作品タイトル不明
父の選んだ線
北部方面——旧領主館。
静かだった。静かである事そのものが、決して平穏を意味しない。
むしろ逆。
報告の為、早馬が到着する。被害と後退の。
一つ一つが、静かに領を削っていく。
「国境外縁、第三村落——放棄完了」
「……」
「住民後退、七割」
「……」
「二割、移動中」
「……」
「一割……未確認」
「……そうか」
低く短い。それだけ。
私は、地図を見下ろしていた。
線。
街道や川。旧領都と放棄村。
そして——後退線。
自ら引いた線。
何処を捨て、何処を残し、何処で止めるか。
それは、地図上なら簡単に見える。
だが——
「……」
その線の上には、村がある。
家がある。畑がある。生きてきた時間がある。
文官が、次の報告を読み上げる。
「第四村落、一部焼却開始」
「備蓄、井戸処理進行」
「……」
「敵利用阻害、概ね順調」
「……」
順調。
その言葉の意味を、この場に居る誰もが理解していた。敵に使わせない。
つまり——自分達の物を自分達で消す。
「……」
私は、小さく息を吐いた。
「……順調、か」
その言葉が、どれほど苦いか。
若い頃なら——違ったかもしれない。
村を守る為、兵を出し、一つでも奪わせぬ様に。そう考えたかもしれない。
だが——
「……」
今は違う。守るとは、全てをその場で守る事ではない。
線だ。
何処まで退き、何処で受け、何処から奪い返すか。その為に。
「……空白を、作る」
ぽつり。
誰に言うでもなく。
敵が進んでも、得る物が少ない領。
それが——今、自分の引いた線だった。
「報告」
「はっ」
「クラウス方面」
「……」
「先鋒騎兵、火攻め成功。敵進軍速度低下」
僅かに、視線が動く。
「……そうか」
あれは、クラウスの線。敵を削り、疑わせ、遅らせる。
「次!エドワルド方面」
一拍。
「偽道標、効果確認。敵距離認識混乱」
更に。
「捕虜化された一部住民確認」
「……」
空気が、少しだけ重くなる。
「エドワルド様は、潜伏維持。敵露見回避を優先」
「……」
沈黙。
長くはないが——深い。
「……そうか」
その一言だけ。
責めない、褒めない、必要なのは、そこではない。
「……耐えたか」
ぽつり。
あまりにも小さく、誰にも届かぬ程だった。
救いたかった筈だ。行けたかもしれない。
それでも——行かなかった。
その意味を、私は理解していた。
若い頃なら、行ったかもしれない。
今なら——分かる。
数十を救い、数万を危うくする判断もある。
逆に数十を切り数万を守る判断もある。
「……」
それは、正しいから苦しくない訳ではない。
正しいからこそ——苦しい。
私は、地図へ手を置いた。
クラウス。
エドワルド。
グレゴール。
それぞれが、それぞれの線を守っている。
なら——自分も同じだ。
「……次報」
「はっ」
「第五、六村落」
「……」
「後退加速」
「残せぬ物は、残すな」
「……承知」
守る為に、空白を作る。
奪わせぬ為に焼く。救えぬ者が、出る。
それでも——線を保つ。
父とは、そういう役目だった。
窓の外。春。
本来なら、耕し始める季節。
だが今は——違う。
畑を捨て、村を退き、線を引く季節。
北部領主は、静かに前を見た。
全てを守れぬ事など、最初から分かっている。
その上で。
「……領を、残す」
短く。
それが——父の選んだ線だった。