作品タイトル不明
第31話 外へ出る前に、空気を数える
外へ出る、と決めてから、レンはまず空気を数えた。
整備室の床に、外部作業用のスーツを広げる。胸部ユニット、背面タンク、腕部シール、脚部ロック、予備バッテリー。どれも古い。表面には細かい傷があり、肩のあたりは塗装が剥げていた。指でなぞると、ざらついた粉が手袋に残った。
天井の換気口からは、低い送風音が続いている。拠点内の空気は、もう吸える。けれど、外が同じとは限らない。
[EXTERNAL OPERATION CHECK]
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外部作業スーツ:旧式
気密:要確認
酸素タンク:残量四十二分
補助バッテリー:残量五十八分
外部環境データ:最終更新不明
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「四十二分か」
『推奨外部活動時間は二十分以内です。往復時間、ハッチ操作、予備停止時間を含める場合、実作業可能時間は八分から十二分と推定されます』
「短いな」
『外部環境データが不完全です。余裕を持たない活動は推奨できません』
ノアの声はいつも通り平坦だった。だが、いつもより言葉が少しだけ硬い気がした。
レンはスーツの胸部ユニットを持ち上げた。重い。腕にずしりとくる。内側の接続端子には薄く錆が浮いていた。ここで不具合を起こせば、外で直すことになる。外で、酸素を減らしながら。
それは嫌だ。
レンは端子を布で拭き、接点を確認した。工具を握る指に力が入る。カチ、カチ、と小さな音を立てて、胸部ユニットのカバーを外す。
「ノア、気密試験」
『開始します。胸部シール、腕部シール、脚部シールを順に加圧』
スーツの内側で、ぷしゅ、と短く空気が鳴った。
レンは耳を近づける。右腕の接合部から、かすかな漏れ音がした。細い。聞き逃しそうな音だ。
「右腕、漏れてる」
『圧力低下を検出。微小漏洩です。外部活動には不適合です』
「不適合って言い方、やめてくれ。今、それしかない」
『表現を変更します。現状で外に出た場合、右腕から少しずつ死にます』
「変更しなくてよかった」
レンは眉間を押さえた。
少し笑いそうになったが、すぐに手を動かした。右腕のシール材を外す。劣化している。指で押すと、弾力が足りない。予備部品の棚を開けたが、同じ型番はなかった。
棚の奥に、サイズの近いシールリングが三つ。どれも違う。
「これ、合うか?」
『規格が一致しません。加工すれば、一時的な密閉は可能です』
「一時的でいい。二十分もてばいい」
『推奨しません』
「推奨しないのは分かった。代案は?」
『外部活動を延期し、適合部品を探索することです』
レンは棚の空を見た。
「その適合部品を探しに、外へ出るんだろ」
『その通りです』
「じゃあ、推奨しない作業で推奨する部品を取りに行く。最悪だな」
『表現としては、おおむね正確です』
レンはサイズ違いのシールリングを作業台に置き、余分な縁を切った。カッターの刃が古い樹脂を削る。きゅ、と嫌な音がした。削りすぎれば使えない。足りなければ漏れる。
途中で一度、細く切りすぎた。
「あ」
『破損しました』
「見れば分かる」
『残り二個です』
「数えなくていい」
レンは失敗したリングを横に捨てた。こういう時、ノアは容赦なく事実を言う。助かることもある。腹が立つこともある。
二個目は少し太めに残して削った。右腕の接合部にはめる。きつい。無理に押し込むと歪む。レンは手袋を外し、素手で縁を押した。樹脂の冷たさが指に移る。
じわじわ押して、最後に親指で押し込む。
ぱちん。
「入った」
『再加圧します』
スーツが短く鳴る。
レンは右腕の接合部に耳を近づけた。今度は漏れ音がない。圧力表示がゆっくり安定する。
[SUIT SEAL TEST]
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胸部:正常
左腕:正常
右腕:暫定補修
脚部:正常
推奨活動時間:十五分以内
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「二十分から十五分になった」
『暫定補修のため、安全率を下げました』
「まあ、死ぬよりいい」
『比較対象としては適切です』
レンはスーツを着込んだ。
内側は冷えていた。背中のタンクを固定すると、体が少し後ろへ引かれる。胸部ユニットのバックルを閉じ、腕部ロックをかける。首元のリングが締まり、呼吸音が内側で大きく聞こえた。
自分の息が、近い。
この音を聞きながら外へ出るのかと思うと、口の中が乾いた。
ノアが表示を切り替えた。
[EXTERNAL ROUTE PLAN]
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目的:外壁ハッチ周辺確認
最大距離:二百メートル以内
帰還猶予:七分
優先事項:外部標識・保守設備・通信設備の確認
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「二百メートル」
『現時点で推奨できる最大距離です』
「外に何があるか分からないのに、二百メートルは分かるんだな」
『帰還可能距離から逆算しています。外部の安全性を保証するものではありません』
「分かってる」
レンはヘルメットを持った。
透明バイザーには細かい傷がある。視界が少しにじむ。予備はない。磨いても消えない傷を、布で何度も拭いた。
手が止まった。
ここから先は、拠点の内側ではない。空気が戻った。水もある。眠る場所も作った。端末も動く。ようやく、最低限ここで生きられるようになった。でも、それだけでは詰む。
外部の部品がいる。通信がいる。周辺設備の状態を知らないと、この拠点がいつまで持つか分からない。
レンはヘルメットをかぶった。
首元のリングがロックされる。
かちり。
