軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

CROSSOVER episode.3 MIO:言えなかったこと

外周中継線の残滓反射は、いつもの赤い点とは違っていた。赤ではなかった。白でもない。端末の端に、薄い灰色の線が一瞬だけ走り、すぐに消えた。ノアは反射だと言った。通信ではない。返事ではない。MIOから届いたものではない。分かっている。レンは、だいぶマシ室の作業台に手を置いた。削りかけの金属片が、ランプの下で鈍く光っている。砂除去具をもう一つ作る途中だった。次に中継部へ向かうなら、足場を固める道具がいる。砂を抜く道具もいる。安全索も追加照明も足りない。やることは、目の前にある。それなのに、端末の下に残った三文字から目が離れなかった。

MIO。

『レン。作業を中断しますか』

「しない」

『集中状態が低下しています』

「知ってる」

『中断を推奨します』

「中断したら、見る」

『MIOログですか』

「そうだよ」

ノアはすぐに返事をしなかった。その沈黙が、少しだけ人間っぽくて、余計に嫌だった。レンは端末に指を伸ばした。押すつもりはなかった。少なくとも、自分ではそう思っていた。だが、指先は画面の近くで止まり、MIOの文字の上をなぞるように動いた。触れる前に、ノアが言った。

『相互観測残滓に、記憶領域への干渉があります』

「記憶?」

『はい。現代世界由来と思われる記憶断片が、再活性化しています』

「ミオのか」

『あなたの記憶です』

「……俺の」

端末の灰色の線が、もう一度だけ走った。だいぶマシ室の音が遠くなる。補助電源の唸りも、水処理ユニットの振動も、車庫でガタが鳴らす小さな電子音も、全部が薄くなった。代わりに、別の音がした。蛍光灯の低い音。キーボードを叩く音。誰かが、軽く笑う声。

レンは瞬きをした。そこは、会議室だった。

白い机。白い壁。白い照明。窓の外は夜で、ビルの明かりが細かく並んでいる。プロジェクターには、障害対応の一覧が表示されていた。赤い行が三つ。黄色い行が七つ。誰かが作った資料は、きれいにまとまっているように見えて、肝心なところだけ抜けている。

「これ、黒瀬さんなら見れば分かりますよね」

声は軽かった。悪意を隠すほどの重さもなかった。だから、かえって逃げ場がなかった。レンが断れば、空気が悪くなる。引き受ければ、またそうなる。ログの時刻。通知の順番。設定変更の履歴。原因は、たぶん別チームの反映漏れだ。だが、その別チームの名前は資料に出ていない。会議室にいる誰も、その話をしたがらない。

「黒瀬さん、前にも似たの直してましたよね」

「まあ、似たようなのは」

「じゃあ、お願いします。明日の朝までに一次対応だけでも」

一次対応だけ。その言葉は、便利だった。一次対応だけと言って投げられたものは、だいたい最後まで戻ってこない。一次対応で止血して、二次対応の資料を書いて、恒久対応の案を出して、レビューで誰かに削られて、最後の報告では「チームで対応」と書かれる。レンはそれを知っていた。知っていて、うなずいた。

「分かりました。ログ見ます」

自分の声が、ひどく普通に聞こえた。普通に出せたことに、少しだけ安心した。まだいける。まだ普通に返せる。そう思った時点で、普通ではなかったのだと、今なら分かる。

会議が終わる。人が出ていく。誰かが「助かります」と言った。誰かが「黒瀬さんいると早いですね」と言った。誰かが「自分、別件あるんで」と言った。レンは席に残った。画面のログを開く。赤い文字が並ぶ。原因は見える。直し方も見える。直したら動く。たぶん、朝までには間に合う。

直せる。

それが、いちばん厄介だった。直せないなら断れた。分からないなら逃げられた。だが、分かる。どこが壊れていて、どこを戻せばいいか、見えてしまう。見えたものを放っておくと、夜の間にもっと壊れる。レンはキーボードに手を置いた。手が少し冷えていた。

スマホが震えた。ミオからだった。

今日、来る?

