作品タイトル不明
痕跡を残さず
「さて。この街を出るぞ」
朝の光が差し込む中、シュトライヒは静かに言った。
騒ぎの余韻は、まだ町に残っている。
工房の混乱。金の消失。帳簿の不整合。
表には出ていないが、確実に“軋み”は広がっていた。
「残りの工房は?」
護衛役が確認する。
シュトライヒは首を横に振った。
「やらん」
「……よろしいので?」
「ああ」
窓の外を見ながら続ける。
「今回の件が大ぴらになればな。他の工房にも調査が入る。帳簿の確認、金の流れ、人員の洗い直し。それだけで十分に混乱する」
「……確かに」
「疑いは伝染する」
小さく呟く。
「一つ崩れれば、他も疑う。自分の足元をな」
護衛役は深く頷いた。
「では、この街ではこれで終わりですな」
「終わりだ」
シュトライヒは即答する。
一切の未練もない。
「……それじゃあ」
少し間を置き、視線を戻す。
「各井戸に、例の物を放り込んでから出るぞ」
空気がわずかに張り詰める。
「……承知しました」
護衛役は短く答える。
「蓋の厚みは?一番厚く、ですね」
「ふっ」
シュトライヒが小さく笑った。
「その通りだ。やっと分かる様になったな」
「もう流石に慣れましたよ……」
苦笑混じりの返答。
だが、その手は迷わない。
「今回は即効性はいらん。遅れて効く方がいい。原因が分からない方が、混乱は長引く」
「はい」
「水は生活そのものだ。それが疑われれば——町は止まる」
護衛役は静かに頷いた。
準備はすぐに整った。
夜。
人の動きが鈍る時間。一つ、また一つと。
井戸へと投げ込まれていく。
音もなく。気付かれもせず。
ただ、沈む。それだけ。
翌朝。
「で、次はどの町へ行きます?」
荷をまとめながら護衛役が問う。
シュトライヒは地図を広げた。
指でなぞる。
街道と町の距離を見ると。
「そうだな……」
少し考える。
「この街より小さめの町だ。小さ過ぎる町や村は避ける」
「……理由は?」
「効果が薄い」
即答だった。
「人が少なすぎると、崩しても意味がない。だが大きすぎると、目が多い。だから——」
指を止める。
「“中規模”がいい」
「……成る程」
護衛役も地図を覗き込む。
「なら、ここから西に向かいますか」
指を差す。
「ここより国境が近いですし」
シュトライヒはその地点を見つめた。
そして。
トン、トン、と軽く叩く。
「……そうだな」
短く頷く。
「そこへ行くか」
「では、準備を」
「ああ」
荷馬車が動き出しこの町を出る。
振り返る者はいない。
「……」
シュトライヒは一度だけ、背後に視線を向けた。
工房の煙は、まだ上がっている。
だが——
「止まる」
小さく呟く。すぐではない。確実に。
「次だ」
視線を前へ戻す。
次の町の次の標的。
その先へ。
静かに、進んでいく。