台の下で、ガタが低く鳴った。

『前方、白いです』

「外だからな」

『白い外、嫌です』

「語彙が増えたな」

『不快です』

レンは膝をつき、ガタの右前輪をもう一度押した。軸は少し鳴るが、昨日よりはましだ。荷台の固定具も締め直した。冷却ファンの異音は残っている。残っているが、動く。

「お前、途中で止まるなよ」

『前回走行、雑』

「それは認める」

『今回も雑の予感』

「予感で文句言うな」

ガタの前部センサーが小さく点滅した。

『予防です』

レンは一瞬だけ笑いそうになったが、うまく笑えなかった。

端末の端に、保存済みの視覚断片がある。緑のノイズ。古い屋根。石灯籠。透明な板を持つ人影。顔は見えない。声もない。それでも、レンは何度も見返した。

あれが本当に今の映像なのか。どこかの記録なのか。ミオ本人なのか。

確証はない。

だから通信塔へ行く。

レンは断片を閉じた。今は見ない。何度見ても情報は増えない。増やすには、外へ出るしかない。

「ノア、保守棟経由の理由をもう一回」

『保守棟候補は通信塔外縁ラインの中継点である可能性が高いです。直行より距離は増えますが、塔外縁への低出力接続を先に確保できる可能性があります』

「つまり、遠回りだけど意味はある」

『はい。この手順なら、通信塔外縁に到達する前に状態を確認できます』

「止めないんだな」

『止める理由はありません。危険要素はありますが、対策済みです』

『前方、白いです』

「ガタは止めてる」

『ガタは白さを嫌がっています。白さ自体は危険値ではありません』

『白さ、危険です』

『訂正します。ガタにとっては危険値です』

「仲いいな、お前ら」

ノアは返答しなかった。

レンは外部スーツの胸部ロックを閉じた。がちん、と硬い音がする。首元の密閉が締まり、内側の空気が少しだけ重くなった。右腕の接合部が遅れて同期する。指を開閉すると、関節が小さく鳴った。

工具を腰に固定する。ビーコンを左肩に付ける。ガタの荷台に予備ケーブルと小型バッテリを載せる。

「外壁ハッチ、開けるぞ」

『外壁ハッチ開放シーケンスを開始します』

赤いランプが三つ点く。

低い振動が床を伝った。

ごん、と奥でロックが外れる音がする。次に、空気が引かれる音。外側の圧が合わされ、ハッチの縁から白い粉が少しだけ漏れた。

レンは無意識に口を閉じた。

フィルタ越しでも、焦げた金属と乾いた石の匂いが混じったように感じた。実際に匂いが入ったわけではない。記憶と警戒が勝手に混ぜたのかもしれない。

ハッチが開いた。

白い粉塵が、ライトの中を横へ流れていた。

外だった。

拠点の中とは音が違う。空調の低い唸りではなく、遠くから壁を擦るような風の音。細かな粒が外装に当たって、ささ、ささ、と乾いた音を立てる。視界は悪い。数十メートル先が白くぼやけ、地面と空の境目が曖昧だった。

レンは一歩出た。

ブーツの下で、粉塵に埋もれた床材がぎし、と鳴る。

背後でガタが外へ出た。右前輪が一度だけ引っかかり、すぐに持ち直す。

『外、嫌です』

「知ってる」

『白いです』

「それも知ってる」

ノアの声がヘルメット内に響く。

『視界補正を開始します。正面二十一度、旧舗装面が残っています。左側は粉塵堆積が深いです』

「右は?」

『右側は外壁崩落片が多く、ガタの走行に不向きです』

『右、嫌です』

「お前の担当だな」

レンは端末を腕に固定したまま、前へ進んだ。

粉塵の中、拠点の外壁が長く続いている。ひび割れた白い装甲板。黒く焦げた継ぎ目。崩れかけた支柱。人がいた痕跡はない。風で削られた跡ばかりだ。

少し進むと、ノアが経路を表示した。

[EVA ROUTE STATUS]

――――――――――

外壁ハッチ:開放

粉塵濃度:許容上限内

保守棟経由:推奨

通信塔候補:目視可能域内

小型作業ローバー《ガタ》:同行

――――――――――

「目視可能域内?」

『粉塵が一時的に薄くなります。正面を確認してください』

レンは顔を上げた。

白い流れが一瞬だけ裂けた。

遠くに、細い影が見えた。

塔だった。

通信塔候補。地図上の点ではなく、実物の影。粉塵の向こうに、まっすぐ立っている。上部は霞んでいて見えない。途中で何かが折れているようにも見える。それでも、倒れてはいなかった。

レンは足を止めた。

ヘルメットの中で、自分の呼吸音が大きくなる。

「……立ってる」

『通信塔候補を目視確認。推定距離、現在地から一・八キロメートル』

『遠いです』

「知ってる」

『かなり遠いです』

「それも知ってる」

白い粉塵がまた流れ、塔の影は薄くなった。

でも、見えた。

見えただけで、進む理由が少し硬くなった。画面上の点ではない。あそこに何かが立っている。あそこまで行けば、視覚断片の経路に触れるかもしれない。通信塔が何を拾ったのか、なぜ緑の映像が混じったのか、少しは分かるかもしれない。

