作品タイトル不明
第34話 埋もれた標識は、保守棟を指していた
帰り道は、行きより長く感じた。
レンは帰還マーカーだけを見て歩いた。白い粉塵の向こうに、外壁ハッチの位置が浮かんでいる。数字は少しずつ減っている。百二十二メートル、百十六メートル、百九メートル。
ただ戻るだけのはずなのに、足が重い。
背中のタンクが肩に食い込む。右腕の補修シールは安定している。それでも、歩くたびに意識がそこへ戻る。外の砂は靴底にまとわりつき、硬い舗装材の上でざり、ざり、と鳴った。
「ノア、酸素」
『残量三十六分。推奨帰還時間内です』
「バッテリー」
『残量五十二パーセント』
「右腕」
『気密維持』
「帰れるな」
『現時点では』
レンは少し笑った。
「そこは、はい、でいい」
『はい。帰還可能です』
外壁ハッチの影が見えてきた。半開きの扉。灰色の壁。人間ひとりがどうにか通れるだけの隙間。
戻る場所が見えると、少しだけ息が楽になった。
だが、足元の白線が途中で途切れていることにも気づいた。さっき通った時は、保守棟に気を取られていた。白線は外壁ハッチと保守棟のあいだだけではない。ハッチの横から、別方向にも細く伸びている。
砂に埋もれかけた分岐。
レンは足を止めた。
「ノア、あの線」
『誘導ラインの分岐を確認』
「保守棟とは別方向か」
『はい。外壁沿いに北東方向へ続いています』
「時間は?」
『帰還推奨を優先してください』
「つまり?」
『調査は推奨しません』
「見るだけ」
レンはハッチへ戻る前に、分岐線の始点へ近づいた。
誘導ラインはほとんど砂に隠れていた。細い金属帯が、ところどころ顔を出している。指で砂を払うと、白く劣化した塗装が見えた。矢印。消えかけているが、たしかに別の施設を示している。
その先に、倒れた小さな標識があった。
レンはしゃがみ込んだ。膝をつくと、スーツの関節がぎし、と鳴る。標識は半分地面に埋まり、表面は砂と傷で読めない。上から軽く叩くと、細かい砂が落ちた。
[BURied GUIDE SIGN]
――――――――――
標識状態:埋没
表面劣化:重度
矢印:残存
文字情報:一部読取可
――――――――――
「ノア、補正」
『画像補正を行います』
バイザー内で、標識の表面が強調された。ノイズが走る。文字は欠けていた。
読めたのは、短い断片だけ。
COMM。
「コム?」
『候補:COMMUNICATION』
「通信か」
『通信設備、通信塔、通信中継器の可能性があります』
「保守棟の次は、通信塔か」
レンは標識の先を見た。
粉塵の向こうに、細い影があった。遠い。保守棟よりずっと遠い。高く、傾いているように見える。
それは塔だった。
今は行けない。残り時間が足りない。視界も悪い。右腕のシールも暫定補修だ。分かっている。
でも、見えた。
「ノア、距離」
『推定三百八十から四百二十メートル』
「二百メートル超えてるな」
『はい。現在装備での到達は非推奨です』
「今日は行かない」
『賢明です』
レンは標識の砂をさらに払った。
通信塔を示す矢印。その下に、小さな別の記号があった。保守棟の標識にも似た記号。レンはそれを指でなぞった。
「これ、保守棟と同じ系統のマークか?」
『一致率七十二パーセント。外部施設群の共通管理標識と推定』
「つまり、保守棟と通信塔はつながってる」
『可能性が高いです』
「拠点も?」
『外壁ハッチ周辺の誘導ラインと接続しています』
「じゃあ、ここは単独じゃない」
レンはゆっくり立ち上がった。
背後に拠点。百メートルほど先に保守棟。さらに向こうに通信塔。線は途切れ、壊れ、砂に埋もれている。それでも、道筋だけは残っている。
死んだ場所ではない。
死にかけて、黙っている場所だ。
レンはそう思いかけて、首を振った。きれいに言いすぎた。今は詩を作っている場合ではない。
「戻る」
『帰還を開始してください』
