作品タイトル不明
第35話 保守棟の扉は、レンを知らない
次に外へ出る前に、レンは工具ベルトの位置を変えた。
前回、ハッチの縁で二度引っかかった左側の工具を、腰の後ろへ回す。小型カッターは胸側のホルダーへ移した。端子ケーブルは短く巻き直し、手動クランプは右腰へ。見た目は少し不格好になったが、通れる方が大事だった。
『装備配置を変更しました』
「知ってる。俺がやった」
『作業時の可動域が三パーセント改善されています』
「三パーか」
『ハッチ通過時の接触率は低下します』
「それならいい」
外部作業スーツを着込む。背中のタンクを固定し、胸部ユニットを閉じる。右腕の暫定補修シールは、前回のあと交換できなかった。代わりに上から補強テープを巻き、圧力試験だけは念入りにかけた。
[SUIT PRE-CHECK]
――――――――――
右腕シール:暫定補修継続
補強テープ:追加
酸素タンク:残量四十三分
補助バッテリー:残量六十一パーセント
携行品:端子ケーブル/手動クランプ/予備シール/粉塵フィルタ
――――――――――
「右腕、やっぱり暫定のままか」
『適合部品がありません』
「保守棟にあるといいな」
『可能性はあります』
「なかったら?」
『右腕を大事にしてください』
「ずっとしてる」
レンはヘルメットをかぶり、首元のリングを固定した。
かちり。
この音にも、少し慣れてきた。慣れたくはないが、最初よりは手が止まらない。
外壁ハッチへ向かう通路には、前回持ち込んだ砂がまだ少し残っていた。ノアが清掃ドローンの投入を提案したが、ドローンは三メートル動いたところで充電不足になった。今は壁際でおとなしく止まっている。役に立たないが、少しだけ場がにぎやかに見える。
『清掃ドローンは、次回充電後に再開します』
「三メートルで力尽きるやつを次回扱いにするな」
『稼働実績はあります』
「実績の基準が低い」
レンは外壁ハッチの前に立った。
前回と同じ半開きの幅。五十センチ。狭いことに変わりはない。だが、工具ベルトを直した分、少しはましなはずだった。
[OUTER HATCH STATUS]
――――――――――
外壁ハッチ:部分開放可能
開放幅:五十センチ
保持機構:注意
外部粉塵:中
帰還マーカー:有効
――――――――――
「開ける」
『外部活動を開始します。推奨活動時間は十五分以内です』
ハッチを開けると、白い粉塵が細く流れ込んだ。
レンは体を横にして隙間を抜けた。肩、胸部ユニット、背中のタンク。工具ベルトは、今回は引っかからなかった。最後に右足を出し、外側の砂を踏む。
ざり。
「通れた」
『装備配置変更の効果を確認しました』
「三パーを馬鹿にしないでおく」
外は前回と同じように白く霞んでいた。
粉塵の流れは少し弱い。空は見えない。外壁は背後に高く立ち、保守棟の方向には帰還時に固定した外部マーカーが残っている。バイザーの端に、目的地までの距離が出た。
百二十三メートル。
レンは歩き出した。
前回踏んだ足跡は、もうほとんど消えていた。粉塵が薄く積もり、白線もまた半分隠れている。外は、こちらの作業を覚えてくれない。いや、覚えているのは端末だけだ。地面はすぐに知らない顔をする。
「ノア、保守棟の入口診断、前回の続きからできるか」
『一時診断許可は失効している可能性があります。再申請が必要です』
「またやるのか」
『はい』
「向こうも融通が利かないな」
『旧式認証です』
「こっちも旧式スーツだぞ。仲よくしてほしい」
ノアは返事をしなかった。
保守棟が見えてきた。低い四角い建物。ひび割れた壁。半分落ちた庇。入口横の認証端末。
前回より、端末の光が弱い。
レンは足を速めた。
「端末、落ちかけてないか」
『低出力状態です。前回の外部給電が維持されていない可能性があります』
「ケーブル固定したよな」
『外部環境、粉塵、振動、接点劣化が考えられます』
「原因が多い」
レンは入口横の端末に近づいた。
赤い点は消えかけていた。点滅というより、思い出したように光っているだけだ。
[MAINTENANCE ANNEX]
――――――――――
入口端末:低出力
前回診断:期限切れ
外部給電:不安定
扉ロック:保持
認証状態:待機