ごはん作るけど、無理なら明日でも大丈夫。

レンは画面を見た。明日でも大丈夫。その言葉を見て、喉の奥が少し詰まった。大丈夫なのは、ミオの方ではない。無理なら明日でもいいと言っているだけだ。責めてもいない。急かしてもいない。それなのに、レンは一瞬だけ、責められたように感じた。違う。ミオは責めていない。責めているのは自分だ。

レンは返信を打った。

行く。ちょっと遅れる。

送信してから、少しだけ画面を見ていた。すぐに返事が来た。

了解。鍋にする。

理由は寒いから。

会議室は暖房が効いていた。寒くはない。でも、レンは小さく笑った。その笑いは、誰にも見られていなかった。

記憶が飛ぶ。次は、ミオの部屋だった。小さなテーブル。鍋。湯気。豆腐。白菜。鶏肉。端に置かれた缶の飲み物。テレビはついていない。ミオは台所とテーブルの間を行ったり来たりしている。レンは座っていた。鞄は壁際に置いた。コートも脱いだ。スマホはテーブルの端に伏せた。画面を下にすれば、通知は見えない。見えなければ、ないのと同じになる。そんなわけがない。伏せたスマホが、薄く震えた。木のテーブルを伝って、振動が鍋敷きの近くまで来る。

ミオの箸は止まらなかった。

止まらないことが、かえって痛かった。止めたらレンが気づく。気づいたレンが、また笑う。その笑い方を、ミオは見たくないのだろうと、レンには分かった。分かってしまった。

「豆腐、二丁は多くない?」

「今日は豆腐の日だから」

「そんな祝日あったか」

「今できた」

「雑だな」

「制定者権限です」

「権限強いな」

レンは笑った。笑えたと思った。ミオは鍋の火を少し弱めた。湯気がゆっくり上がる。白い湯気の向こうで、ミオの顔が少しぼやける。レンはそれで少し助かった。はっきり見えない方が、今は楽だった。

「仕事、まだ鳴ってる?」

「まあ、いつもの」

「そっか」

「うん。いつもの」

「じゃあ、いつものじゃないご飯にしといて正解だ」

「鍋に豆腐二丁入れたこと?」

「そう。特別対応」

「障害対応みたいに言うな」

「豆腐障害」

「豆腐は障害じゃないだろ」

「多すぎる豆腐は、たぶん軽微な障害」

「じゃあ食べて解消するしかないな」

ミオは豆腐をすくって、レンの器に入れた。多い。でも、文句は言わなかった。レンは、その豆腐を箸で割った。中まで熱い。口に入れると、少しだけ舌を焼いた。熱い、と言えばよかった。でも言わなかった。代わりに水を飲んだ。ミオは見ていた。レンは見られていることに気づいていた。ミオは、レンが気づいていることにも気づいていた。その上で、何も言わなかった。

レンは、それが一番きつかった。

聞かれたら、たぶんごまかした。強く聞かれたら、たぶん少し苛立った。心配されたら、たぶん笑った。どれも嫌だった。ミオは、その全部を避けてくれている。だから、レンは言えなかった。大丈夫じゃない。その一言を出した瞬間、会議室の白い照明も、投げられた障害票も、書き換えられた報告書も、自分の名前だけ抜けた資料も、全部この部屋に落ちる気がした。

ここだけは、落としたくなかった。

ミオの部屋は、直す場所ではなかった。壊れたものを持ち込む場所でもなかった。少なくとも、レンはそう思いたかった。でも、ミオは気づいていた。スマホの震えに。返事の遅れに。目元だけ一拍遅れる笑い方に。器を持つ手の冷たさに。気づいていて、普通にしていた。普通にすることが、こんなに難しいものだと、レンはその時初めて知った。

「レン」

「ん?」

「しめ、うどんと雑炊どっちがいい?」

「まだ豆腐が残ってる」

「豆腐は前座」

「二丁もある前座って何」

「強い前座」

「メインより強いやつだ」

「たまにいるでしょ」

「いるな」

レンはまた笑った。今度は少しだけ、ちゃんと笑えた。ミオも笑った。その笑顔を見て、レンはひどく安心した。安心して、同時に、少し苦しくなった。ここまで分かってくれる人に、自分は何も言わないのかと思った。

言えばいい。今日、しんどかった。ちょっと無理かもしれない。俺、たぶん大丈夫じゃない。それだけでいい。それだけなのに、言葉は喉の手前で止まった。止まった言葉は、熱い豆腐よりも飲み込みづらかった。

スマホが、また震えた。今度はミオも気づいた。気づいて、鍋のふたを取った。

「うどん入れるね」

「まだ決めてない」

「今決まった」

「制定者権限?」

「うん」

「強いな」

レンはスマホを見なかった。ミオも、見ろとは言わなかった。その夜、レンは結局、何も言わなかった。ミオも、何も聞かなかった。ただ、鍋は最後まで温かかった。

記憶の奥で、湯気が薄くなる。テーブルの木目が消える。ミオの部屋の明かりが遠ざかる。次に聞こえたのは、補助電源の低い唸りだった。

レンは、だいぶマシ室に戻っていた。作業台のランプが、削りかけの金属片を照らしている。端末の下には、MIOの三文字がまだ残っていた。通信は未成立。再接続は保留。条件は一部改善。レンはしばらく動けなかった。手が、作業台の端を握っている。強く握りすぎて、指が痛い。ミオの部屋では、あんなに言葉を止めたのに、今は止めた言葉だけがはっきり残っている。