レンは外壁ハッチへ向かった。
半開きの隙間まで戻ると、今度は入る方が面倒だった。外へ出た時と同じく、背中のタンクが邪魔になる。膝を曲げ、体を斜めにして、ハッチの縁をくぐる。
途中で工具ベルトがまた引っかかった。
「またか」
『左側です』
「知ってる。こいつ、今日ずっと邪魔だな」
レンは小型カッターを外して胸に抱えた。なんとか体をねじ込む。背中のタンクが縁をこする。ごつ、と鳴る。少しだけ冷や汗が出る。
肩が抜けた。
胸部ユニットが抜けた。
最後に足を引き込む。
拠点内の床に戻った瞬間、レンは壁に手をついた。
[RETURN CONFIRMATION]
――――――――――
帰還:確認
外部活動時間:十四分二十二秒
スーツ気密:維持
酸素残量:三十五分
外部取得情報:保守棟・通信標識・誘導ライン分岐
――――――――――
「戻った」
『帰還を確認しました』
「ハッチ、閉めるぞ」
『推奨します。外部粉塵流入が増加しています』
レンはハンドルを引いた。
外壁ハッチが重く動く。金属が床を震わせ、白い粉塵の光が細くなる。隙間が狭まり、外の白さが消えていく。
最後に、遠くの塔の影が見えた。
ほんの一瞬。
それから扉が閉じた。
がこん。
拠点内の送風音が戻ってくる。低く、一定で、人工的な音。さっきまで当たり前だった音が、急にありがたく聞こえた。
「外壁ハッチ閉鎖」
『内部圧力安定化を開始します』
「粉塵フィルタは?」
『稼働中。負荷が上昇しています』
「ごめん」
『謝罪は不要です。清掃が必要です』
「そっちか」
レンはヘルメットを外した。
空気が顔に当たる。拠点内の空気だ。少し機械臭い。だが、吸える。レンは思ったより深く息を吸ってしまい、少しむせた。
「けほっ」
『呼吸が乱れています』
「分かってる。空気があるって、いいなと思っただけ」
『外部活動後の反応として自然です』
「自然なら、いちいち言わなくていい」
『了解しました』
レンは整備室へ戻った。
スーツを脱ぐだけで、腕が疲れた。肩のロックを外し、胸部ユニットを開く。背中のタンクを降ろした瞬間、体が軽くなる。足元に落ちた砂が、床に小さな山を作った。
外の砂。
拠点内に持ち込んだ、外の証拠。
レンはそれを見て、少しだけ変な気分になった。
ノアが壁面端末に外部活動記録を表示する。
[EXTERNAL SURVEY SUMMARY]
――――――――――
外壁ハッチ:部分開放可能
外部保守棟:発見
入口端末:低出力応答
通信設備標識:発見
誘導ライン:複数分岐
次回推奨:保守棟入口診断・装備増強
――――――――――
「これ、地図にできるか」
『簡易外部マップを生成します』
端末上に、灰色の線が描かれた。
中央に拠点。外壁ハッチ。そこから保守棟へ伸びる誘導ライン。別方向に通信塔らしき標識。そして、まだ不明な分岐。
小さい。
だが、初めて外の形が見えた。
「思ったより、いろいろあるな」
『はい。拠点外に複数の旧文明設備が存在する可能性が高まりました』
「拠点だけじゃない」
『その通りです』
レンは椅子に腰を下ろした。
膝が少し笑っている。外で転びかけたせいか、ハッチで引っかかったせいか、ただ怖かったせいか。たぶん全部だ。
「ノア」
『はい』
「次は保守棟を開ける」
『準備が必要です。追加工具、粉塵対策、予備シール、補助バッテリーの携行を推奨します』
「あと、工具ベルトの位置を変える」
『有効です』
「肩幅は?」
『変更不能です』
「そこはもういい」
レンは目を閉じた。
白い粉塵。遠くの塔。赤い点。閉じた扉。戻る場所としてのハッチ。
外は、思ったより静かだった。
静かで、空っぽで、でも完全には死んでいなかった。
レンは目を開けた。
「次、扉を開けるぞ」
『了解しました。保守棟入口診断を次回優先タスクに設定します』
端末の簡易地図に、保守棟の位置が固定された。
拠点の外に、初めて目的地ができた。