作品タイトル不明
第32話 外壁のハッチは、半分だけ開く
レンは外壁ハッチの隙間に体を入れた。
背中のタンクが、すぐに縁へ当たった。ごつ、と鈍い音がヘルメットの内側まで響く。外へ出る前から引っかかっている。嫌な始まりだった。
「……狭い」
『開放幅は現在四十六センチです』
「五十センチ以内って言ったの、ノアだろ」
『はい。安全上の上限です』
「人間の肩幅も考えてほしい」
『設計上、標準外部作業員は通過可能です』
「俺が標準じゃないみたいに言うな」
レンは一度、体を戻した。
ハッチの向こうは白っぽく霞んでいる。粉塵がゆっくり流れ、光をぼかしていた。外の音はまだ聞こえない。スーツの内側で、自分の呼吸だけが近い。
半分だけ開いたハッチは、そこで止まっていた。厚い金属扉の下部に古い砂が噛み、支柱の固定具も途中で固着している。無理に押せば開くかもしれない。だが、全開に近づけば保持機構が落ちる可能性がある。
落ちたら、戻れない。
[HATCH CLEARANCE CHECK]
――――――――――
開放幅:四十六センチ
推奨上限:五十センチ
下部障害:砂・小石
支柱固定具:固着
保持機構:不安定
――――――――――
「四センチだけほしい」
『推奨上限内です。ただし、支柱固定具の固着解除が必要です』
「それ、外側?」
『内側からアクセス可能です』
「よかった」
レンはハッチ脇のカバーを外した。
ネジは錆びていた。一本目は回った。二本目は途中で噛んだ。三本目は頭が潰れかけている。レンは舌打ちしそうになり、やめた。ヘルメットの中で大きく聞こえるだけだ。
工具を差し直す。押しながら回す。金属が嫌な音を立てた。
ぎ、ぎ。
動いた。
「今の音、折れた?」
『ネジ山が削れました』
「折れてはない?」
『現時点では』
「現時点では、が怖いな」
カバーが外れると、中に手動支柱の解除レバーがあった。赤ではなく、黄色い小さなレバーだ。横に古い文字が掠れている。
LOCK ASSIST。
補助ロック。たぶん。
「ノア、これを解除すれば広がる?」
『支柱固定具を一段階解放できます。開放幅は約四センチ増加します』
「ちょうどだな」
『同時に、保持安定性が低下します』
「ちょうど嫌な情報もついてくる」
レンはレバーに手をかけた。
軽く押す。
動かない。
もう少し強く押す。
まだ動かない。
手首の角度が悪い。背中のタンクが邪魔で、体を正面に入れられない。レンは体を半分横にして、肩を壁に押しつけた。スーツの肩が擦れ、ぎり、と音がした。
『作業姿勢が不安定です』
「分かってる」
『転倒時、ハッチ縁に接触する可能性があります』
「分かってるって」
『警告を継続します』
「今は黙っててもらえると助かる」
『了解。必要時のみ警告します』
ヘルメット内が少し静かになった。
レンは息を吸い、黄色いレバーを押した。動かない。押す方向が違うのかもしれない。引く。少しだけ動いた。戻る。もう一度、引く。
がき、と固い手応えがあった。
「これ、固着してるだけだな」
レンは小型クランプをレバーの根元に噛ませた。無理に引くと折れる。少しずつ、支点を変えながら圧をかける。金属の古い抵抗が手に伝わった。
汗が背中を流れた。
スーツ内の空調が弱く唸る。
[SUIT STATUS]
――――――――――
内部温度:上昇
心拍:高
右腕シール:安定
活動可能時間:十四分二十秒
――――――――――
「十四分」
『作業時間の再計算が必要です』
「分かってる。まだ外に一歩も出てないのに」
レンはクランプを握り直した。
今度は体重をかける。ぐ、とレバーが沈んだ。支柱の奥で、何かが噛み合う音がした。そこで止まる。
あと少し。
レンは歯を食いしばった。
左手で壁を押さえ、右手でクランプを引く。肩のあたりが軋む。背中のタンクが壁に当たる。足元の砂が少し滑った。
まずい。
体が傾く。
『レン』
ノアの声が短く入った。
レンは反射的に膝を曲げ、壁に体を押しつけた。転びかけた勢いが、そのままレバーに乗る。
がこん。
黄色いレバーが落ちた。
ハッチの支柱が、一度だけ震えた。
ご、と重い音がして、扉が数センチだけ外へずれた。粉塵が細く舞う。白い光が、少し太くなる。
[HATCH CLEARANCE UPDATE]
――――――――――
開放幅:五十センチ
補助ロック:一段解除
保持機構:注意
通過:可能