大丈夫じゃなかった。

ミオは気づいていた。自分も、気づかれていることに気づいていた。それでも言わなかった。

『レン』

「……ああ」

『呼吸が乱れています』

「知ってる」

『作業を中断しますか』

「少しだけ」

レンは椅子代わりの保守ケースに座った。ガタが車庫で小さく鳴った。

『不満』

「今はやめろ」

『了解』

「分かるのか」

『声、嫌』

「そうか」

ガタは、それ以上鳴らなかった。ノアも、すぐには何も言わなかった。だいぶマシ室に、補助電源の音だけが残った。レンは端末を見た。MIO。たった三文字。でも、そこにはミオの部屋があった。湯気の向こうで気づかないふりをしていた顔があった。二丁の豆腐があった。うどんを勝手に入れる声があった。言えなかった言葉があった。

レンは、ようやく息を吐いた。

「ノア」

『はい』

「記録してくれ」

『内容を指定してください』

「再接続できたら、言うことがある」

『MIOに対してですか』

「そう」

『文面を記録しますか』

「いや。文面はまだいい」

『では、項目名を登録します』

「項目名?」

『未伝達事項』

「硬い」

『MIOへの未伝達事項』

「硬いって」

『では、言えなかったこと』

「……それでいい」

端末の表示が変わった。

[PERSONAL TASK]

――――――――――

対象:MIO

項目:言えなかったこと

状態:未達

条件:再接続成立後

――――――――――

レンはその表示を見て、目を閉じた。タスクにするな、と言いかけて、やめた。タスクでもいい。今の自分には、その方が逃げにくい。言えなかったことに名前がついた。名前がついたなら、いつか処理できる。そんな単純なものではないと分かっている。それでも、名前のないまま喉に詰まらせているよりは、ずっとましだった。

「ノア」

『はい』

「次に届いたら、たぶん言う」

『推奨します』

「たぶん、じゃだめか」

『人間の発話予定としては、妥当な表現です』

「そこは妙に優しいな」

『分類は未設定です』

レンは短く笑った。笑えた。少しだけ。

端末のMIO表示は、薄くなっていく。反射が終わる。通信は未成立のまま。ミオから返事が来たわけではない。何も届いてはいない。でも、レンの中では、何かが戻っていた。戻ったものは、痛かった。痛いまま、そこにあった。

「条件、もう一回出して」

『表示します』

[RECONNECT REQUIREMENTS]

――――――――――

観測語:MIO

通信:未成立

通信中継部修復:未達/候補発見

外部センサー安定:一部進行

補助電源増設:未達

拠点管理ノード負荷低減:一部進行

個人項目:言えなかったこと

再接続:保留

――――――――――

「個人項目まで出すな」

『関連条件ではありませんが、関連目的です』

「目的」

『はい』

「……そうだな」

レンは立ち上がった。膝が少し重い。だが、手は動く。作業台の上の金属片を取り、削りかけの砂除去具を持ち直す。次に中継部へ行く。足場を固める。砂を抜く。補助電源を確認する。旧ログを読む。地下管路側の信号を見る。基幹側候補へ近づく。全部、MIOへ届くための条件だ。

そして、届いたら言う。大丈夫じゃなかった。気づいてたよな。待たせた。たぶん、それだけでは足りない。でも、最初の一言にはなる。

レンは金属片に力をかけた。曲がった板が、少しずつ形を変える。こり、と音が鳴る。補助電源が唸る。水処理ユニットが低く振動する。ノアの端末が静かに光る。車庫から、ガタが遠慮がちに鳴った。

『行く準備』

「そう。行く準備」

『待つの、嫌』

「俺もだよ」

『でも、戻る』

「戻る。今度は、ちゃんと戻る」

ガタの前面ランプが、車庫の奥で小さくまたたいた。

『だいぶマシ』

「お前までそれか」

レンは笑った。今度は、ミオの部屋で止めた笑いではなかった。だいぶマシ室の作業台の上で、金属片がゆっくり形を変えていく。言えなかったことは、まだ言えていない。けれど、もう名前はついている。レンは端末のMIO表示が消えたあとも、しばらくその場所を見ていた。

そして、作業に戻った。