作品タイトル不明
熟れた実の匂い
今は目の前の事に集中しろ。
難民の受け入れ。食料の配分。
住居の建設。治安の維持。
やる事は山ほどある。
分かっている。分かっているのに——
「……出来るはずが、無いだろ」
書類を前に、手が止まる。
頭の中に浮かぶのは、地図。
そして、隣領。
何度も、何度も、何度も。
視線がそこへ吸い寄せられる。
「くそ……」
思考が勝手に計算を始める。
兵力。街道。補給線。進軍日数。
制圧後の食料量。
止めろ。
止まらない。
正義の名の下に侵攻すればいい。
治安維持。
食料支援。
民の保護。
全部、本当だ!嘘は無い。だから余計に質が悪い。
「……隣領は」
ぽつりと呟く。
「熟れた木の実だ」
守る者もいない。枝にぶら下がったまま。
落ちるのを待っている。
しかも。甘い匂いまで漂わせている。
——取れ、と。
——今だ、と。
「……っ!」
拳を机に叩きつけた。
その音に、扉の外がざわつく。
「エドワルド様? 大丈夫ですか?」
レオンだ。
「……入れ」
扉が開く。いつもの飄々とした顔。
だが目だけは鋭い。
「顔色がよろしくありませんな」
「……済まない」
椅子に背を預ける。
「どうにも、余計な事ばかり考える」
レオンは小さく笑った。
「お気持ちは分かります」
「何がだ」
「目の前に、歩いてる鳥が鍋を背負って歩いておりますからな」
「なっ!?」
思わず顔を上げる。例えが酷い。
だが。的確すぎた。
「……傭兵は……エドワルド様」
レオンは窓の外を見ながら続ける。
「勝てる戦と、勝てない戦が分かる生き物です」
「空気で、分かる」
「……」
「匂い、と言ってもいい」
熟れた実の匂い。
さっき自分が思った言葉と重なる。
「……今はどっちだと思う?」
レオンは少し考えて、肩をすくめた。
「それはエドワルド様次第」
「どういう意味だ」
「王都まで奪る、とお考えなら負けますな」
即答だった。
「兵力も、補給も、距離も無理です」
「だろうな……」
「しかし」
にやりと笑う。
「隣領だけなら、勝てます」
静かに。断言した。
「……」
喉が鳴る。
「だが我が領は北にも警戒しなくてはならなくなったし、西の国境兵は動かせん」
「はい」
「他は保護民対応で手一杯だ」
「はい」
「それともレオンの軍団、たった五十名でやる気か?」
「流石に無理ですなぁ」
あっさり言った。
「だろう? なら今は勝てない時だ」
そう言って自分を納得させようとした。
だが。レオンは、首を傾げた。
「エドワルド様」
「……何だ」
「肝心な兵力をお忘れか?」
「兵力は無い」
即答した。だが。
レオンは、ゆっくり言った。
「南町です」
「……?」
「現在、約三千二百名」
「!」
「そこから三百名ほど回せれば、私ども合わせて三百五十」
数字が、頭の中で形になる。
三百五十。
治安崩壊中の隣領なら——
十分、制圧可能な数。
「今なら、それほど難しい戦とは思えません」
「……だが、民だぞ」
「ええ」
レオンは頷く。
「だから強い」
「?」
「守るための戦ほど、人は強い」
淡々と。戦場を知る者の声だった。
「それに」
さらに続ける。
「大義名分があります」
「保護と解放」
「元隣領の者も多い。土地勘のある者もおりますでしょ」
確かに。南町の保護民の半数以上は、隣領出身だ。家族を置いてきた者。村を焼かれた者。帰りたい者。
……多い。
「志願兵にすれば、士気は高いです」
静かな部屋。心臓の音だけがやけに響く。
三百五十。勝率は高い。民も救える。
食料も増える。領地も安定する。
理屈は、完璧。
「…………」
拳を握る。まただ。
また線の前に立たされている。
守るか。奪うか。
「……レオン」
「はい」
「それは」
言葉が重い。
「勝てる戦か?」
レオンは、迷わなかった。
「はい」
そして。ゆっくり付け加えた。
「ですが」
「?」
「勝てる戦と、やるべき戦は、別物です」
「……」
「決めるのは、私ではありません」
視線が真っ直ぐ刺さる。
「エドワルド様。貴方です」
沈黙。重い。重すぎる。
熟れた実の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。取れば、楽になる。
だが。
その一歩を踏み出した瞬間。
もう“守るだけの領主”ではいられない。
「……くそ」
小さく吐き捨てた。
決断の時が、近づいていた。