――――――――――
「給電から確認か」
『推奨します』
レンは保守棟の裏手へ回った。
前回開けた給電ポートの蓋は、外したまま壁際に置いてある。ケーブルはつながっていたが、端子のランプは消えていた。砂が接続部に詰まり、ケーブルが少し浮いている。
「これか」
『接点不良です』
「外に置いておくと、すぐこうなるな」
レンはケーブルを抜き、端子を拭いた。布がすぐに白く汚れる。ポート側にも砂が詰まっている。小型ブラシを出し、奥をこする。ざりざりした音が手に伝わった。
右腕に負荷をかけないようにしていたが、細かい作業はどうしても右手を使う。補修シールのあたりが気になる。
『右腕負荷、軽微』
「先に言われると、余計気になる」
『安心材料として提示しました』
「まあ、ありがたい。たぶん」
レンはケーブルを差し直した。
かち。
今度はランプが緑に点いたまま残った。
[AUXILIARY POWER INPUT]
――――――――――
外部給電:再接続
接点状態:不安定
出力:低
入口端末:再起動可能
――――――――――
「不安定だけど、動く」
『はい。正面端末へ戻ってください』
正面へ戻ると、入口端末の赤い点が少し強くなっていた。
レンは端末の前に立つ。
「前回と同じ申請でいく」
『外部活動記録、目的、入口診断要求を送信します』
「所属は未確定」
『はい』
端末に手を近づける。
赤い点が黄色に変わった。
[IDENTIFICATION REQUEST]
――――――――――
作業員ID:未確認
所属:未確定
外部活動記録:提示
目的:保守設備確認
判定:保留
――――――――――
「保留までは早くなった」
『前回記録が一部残存している可能性があります』
「少しは覚えてるのか」
『記憶ではなく、一時ログです』
「同じようなもんだろ」
『違います』
「そこはこだわるんだな」
端末の奥で、短い電子音が鳴った。
ぴ。
前回よりはっきりしている。
バイザー内に認証要求が流れる。乱れた文字列。古い形式。ノアが補正するが、一部は読めないままだ。
『要求項目を確認します。外部活動記録、入口診断権限、所属施設コード、作業責任者署名』
「作業責任者?」
『上位作業員の承認と思われます』
「いない」
『はい』
「俺が責任者ってことで通せないか」
『現在の権限では困難です』
「だよな」
レンは扉を見た。
厚い扉。内部には作業棚らしきものがあると分かっている。中に入れれば、予備シールも、外部ハッチの部品も、通信塔へ行くための工具もあるかもしれない。
けれど、扉はレンを知らない。
知らないから開かない。
「ノア、入口診断だけじゃなく、緊急保守申請は?」
『可能です。ただし、虚偽申請と判定される危険があります』
「何が虚偽になる」
『重大故障、生命維持、周辺設備損傷などの条件が必要です』
「こっちは右腕から少しずつ死ぬスーツで来てるんだけど」
『スーツ故障は保守棟側の生命維持条件に該当しない可能性があります』
「冷たい施設だな」
『施設は判断基準に従っています』
レンは端末に顔を近づけた。
端末の外装は焼け、ひびが入っている。表面に小さな傷が無数にあった。過去にも、誰かがここで何かをしようとしたのかもしれない。工具の跡に見える傷もある。指でなぞると、古い焦げが手袋についた。
「この端末自体、壊れてるよな」
『はい』
「じゃあ、緊急保守対象は入口端末。目的は端末診断。中に入るんじゃなくて、入口端末の復旧」
『申請条件に合致する可能性があります』
「それでいこう」
『ただし、端末自身に端末故障を認めさせる必要があります』
「面倒くさいな、こいつ」
レンはケーブルを端末横の診断ポートへ接続した。
正面端末の下部に、小さなカバーがある。砂を払って開けると、細い差し込み口が出てきた。形は合う。だが、端子が曲がっている。
「曲がってる」
『接続角度に注意してください』
「手術みたいだな」
レンはケーブル先端をゆっくり差し込んだ。
入らない。
少し角度を変える。
まだ入らない。
端子を無理に押すと折れる。折れたら終わりだ。レンはケーブルを戻し、細いピンを取り出した。曲がった端子を少しだけ起こす。
力を入れすぎるな。
息を止める。
