作品タイトル不明
5 期待しない方向で
心臓辺りがきゅうっとなって、鼓動が早くなる。暑くもないのに熱くなって、掌が少し湿った。ぼーっとしてると同じ光景が何度も頭を過って、もう一度見れないだろうかと期待して、読書の最中、盗み見る回数が時間と共に増えていく。
この感情の名前は知っている。ただどの場所に収めれば良いのかが、分からない。
「一つ気になったんだが」
「はい?」
「時間があればここに来ているが、他の予定は大丈夫なのか?」
最早この研究室に私がいるのが当たり前になった頃、今気が付いたという様に書類に目を落としたままのヴェナが言った。勝手に自分用にしたブランケットに包まれ、ぬくぬくとティータイムを楽しんでいた私は、少々面を食らってしまった。今更?
「え、今更?」
声にも出てしまった。何も言われないからと好きに過ごしていたが、まさか疑問すら抱いていなかったとは。
「まぁ、今更なんだが……他の友人と過ごしたりとか、そういうのは」
「エスメラルダに友達がいない事くらい知ってるでしょう」
「それは知ってる。だが今のお前なら、友人の一人や二人くらいすぐに出来るだろう」
「それはどっちの意味か問い質したい所ですけど……そもそも私、友達って出来た事ないんですよね」
エスメラルダよりも庶民的で無害な感じって意味なのか、私のコミュニケーション能力を高く評価してくれているからの言葉なのか、判断に迷う発言だ。どちらにしても、私に友達作りというスキルは無い。と言うか、経験が皆無。
「ヴェナも大体察しているかと思いますが、私……翡翠霞は病人でした。それは『シンシアの初恋』を読んでいた時だけでなく、人生のほぼ全て、病院のベッドで過ごしたくらいに」
翡翠霞の人生を本にしたら、小学生の読書感想文にも満たない文字数になるだろう。生まれ付きの難病、懸命な治療のおかげで幾度と余命宣告を覆して来たが、十八で世を去った。原稿用紙に書ける経験なんてせいぜい手術回数と術後経過くらいで、自分の足で外を走り回った事すらない。
「院内学級とか色々あったみたいなんですけど、私は出られない事が多くて。お医者さんと看護師さんくらいでしたね、話す相手。年上ばかりですし、そもそも私は患者ですから、友達にはなれません」
いつも優しかったし、どんな時も寄り添ってくれたが、それは私が病に苦しむ患者だったからだ。彼らの優しさを嘘だとは思わないが、そこに仕事の割合が無いと思える程、私の患者経験は浅くなかった。
「毎日本を読んだり、空を見たりして過ごしていたので、人との関わりは希薄だったんです。友達がいた事がないので、欲しいって感覚にもならなくて」
私にとって友達は、ツチノコやネッシーと似た位置付けだ。いたら楽しいんだろうけど、いなくても生活には何の支障もない。
「でも……そうですね。私とヴェナが仲睦まじい許嫁であるとアピールするなら、友人はいい素材だと思います」
「素材言うな、実験道具じゃねぇんだぞ」
「いえ、実は考えていた事がありまして……いっそ、シンシアと友人関係になってしまうのはどうかと」
「…………は?」
「え、声こわ……」
地を這う様な低い声で、かっぴらかれた目が私の正気を問うてくる。言葉にされなくても分かる、何が言いたいのか。馬鹿なのかお前は、と。顔に書いてあるという比喩を、こんなにも明確に体験しようとは。
「彼女がヴェナに好意的なのは明らかじゃないですか。現状それが友情なのか恋慕なのかは分かりませんが、問題はそれが恋慕に傾いた場合です。気が付いたら小説のハッピーエンド、私は婚約者に捨てられてヴェナはシンシアと幸せになりましたって展開になりかねません」
「止めろ想像させるな、 悪夢(ゆめ) に出る」
「私も電撃婚約破棄は嫌ですよ。でも今更ヴェナとシンシアが赤の他人です、はちょっと無理があります」
「…………」
「沈黙しても事実は変わりませんよ」
ヴェナは何とか回避しようと藻掻いてはいたが、周囲はシンシアとヴェナが知り合いであると認識している様で。この研究室への使いはシンシアに頼まれる事が多いし、何なら廊下ですれ違うと挨拶だけでなく世間話までしようとするらしい。学年も専攻も違う相手と一緒にいる理由、顔見知り、知り合い、友人と認識が進化していく中の、今は何とか顔見知りで止めようと頑張っている最中だ。多分もう知り合いだし、シンシアの中では友人枠に入ってるんだろうけど。
「今から赤の他人にはなれません。ならいっそ、新しい関係値を築いてしまえばいいのではと思いまして」
「新しい……?」
「『友人の婚約者』なんて、出来うる限りで最も恋愛対象から遠ざかると思いません?」
幸い私とシンシアは同じ学年で、学部も同じ法学部。今はまだ顔と名前を知っている程度だろうが、教室にいる時に話し掛けて交友を深めるのはそれほど難しくない。
「その倫理観があるのか……?」
「思った以上にシンシアの評価が低い」
「自分に対してだけは世界の全てが甘くなると思っている奴だと思っているだけだ」
「危険人物じゃないですか」
「そう言ってんだよ」
え、シンシアってそんなヤバい人なの? 直接話したのはこの研究室前で会った一回切りだけど、普通に可愛らしい子だなぁ、くらいの印象だった。
研究室でくつろいでる時にヴェナを訊ねて来た事はあったけど、その時も話してないし……一緒に昼食中に呼びに来た事もあったけど、会釈だけで終わったっけ。お使いの書類に手紙が付いてたり、たまに二人で話したいって誘いもあったりとか。
「……あれ、結構ヤバい人では」
「気付くの遅くないか?」
「いや、距離感近いなーとは思ってましたけど、人に寄るのかなって」
「百歩譲って相手の決まっていない奴なら兎も角、俺には婚約者がいるって、知らない訳ねぇだろ」
「ですよね、ここで何度も顔は合わせてますし」
「婚約者がいる男にあの態度だぞ? 友人の婚約者だからって弁えると思うか?」
「あんまり思わない……」
そう言えば、ヴェナは初めからそれが理由でシンシアを警戒していた。婚約者がいると分かっているのに、あの距離感は可笑しいのだと。そもそもヴェナとの婚約すら現実味がなくて、あまりピンと来ていなかったけど……なるほど、言われてみれば。恋人がいる人にあの距離感は、無邪気とか無意識では片付けられない。
「……え、っと、止めた方が良いです、よね?」
「作戦云々を抜きにしても、人として信頼出来るとは思えないな」
「です、よねー……あの、ですね」
「ん?」
「実は今度、グループワークをする事になりまして……」
「……待て、まさか」
グループワークの内容は簡単で、法律を新たに制定若しくは改正するとしたら、という題でそれぞれ話し合い、期日になったら発表するという物だ。今ある法への理解や、時代に合った法改正の為に、半年に一回行われている。グループ分けのやり方は学生に任せられており、一人で作成から発表まで行う者も居る……エスメラルダもそうだった。
「シンシアのいるグループに、入りまして……」
「…………」
あ、頭抱えた。