作品タイトル不明
237、貴重な情報と晩餐へ
「そんなに凄い本だったのかい?」
興奮するマルティナとディアスに向けて、ソフィアンが問いかけた。
「はい。この本はおそらく魔法陣がまだ全盛期だった頃に書かれたものです。著者はその時代の魔法陣の研究者であり、海に住む人魚と偶然出会い、恋に落ちたそうです。しかし人魚は広い海を移動しながら暮らす種族で、頻繁には会えない。そこで魔法陣の研究を進め――恋人の魔力を感知してその場に転移する魔法陣を作り出したようです」
ディアスの感知魔法を帰還の魔法陣に組み込むことに苦戦していたように、今まで得てきた情報からは、遠くの個人を魔力で識別して感知し、そこに飛ぶような転移魔法陣は存在しなかった。
この著者である過去の誰かは、まさに天才だったのだろう。感知しての転移だけでなく、転移先となるおそらく海の底で、人間が数時間は普通に過ごせるような魔法まで組み込まれていたのだから。
しかし往々にして天才はそれを自覚していないものであり、軽く読んだ限りでは世紀の研究の成果を恋人に会いにいくことにしか使ってないようだった。
その恋人への愛が大きく、このような書物の形で会いにいく方法を残してくれていたのは僥倖だが……。
「それは、凄いね」
「帰還の魔法陣研究がまた大きく進むんだね」
嬉しそうな笑顔のハルカに頷いてから、マルティナは純粋な喜びだけでない複雑な気持ちを感じた。ハルカが無事に帰れる可能性が上がることを喜ばなければいけないのに、どうしても喜びきれない自分を嫌いになりそうだ。
少し俯いてしまったマルティナには気づかず、ディアスがハルカと楽しそうに話を始める。その横でマルティナは、雑念を消し去るように書物の内容に集中することにした。
普段から無意識に本の世界に入り込んでしまうマルティナが意図的に潜り込めば、一瞬で現実からは遠ざかり誰の声も聞こえなくなる。
そうして完全に本の世界にのめり込む……寸前で、ロランがマルティナの肩を掴んだ。軽く揺らすことでマルティナはなんとか現実に戻ってくる。
「おい、マルティナ。じっくり読むなら場所を移動しよう。それに時間的に、夕食後の方がいいんじゃないか?」
目の前にあるいつも通りのロランの表情に、なんだか安心した。
いつもなら少し抵抗するが、すんなりと本を閉じる。
「はい。そうします」
素直すぎるマルティナが不自然に映ったのか、ロランは眉間に皺を寄せた。
「……体調でも悪いのか?」
素直に本を閉じただけでかなり心配されている。
「いえ、大丈夫です」
「ロランは過保護だね」
ソフィアンが苦笑しながらそう言った。
「いや、そんなことは……」
「でも、あとで私と少し話そうか。マルティナとは話が合うと思うんだ」
核心に触れないような言い方だったが、ソフィアンがディアスとハルカに視線を向けたことで、マルティナはソフィアンも同じような寂しさを感じているのかもしれないと悟る。
「はい。ぜひ」
気づいたらそう答えていた。ソフィアンの柔らかい微笑みに、少し許されたような気分になる。
「では場所を移動しようか」
「はい。晩餐の用意はもうすぐ整うでしょう。まずは応接室にご案内させていただきます」
そう言ってマルティナたちを誘導したのは子爵だ。代官に諸々を任せるのはやめたらしい。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
慌てた代官も急足で子爵の横につき、自らがここの主人だと主張するように張り切って指示を出す。そうしてマルティナたちは、応接室で少し休み、晩餐会が行われる大きな食堂に向かった。
食堂は小さな港町の代官邸にあるものとしては、かなり広くて豪華だった。代官の普段の生活が食堂からも窺える。子爵はバレないようにため息をついていた。
「さあさあ、自慢の食堂へどうぞ。夕食も豪華なものを指示してありますので」
代官はなんとか挽回しようと必死だが、その態度が余計に評価を下げているかもしれない可能性には思い至らないようだ。マルティナは子爵の醸し出す呆れたような雰囲気と、うるさいぐらいに元気な代官をつい交互に見てしまった。
「あの代官、俺たちが帰ったらすぐクビだろうな」
「……やっぱりそうですか?」
ロランの小さな呟きに、マルティナはつい眉を下げてしまう。代官がその職種に適しているとは到底思えないが、他人が悪い評価を付けられているのを見るのは、やはりどうしても少し落ち込んでしまうのだ。
「なんでマルティナがそんな顔をするんだ。お前は優しすぎるな」
困ったように眉を下げたロランが、マルティナの肩を軽く叩きながら緩く笑みを浮かべる。
「そんなことはないと思いますが……」
「いや、そんなことあると思うぞ?」
「マルティナさんはめちゃくちゃ優しいっす!」
話が聞こえていたらしいサシャが笑顔で言って、マルティナは二人の顔を交互に見る。護衛二人が同じ評価ということは、少しは信じてもいいのかもしれない。
「ありがとうございます?」
本が関わるとすぐにやらかしてしまう自分への評価として適切かは分からないが、悪い評価ではないのは素直に嬉しかった。
「でもそれなら、私はロランさんが一番優しいと思ってます。私が暴走してもいつも助けてくれますし、見限らないでいてくれますし、落ち込んでたら励ましてくれて、色々と配慮まで……」
最近マルティナは、ロランに迷惑をかけすぎていないかと心配しているぐらいなのだ。正直、ロランがもし離れていってしまったら、凄く悲しいと思う。
少し落ち込んだところで席を案内され、マルティナはロランの隣に座った。護衛も共に食事をして良いと許可をもらっているため、ロランとサシャ、フローランも同席する形である。
「あの、いつも本当に助かっていますが、何か不満があったら言ってください。あとは私もロランさんの役に立ちたいです。ロランさんのためならなんでもやりますので!」
これだけは言っておこうと席に着いてから隣のロランに顔を近づけて小声で伝えると、ロランは僅かに頬を赤くして視線を逸らした。
「……ありがたいけどな、なんでもやるとか軽率に言うのはやめた方がいいぞ」
「でも、その心意気なので」
「いや、そういうことじゃなくてな……」
言い淀むロランにマルティナは自らの知識を検索した。何かマナーとしてそんな決まりがあっただろうかと思っていたのだが、いくつかの小説で先ほどの会話と似たようなものを発見する。
つまり、なんでもやるというと、人によっては健全ではないことを命令する可能性もあるからということで……。
マルティナは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
純粋で素直なマルティナだが、本をたくさん読んでいるためそういう知識には詳しいのだ。あくまでも知識だけであるが。
「そ、その」
慌ててしまい、こういう時になんと言えばいいのか全く分からないでいると、代官の意気揚々とした声が食堂に響いた。
「さっそく料理ができたようです!」
その言葉で二人の会話はうやむやになる。それにマルティナは少し安心した。
(ロランさんは絶対に変なことは言わないだろうけど、他の人にはなんでもとか言わないようにってことだよね……相手の人を困惑させないためにも気をつけなきゃ)
内心で決意しているマルティナである。マルティナにとってロランは完全な信頼を置いている相手であり、ロランに対しては何の心配もしていなかった。
そんなマルティナの横で、まだ耳を赤くしたまま少し複雑そうな表情をしているロランだ。
料理が目の前に運ばれてきたことで、やっと変な空気も完全に霧散する。とても美味しそうな匂いにサシャが満面の笑みで言った。
「美味そうっす……!」