レンは足を動かした。

「保守棟まで、どれくらい」

『現在経路で四百二十メートル。粉塵堆積と路面損傷を考慮し、到達予測十二分』

「十二分で済むか?」

『ガタの苦情頻度により変動します』

『苦情ではありません。警告です』

「ほら、怒られた」

足元の旧舗装面は、ところどころ剥がれていた。白い粉の下に黒い金属が見える。踏むと鳴る場所と、沈む場所がある。ガタはそのたびに小さく止まり、嫌がった。

『左、沈みます』

「左は避ける」

『前方、細かい段差』

「見えてる」

『見えているなら、もっと丁寧に』

「うるさいな」

『警告です』

レンはガタの言う通り、少し歩幅を狭めた。

実際、そのほうが楽だった。粉塵の下にある段差は見えにくい。急ぐと足を取られる。外部スーツは重い。右腕も、長く歩くと肩に負荷がくる。

焦っても距離は縮まらない。

分かっている。

それでも、塔が見えたせいで足が勝手に前へ出そうになる。

ノアが静かに言った。

『レン。現在の速度で問題ありません。このまま進めば、保守棟経由で塔外縁ラインに接触できます』

「急ぐなって言いたいのか」

『違います。今の速度なら、目的地まで行けます』

「……言い方がうまくなったな」

『あなたが止められることを嫌うため、表現を調整しました』

『前方、嫌です』

「こっちは調整しないな」

粉塵が少し濃くなった。

ライトの輪郭が白く滲む。ヘルメットに当たる粒の音が増える。ささ、ではなく、しゃらしゃらと細かく連続する音になった。

『粉塵濃度上昇。右前方に崩落壁があります。風が巻いています』

「迂回は?」

『左へ三メートル。旧舗装面が途切れますが、ガタの走行は可能です』

『左、嫌です』

「可能なんだろ」

『可能と快適は違います』

「それはそう」

レンは左へずれた。

足元が少し沈む。ガタの車輪が粉を巻き上げる。右手でバランスを取り、左手で端末を押さえる。視界の端に、崩れた壁の影が流れていく。

白い。

全部、白い。

その中で、遠くの塔だけが黒く細く立っている。

ミオが見たとしたら、たぶん変な場所だと思うだろう。そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

レンは首を振った。

今は足元。

塔を見るのは、保守棟を越えてからでいい。

「ノア、保守棟の反応は」

『微弱ですが継続。外壁面の一部が露出しています。入口は半埋没の可能性が高いです』

「入れるか?」

『正面入口は不明です。側面点検口からのアクセスを推奨します』

『側面、嫌です』

「まだ見えてないだろ」

『予感です』

「また予感か」

その時、ガタが急に止まった。

右前輪が軽く沈み、車体が斜めになる。

『下、嫌です』

「粉が深いのか」

『違います。下、空です』

レンは足を止めた。

ノアの表示がすぐ切り替わる。

[GROUND SCAN]

――――――――――

足元構造:空洞反応

旧舗装面:薄化

地下配線溝:推定

荷重注意

推奨:右側へ迂回

――――――――――

「配線溝か」

『可能性が高いです。保守棟方向へ伸びています』

「踏み抜いたら?」

『転倒、脚部損傷、ガタの車輪落下が想定されます』

『下、かなり嫌です』

「それは俺も嫌だ」

レンはしゃがみ、粉塵を手で払った。手袋の先が白く汚れる。数センチ下に、細い金属の縁が出た。旧舗装の継ぎ目ではない。蓋だ。長い配線溝の蓋。端は歪み、ところどころ沈んでいる。

保守棟へ向かって、まっすぐ伸びていた。

「ノア」

『はい』

「これ、保守棟と塔をつないでる線か」

『推定一致率六四%。保守棟に近づけば確認できます』

「なら、踏み抜かないように辿ればいい」

『はい。安全距離を保てば、経路指標として利用できます』

『下、嫌です』

「嫌だけど役に立つな」

『不本意です』

レンは立ち上がった。

白い粉塵の中、足元の配線溝がかすかに線を作っている。遠くには通信塔。手前には半分埋もれた保守棟の影が、ようやく見え始めていた。

ただの白い外ではなくなった。

線がある。

塔へ向かう、古い線が足元にある。

レンは工具ベルトを締め直した。

「保守棟まで、この線を見ながら行く」

『了解。配線溝から一・二メートル以上の距離を維持してください』

『下、嫌です』

「分かってる。お前は下を見てろ」

『常に見ています。不快です』

ガタが低く鳴った。

レンは粉塵の向こうに見える保守棟へ向かって、一歩進んだ。