作品タイトル不明
3 一応の作戦名
あれからシンシアが研究室に来る事は無かった……なんて事はなく。謝罪以外の理由で
ほぼ毎日顔を合わせる様になった。時には教員の伝書鳩、時には食堂で隣の席、時には中庭で時には廊下で教室で……学年も学部も違う相手と、ここまで頻繁に顔を合わせるとは。記憶がなければ運命とでも思っていた所だ。
記憶がある身のハヴェイナは、少々まいっているらしい。
「いっそストーカーだと言ってくれ……」
「残念ながら全部偶然なんですよねぇ、これが」
机に両肘を立て、項垂れた顔は手に隠れて見えないが、声色だけで積もった疲労感が察せられた。ハヴェイナが機転を利かせて小説とは違う選択を取ったというのに、まるで軌道修正するかの様に顔を合わせる毎日。
私がいる時ならあしらう理由もあるが、一人の時に訪ねられると、それも正当な手順で訪問してきた相手を追い返す理由はない。そしてシンシアは、彼が思った以上に人の話を聞かないらしい。
「帰れと言っても帰らない、いらないと言っても手伝うと言う。あいつの耳は飾りか?」
「聞きたい様に聞く方なんでしょう。帰れもいらないも、遠慮してるって捉えるんじゃないですか?」
「嘘偽りない本心だが」
「私に言われましても……一緒にいる時間を増やしますか」
「今も授業以外はほとんどここにいんだろ」
「意外と居心地よくって」
「居心地よくして行ってるの間違いだろ」
抱えるのにちょうどいいぬいぐるみ、くるまれるブランケット、専用のマグカップ、床に積んだ私が読みたい本。ここに来るようになってから持ち込んだり、いつの間にか私用になっていた物達。片付けられたり文句も言われないから、気付いていないのかと思っていた。
「一応ここは研究室なんだが」
「知ってます。ハヴェイナ様御用達の研究室、でしょ?」
「あぁ、理解してくれていて何よりだ。図書室と勘違いしているのかと心配だったんだが」
「私にとっては似た様なものですが」
「研究室だっつってんだろ」
そう言いつつ追い返したり、本を取り上げたりしないのだから、ハヴェイナの方も随分慣れたものだ。研究室といいつつ、勝手に本棚を物色しても怒らない。ソファを占領しても文句一つ言わない。
共に過ごして分かったが、彼は意外と大らかと言うか大雑把と言うか、細かい事を気にしないらしい。研究に対してはミリ単位で追及するというのに、人に対しては余程の事が無い限り追うも払うもしない。そういう所が人を寄せ付けるし、あらぬ噂を立てられるのだと。
そりゃあエスメラルダとは合わない。彼女は高い志と理想を掲げていて、それから逸れる事を良しとしなかった。頑固で融通が利かない高飛車なお嬢様と、猫の様にしなやかで、自分にも他人にも自由な男なんて……それこそ恋愛小説の二人みたいだ。
「兎も角、これだけ交流をしてしまってはもう赤の他人には戻れません。関わらないでは無く、深入りしない方向で対策を練りましょう」
「それが妥当か……」
「婚約者がいるという体で断れる所は断って、良い感じに距離を取って下さい」
「体じゃなくて事実だろ。後作戦が雑」
「臨機応変、ってやつですよ。あちらが近付いてこなければそれで良いんですし、当たり障りなく、気を持たせるような事をしない」
「そもそも誰にも気を持たせようとした事はない」
「えぇ、貴方が好色家でない事は知っています。でも、放任では誤解を招くと、その身で体験したでしょう」
元々シンシアがハヴェイナに怒ったのは、ハヴェイナが自分に想いを寄せる相手を放置したから。告白された訳でも無いからとのらりくらり躱して、結果それが思わせぶりに映った。気を持たせる様な行動をしていないのも本当だろうし、ハヴェイナに否があったかと言われると……正直言いがかりだなと思うけど。
今回はその『言いがかり』で人生が変わるかもしれない、ハヴェイナの。
「彼女が貴方を好きにならない様に立ち回る事。現状、それ以外に出来る事はありません」
「その通りなんだが……そこだけ聞くとまるで俺がとんでもない自意識過剰野郎みたいだな」
「過剰ではないでしょう。小説通りに過ごせば彼女は貴方を好きになりますし、貴方が魅力的な人である事は事実ですから」
「それはまた、随分と評価が変わったな。前のあいつは俺を女の敵とまで言っていたが」
前のあいつ……前世を思い出すまでのエスメラルダ。私自身はもう別人として割り切ってしまっているが、外から見れば急に性格が変わった様に思えるらしい。記憶を共有したハヴェイナですら戸惑うのだから、何も知らない人は余計に混乱するだろう。外見は変わっていないから余計に。
「あの、私の名前ってご存知ですか?」
「は?」
「私の……エスメラルダになる前の私の名前です」
「あぁ、そっちか。……ヒスイ・カスミで、あっているか」
「えぇ、私の国では姓名が逆なので、正確にはカスミ・ヒスイ」
ソファから立ち上がり、彼の作業するデスクに近付く。スタンドに刺さったペンを、広がった書類の空白に滑らせた。
カスミ・ヒスイ。翡翠霞。かつての私の名前。そして今も尚、切り離せない私の一部。
「よかったら、こっちで呼んで下さい。エスメラルダよりは呼びやすいと思いますよ」
エスメラルダ、エスミー、私を呼ぶ名はいくつかあるけれど、彼はそのどれも口にしない。時折エスメラルダと口にする事はあるけれど、それは私を呼んだのではなく固有名詞として、私と前の私を区別する為の物。思い出す前なんて、あいつこいつそいつ、名前を呼んだら呪われるとでも思っているのか、頑なに代名詞しか使わなかった。
「あ、勿論エスミーでも歓迎しますが」
「却下。カスミの方が馴染みが良い。俺の口にも、お前にも」
興味のなさそうにそっぽを向いているが、少しだけ目元が緩んだ様に思う。
彼にとって、エスメラルダはやっぱり苦手な相手で、私に対してその感情にどう決着を付けるかが問題だった。私はエスメラルダだし、でも彼の知っているエスメラルダではなくて、記憶を共有したから、翡翠霞という存在も知っている。同一視するには違い過ぎるけど、区別しようにも同一人物。
そう思うと、私と彼の関係は随分複雑だなと思う。婚約者で、かつては犬猿の仲で、今は同じゴールを目指す共有者。共に過ごす時間が増える程、その全部がごちゃ混ぜになって行く。
「他の奴らには婚約者同士の特別な愛称という事にするか」
「それは良いですね。仲睦まじい許嫁作戦にはぴったり」
「頭悪い作戦名だな」
「そう言えばそろそろお茶の葉がなくなりそうなんです」
「研究室だっつってんだろ。喫茶店じゃねぇんだぞ」
「あ、そちらが愛称で呼ぶなら私も何か考えた方が良いですかね」
「話を聞け」
呆れた様な口調だけど、ちゃんと話を聞いて言葉を返してくれる。彼はきちんと耳を傾けて、言葉を返してくれる人なのだと、この関係になってから知った。私には前世の記憶だけではなく、エスメラルダだった頃の記憶だってちゃんと残っているのに。
ハヴェイナはエスメラルダの言葉を受け入れようとしなかったけど、エスメラルダだって、ハヴェイナの事を何一つ知らなかった、知ろうとしていなかったんだなぁ、なんて。ちょっとだけ、エスメラルダを勿体ないと思った。