端子が、ほんの少し戻った。
ケーブルを差す。
かち。
「入った」
『診断接続を確認』
端末の黄色い点が白に変わった。
[LOCAL TERMINAL DIAGNOSTIC]
――――――――――
入口端末:外装損傷
認証回路:部分破損
記録領域:断片化
扉制御:接続維持
自己診断:未完了
――――――――――
「自己診断、未完了」
『故障状態を自認できていません』
「自分が壊れてることに気づいてない」
『表現としては近似です』
「人間にもいるな、そういうの」
ノアは返事をしなかった。
レンは診断メニューを見た。選択肢が古い。文字が欠けている。ノアの補正がなければ読めない。だが、ひとつだけ使えそうな項目があった。
外部診断補助。
「これ、外から自己診断を走らせられるか」
『可能です。ただし、端末の応答が停止する可能性があります』
「停止したら?」
『扉制御も停止する可能性があります』
「開かなくなる?」
『はい』
「今も開いてない」
『さらに開かなくなります』
「嫌な強化だ」
レンは残り時間を見た。
十一分。
ここで撤退しても、次回また同じところからだ。端末がいつまで応答するかも分からない。給電も不安定。粉塵も入る。
やるしかない。
「外部診断補助、走らせる」
『確認します。実行しますか』
「実行」
端末の白い光が細くなった。
低い音が、扉の奥から響く。
ぶん。
前回より長い。何かが回り、すぐ止まり、また回る。保守棟の壁の中を、古い電流が探るように走っている。
[DIAGNOSTIC ASSIST]
――――――――――
認証回路:破損
記録領域:破損
扉制御:生存
内部センサー:部分生存
外部診断補助:受付
――――――――――
「受付」
『端末は外部診断補助を受け入れました』
「じゃあ、俺は何になる」
『未登録診断補助者です』
「肩書きが弱い」
『現在取得可能な最も安全な分類です』
「弱いけど安全ならいい」
端末に新しい表示が出た。
[TEMPORARY ROLE]
――――――――――
分類:未登録診断補助者
許可:入口端末診断
禁止:内部進入/扉強制開放/管理記録改変
有効時間:六分
――――――――――
「六分か」
『時間制限があります』
「やることは?」
『認証回路の破損箇所を切り離し、入口端末を限定応答状態へ移行させます』
「それで扉は?」
『開く可能性があります。ただし、内部進入許可は別です』
「扉だけ開いて入れないってこともある?」
『はい』
「融通が利かない」
レンは端末横の小さなパネルを開けた。
中は細い回路と古い端子で詰まっている。焼けた箇所がある。粉塵も入り込んでいた。ノアがバイザー上に補助線を表示する。
切り離す線は三本。
触ってはいけない線は、たぶん五本。
「たぶん五本って顔してるな」
『実際には七本です』
「増えた」
『正確性を優先しました』
「ありがとうよ」
レンは細いプラグを外した。
一つ目。抜けた。
二つ目。固い。揺らしながら抜く。指が滑る。手袋が邪魔だ。だが、素手では外にいられない。
三つ目。
途中で引っかかった。
「これ、抜けない」
『斜めに負荷がかかっています。右へ二ミリ』
「二ミリって言うな。分かんないから」
『少し右です』
「それでいい」
少し右へ倒す。
抜けた。
端末の白い点が一瞬消える。
「消えたぞ」
『待機してください』
一秒。
二秒。
白い点が戻った。
レンは肩の力を抜いた。
「脅かすな」
『私は脅かしていません』
「機械に言ってる」
次は焼けた回路の迂回だ。ノアの補助線が、細い短絡ケーブルの位置を示す。レンは予備の端子ケーブルを切り、短い橋を作った。
手元が震える。
怖いからではない。たぶん。姿勢が悪い。酸素残量が気になる。時間も減っている。そういうことにしておく。
『レン、心拍が上昇しています』
「今は言わなくていい」
『了解』
ケーブルを差す。
片側が入った。
もう片側。
入らない。
端子が曲がっている。
「またか」
レンは小さく息を吐いた。
ピンで端子を起こす。さっきより指が雑になっている。急ぐな。急ぐと折る。折ると終わり。
押し込む。
かち。
入った。
[TERMINAL BYPASS]
――――――――――