――――――――――
「五十センチ」
『通過可能です。ただし、接触に注意してください』
「やっとか」
レンはクランプを外した。
腕が重い。まだ外へ出ていないのに、もう少し息が上がっている。ヘルメットの内側で吐息が白く曇るわけではない。だが、視界の端が少し湿ったように感じた。
レンはハッチの隙間に横向きで入った。
まず左肩。次に胸部ユニット。背中のタンクを壁から逃がし、工具ベルトを手で押さえる。金具がハッチの縁に当たった。
かち。
音が大きい。
止まる。
「引っかかった」
『工具ベルト左側です』
「見えてる」
『一度戻りますか』
「戻ると心が折れそう」
レンは工具ベルトの位置をずらした。小型カッターが邪魔になっている。片手で外し、胸に抱える。もう一度、体を滑り込ませる。
ハッチの内側の金属が、スーツの胸を擦った。
ぎり。
嫌な音だった。
『スーツ外装に擦過』
「穴は?」
『現時点で気密低下なし』
「その言い方、今日は多いな」
『外部活動中は状態変化が多いためです』
「正しいけど嫌だ」
レンは肩を抜いた。
次に背中のタンク。ここが一番怖い。タンクが縁に引っかかれば、体を戻すしかない。無理に引けば接続が痛む。
レンは体を斜めにした。腰をひねる。足元が外側へ出る。靴底が、拠点の床ではない場所に触れた。
ざり。
砂だった。
レンの動きが止まる。
外の地面だ。
その感触が、靴底越しに伝わった。柔らかくはない。だが、完全な金属床でもない。細かい砂と砕けた何かが混じっている。
レンはもう片足を外へ出した。
体がハッチの外側へ抜ける。
背中のタンクが最後に縁をこすった。
ごつ。
引っかかった。
「……嘘だろ」
『背面タンク下部がハッチ縁に接触しています』
「接触じゃなくて、引っかかってる」
『表現を修正します。引っかかっています』
「修正しなくていい」
レンは息を吐いた。
外に半分出ている。戻るのも進むのも、どちらも面倒な姿勢だった。左足は外、右足も外。上半身も外。背中のタンクだけが、ハッチの縁に嫌な角度で引っかかっている。
腕を伸ばしても、タンクの下部には届きにくい。
「ノア、タンクの固定を緩めたら抜けるか?」
『推奨しません。固定を緩めた状態で転倒した場合、供給ラインに負荷がかかります』
「じゃあ?」
『姿勢を下げてください。タンク下部の接触点がずれます』
「しゃがめって?」
『はい』
レンはハッチの縁に手をついた。
外側の金属は、ざらついていた。砂が付着している。手袋の表面が白く汚れる。
膝を曲げる。
背中のタンクが少し下がる。
まだ引っかかる。
さらに下げる。
スーツが重い。工具ベルトが太ももに当たる。胸部ユニットが腹を圧迫する。息が浅くなる。
『レン、姿勢維持時間に注意』
「今、言うな」
『必要時のみ警告しています』
「必要なのは分かるけどさ」
レンはもう少しだけ膝を曲げた。
背中のタンクが、縁から外れる。
すこん、と軽い音がした。
勢い余って、レンは一歩前に出た。靴底が砂を踏む。体が少し傾く。右手を伸ばして、外壁に触れた。
止まった。
外に出た。
[EXTERNAL ACTIVITY START]
――――――――――
位置:外壁直近
スーツ気密:維持
酸素残量:三十九分
推奨帰還:十四分以内
通信:近距離安定
――――――――――
レンはしばらく動かなかった。
外だった。
空は見えない。白っぽい粉塵が視界を覆っている。光は拡散して、どこから来ているのか分かりにくい。地面は灰色で、細かい砂と割れた舗装材のようなものが混じっていた。
風がある。
低い風だ。音はヘルメット越しにほとんど聞こえない。それでも、粉塵が横へ流れているのが分かった。
「ノア」
『はい』
「外だ」
『外部活動開始を記録しました』
「そういうことじゃなくて」
『はい』
「……いや、いい」
レンは一歩だけ進んだ。
ざり。
足元の砂が鳴る。
もう一歩。
外壁から離れると、拠点の大きさが少し分かった。背後にある壁は高く、灰色で、ところどころが傷んでいる。人間用の入口というより、巨大な機械の腹に開いた傷に見えた。
半開きのハッチが、そこにある。
戻る場所。
レンは振り返り、ハッチの位置を確認した。白い粉塵の中でも見失わないように、バイザー内にマーカーが出る。
[RETURN MARKER]
――――――――――
帰還地点:外壁ハッチ
距離:三メートル