音がやけに大きく聞こえた。
『レン、心拍が上昇しています』
「そりゃ上がる」
『外部活動を中止しますか』
「しない」
『理由を確認してもよいですか』
レンは少し黙った。
理由。そんなものは、もう何度も考えた。怖いから行かない、で済むならそうしたい。外が安全になるまで待てるなら、待ちたい。けれど、待っていたら拠点内の部品が先に尽きる。消耗品は増えない。壊れたものは勝手に直らない。
それに、ここが何なのか、まだ分かっていない。
「中にいても、じりじり減るだけだからだよ」
『酸素、部品、電力、食料、すべてに消耗傾向があります』
「そういう言い方されると、行きたくなくなるな」
『では、別の表現を用います』
「いや、いい。だいたい分かった」
レンは工具ベルトを締めた。小型カッター、端子ケーブル、携帯ライト、手動クランプ、予備シール。全部が少し重い。歩けば鳴る。これで走れる気はしない。
整備室の出口へ向かうと、ノアが壁面端末に外壁ハッチまでのルートを表示した。白い線が、拠点内通路を通って外壁区画まで伸びる。
「ノア」
『はい』
「外で通信が切れたら?」
『スーツ内蔵記録は継続します。帰還後に同期可能です』
「帰還できなかったら?」
『記録は残ります』
「俺は残らないだろ」
『……帰還を最優先してください』
返答まで、ほんの少し間があった。
レンは端末を見た。
「今、迷った?」
『適切な応答を選択しました』
「そうか」
『はい』
レンはそれ以上聞かなかった。
外壁区画へ向かう通路は、まだ薄暗い。復旧した照明が等間隔で光っている。床には古い砂がたまっていた。外から入り込んだものだろう。靴底がざり、と鳴る。
外壁ハッチの前に立つ。
巨大な円形扉だった。表面の塗装は剥げ、警告表示は半分読めない。中央には手動解除用のハンドルがある。かなり重そうだった。
[OUTER HATCH STATUS]
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外壁ハッチ:閉鎖
油圧:低下
手動解除:可能
外部圧力:不安定
開放推奨:部分開放
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「部分開放」
『全開放時、ハッチ固定機構が保持できない可能性があります』
「半分だけ開けろってことか」
『はい。人員一名の通過には十分です』
「人員一名、ね」
レンはハンドルに手をかけた。
金属越しに冷たさが伝わる。手袋をしていても分かる。肩に力を入れ、少しだけ回そうとした。
動かない。
「固い」
『油圧補助が不足しています』
「知ってる」
レンは足を開き、体重をかけた。ハンドルは鈍くきしんだだけで、まだ回らない。腕に負荷がかかる。背中のタンクが壁に当たり、鈍い音を立てた。
「外へ出る前に、ここで疲れるのやめたいんだけどな」
『作業姿勢を修正してください。背面タンクが干渉しています』
「先に言って」
『現在、言いました』
「便利な返事だな」
レンは立ち位置をずらした。
もう一度、ハンドルを握る。息を吸う。吐く。体重をかける。
ぎ、ぎぎ。
今度は少し動いた。
ハッチの奥で、古いロックが外れる音がした。
がこん。
レンの背筋がこわばる。
外壁ハッチの縁から、細い砂が落ちた。向こう側からではない。扉の隙間に詰まっていた古い砂だ。足元にさらさら積もる。
『一次ロック解除を確認』
「次は?」
『二次ロック。手動解除が必要です』
「まだあるのか」
『あります』
「だよな」
レンはハンドルの横にある赤いレバーを見た。塗装がほとんど剥げている。指をかけると、レバーの根元が少しぐらついた。
嫌な感じがした。
「これ、折れない?」
『折れる可能性があります』
「即答すんな」
『慎重に操作してください』
レンはレバーを握り直した。
慎重に。でも、弱すぎると動かない。体重を少しだけ乗せる。レバーは動かない。さらに力を入れる。金属がきしむ。背中に汗が浮いた。スーツ内の空調がそれを冷やす。
『レン、残り活動準備時間が予定を超過しています』
「分かってる」
『外部活動時間を短縮します』
「分かってるって」
レンは奥歯を噛んだ。
レバーを引く。途中で止まる。もう少し。手首に力を入れる。
「動け」
小さく漏れた声は、自分でも思ったより低かった。
レバーが落ちた。
がこん。
外壁ハッチの奥で、空気が一度だけ鳴った。
ぷしゅう、と細い音がして、扉の隙間から白い粉塵が流れ込んできた。レンは反射的に一歩下がる。バイザー越しに、淡い光が見えた。
外の光だった。
[HATCH PARTIAL OPEN]
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一次ロック:解除
二次ロック:解除
開放幅:制限中
外部側圧力:不安定
粉塵流入:検出
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『外部側圧力、不安定。粉塵流入。部分開放を維持』
「ハッチ、開けるぞ」
『開放幅は五十センチ以内に制限してください』
「人が通れるぎりぎりだな」
『はい』
レンはハンドルを押した。
外壁ハッチが、ゆっくり動く。重い金属が床を震わせた。奥から、外の空気が入り込む。匂いは分からない。ヘルメット越しだからだ。それでも、何か古いものが動いたような気配だけはあった。
隙間が広がる。光が太くなる。粉塵が舞う。
レンはバイザーの向こうを見た。
外は、白っぽく霞んでいた。
何もないように見えた。
でも、遠くに何かの影が立っている。
レンはハンドルから手を離した。手のひらが少し震えていた。工具ベルトの金具が、かち、と鳴る。
「ノア」
『はい』
「外へ出る」
『帰還時間を設定します。十五分以内に戻ってください』
「了解」
レンは半開きのハッチの前に立った。
拠点内の送風音が背中から聞こえる。
外からは、何も聞こえない。
レンは一度だけ足元を見て、ハッチの隙間へ体を入れた。