認証回路:破損部切離
診断補助線:接続
入口端末:限定応答へ移行
扉制御:再照合中
――――――――――
扉の奥で、重い音がした。
ごん。
次に、低い金属音。
が、がが。
扉が開こうとしている。
だが、途中で止まった。
「止まった」
『下部レールに障害物。砂と小石です』
「そこかよ」
レンは扉の下を見た。
細かい砂と石が、レールの隙間に詰まっている。前回から見えていた。見えていたが、扉制御が動くまで問題にならなかった。
「手でかき出す」
『注意。扉が再動作する可能性があります』
「勝手に閉まったら?」
『挟まれます』
「説明が簡潔で助かる」
レンは扉制御を一時停止にして、下部レールの砂をかき出した。
手袋の指先が白く汚れる。小石がいくつも出てくる。ひとつだけ妙に大きい破片が挟まっていた。金属片だ。レンはそれを引き抜こうとして、滑らせた。
「くそ」
小さく漏れた。
もう一度つかむ。今度は手動クランプで挟む。引く。
抜けない。
レールの下で噛んでいる。
「ノア、これ抜けない」
『角度を変えてください』
「右?」
『左です』
「さっきは右だった」
『今回は左です』
「はいはい」
左に少し倒して引く。
抜けた。
金属片が外れ、レールの隙間が見えた。レンは残りの砂を払った。
「再動作」
『扉制御を再開します』
保守棟の扉が、また動いた。
がが。
重い音。
途中でまた止まりかける。
レンは反射的に扉の横へ体重をかけた。押してもほとんど意味はない。それでも押した。
『レン、扉を手で押しても効果は限定的です』
「気分の問題だ」
扉が、さらに数センチ動いた。
黒い隙間が開く。
中から、冷えた空気が少しだけ漏れた。
匂いはヘルメット越しで分からない。でも、バイザーの湿度表示が微かに変わった。
[ANNEX DOOR STATUS]
――――――――――
扉:部分開放
開放幅:十八センチ
内部空気:不明
構造安定:未確認
進入許可:未取得
――――――――――
「十八センチ」
『人員通過不可です』
「分かってる。でも開いた」
レンは扉の隙間を見た。
暗い内部。入口区画の床。落ちた棚。壁に残る工具ホルダー。奥にかすかなランプ。ほんの少しだけ、保守棟の中が見えていた。
その瞬間、端末が短く鳴った。
ぴ、ぴ、ぴ。
[ACCESS LIMIT]
――――――――――
未登録診断補助者
有効時間:一分
進入許可:なし
扉状態:部分開放保持
次回申請:可能
――――――――――
「一分」
『撤収を推奨します』
「ここまで来てか」
『進入許可はありません』
「隙間から中を見るだけ」
『三十秒以内を推奨します』
レンは携帯ライトを隙間へ向けた。
白い光が内部をなぞる。床に散らばる小型ケース。壁の工具ラック。奥の棚に、丸い部品が並んでいる。シールリングに似ている。
右腕の補修部が、少しだけ意識に戻った。
「あれ、シール部品か?」
『画像不鮮明。可能性があります』
「次は取る」
『進入準備が必要です』
「分かってる」
レンは一歩下がった。
保守棟の扉は十八センチだけ開いている。人間は通れない。だが、中は見えた。部品もありそうだ。
扉はレンを完全には知らない。
でも、少しだけ、相手をした。
「ノア、扉状態を保持できるか」
『現在の開放幅を保持できます。ただし、外部給電が途切れた場合、閉鎖またはロックする可能性があります』
「ケーブル固定を増やす」
『推奨します』
レンは給電ケーブルを追加クランプで固定した。粉塵よけに布を巻き、上からテープで止める。雑だ。だが、ないよりはましだ。
『固定状態、簡易』
「簡易でいい。次まで持てば」
『保証はできません』
「分かってる」
右上の時間表示が黄色から赤へ変わりかけていた。
『レン、帰還してください』
「了解」
レンは端末に手を置いた。
認証端末の白い点が、弱く瞬いている。さっきまで拒むだけだった機械が、今はかろうじて応答している。
「次、また来る」
『端末に発話しても記録される保証はありません』
「俺用だよ」
レンは外壁ハッチへ向かって歩き出した。
粉塵の中で、帰還マーカーが浮かんでいる。背後には、十八センチだけ開いた保守棟の扉。
たった十八センチ。
でも、閉じた扉ではなくなった。