視認補助:有効
――――――――――
「マーカー、固定しておいて」
『固定済みです』
「消えたら困る」
『通信が途絶しても、スーツ側に表示を保持します』
レンはうなずき、周囲を見た。
壊れた誘導灯が地面に半分埋もれている。細いポールの先に、割れたライト。そこから先へ、かすれた白線が伸びていた。ほとんど砂に埋もれているが、たしかに人工物の線だった。
線の向こうに、影がある。
遠い。塔ではない。もっと低い。建物の角か、外部設備の箱か。
「ノア、あれ見えるか」
『視界不良。輪郭のみ確認』
「建物?」
『可能性があります。外部保守設備、または資材格納庫の一部と推定』
「近い?」
『距離、推定百二十メートル』
「二百メートル以内だな」
レンは行きかけて、止まった。
足元に黒いひびが走っている。舗装材が割れ、下が少し沈んでいた。見た目より深いかもしれない。
レンは携帯ライトを下へ向けた。光がひびの奥に吸われる。底は見えない。
「地盤が割れてる」
『迂回を推奨します』
「だよな」
レンはひびを避けて、白線沿いに進んだ。
三歩。
五歩。
十歩。
拠点の送風音は、もう聞こえない。代わりに、スーツの駆動音と自分の呼吸だけが残った。足音は砂に吸われる。たまに靴底が割れた舗装を踏んで、こつ、と硬い音を返す。
思ったより静かだった。
それが、気持ち悪かった。
レンはバイザーの表示を確認する。酸素、通信、帰還距離。数字はまだ安全域にある。だが、安全だとは思えない。
白線の先に、倒れた標識があった。
レンはしゃがみ込んだ。標識は半分砂に埋もれている。表面の文字は削れているが、矢印だけは残っていた。
矢印は、さっきの影の方向を指している。
「ノア、標識を読む」
『画像補正を行います』
バイザー内で、標識の文字が一瞬だけ強調された。
読めたのは、三文字だけだった。
MAI。
「メンテ……か?」
『候補:MAINTENANCE』
「保守棟」
レンは影を見た。
白っぽい粉塵の向こう。低く、四角いものがある。あれが保守棟なら、外に残っている部品があるかもしれない。スーツのシール、バッテリー、工具、ハッチの補修材。
外に出た意味がある。
「行くぞ」
『残り推奨活動時間、十二分四十秒』
「分かってる。標識までで終わる気はない」
レンは標識の砂を少し払った。
その下に、細い誘導ラインが続いていた。古い白線ではない。地面に埋め込まれた細い金属帯だ。ところどころ切れているが、保守棟らしき影へ向かっている。
[EXTERNAL GUIDE LINE]
――――――――――
誘導ライン:損傷
方向:保守設備候補
通電:なし
追跡:可能
――――――――――
「道案内は死んでるけど、線は残ってる」
『追跡可能です。ただし、足元の崩落に注意してください』
「了解」
レンは誘導ラインをたどり始めた。
外壁ハッチから二十メートル。
三十メートル。
背中のタンクが重い。右腕の補修シールが気になる。漏れていないと分かっていても、意識がそこに行く。
風が少し強くなった。
粉塵がバイザーに当たる。ぱら、ぱら、と細かい音がする。視界が一瞬だけ白く濁った。
「ノア、視界補正」
『補正します』
輪郭が少しだけ見えやすくなる。
影が近づいた。
それは建物だった。低い四角い建物。外壁はひび割れ、入口の上には半分落ちた庇がある。扉は閉じている。周囲には、倒れた小型コンテナと、折れたポールが散らばっていた。
レンは建物の前で立ち止まった。
入口横に、黒く焼けた認証端末がある。
完全に死んでいるように見えた。
「ノア」
『はい』
「保守棟で合ってるか」
『外壁表示を確認。保守棟の可能性が高いです』
「可能性じゃなくて、当たりであってほしいな」
『確認には内部アクセスが必要です』
「だよな」
レンは扉に近づいた。
手を伸ばす。
その瞬間、認証端末の奥で、小さく赤い点が灯った。
生きている。
[MAINTENANCE ANNEX]
――――――――――
入口端末:低出力
認証状態:待機
内部電源:不明
構造安定:不明
――――――――――
「反応した」
『認証を要求しています』
「こっちを知ってると思うか?」
『可能性は低いです』
「だよな」
レンは端末に手を近づけた。
赤い点が、ゆっくり点滅する。
拠点外で初めて見つけた生きている設備。
それは、歓迎しているようには見えなかった。