作品タイトル不明
第5話 戦場のような夜
第5話 戦場のような夜
十月の終わりだった。
夜の空気は冷たく、吐く息が白くなるほどではないが、肌寒さを感じる季節になっていた。
森田凛子は救命救急センターの休憩室でコーヒーを飲んでいた。
夜勤開始から二時間。
今のところ大きな搬送はない。
黒のスクラブの上から薄いカーディガンを羽織り、紙コップを両手で包む。
ほろ苦い香りが鼻をくすぐった。
「珍しく静かだな」
救急医の藤堂遼が椅子に腰掛けながら言った。
白衣の下にはネイビーのスクラブ。
疲れた顔をしているが、どこか余裕もある。
「嵐の前の静けさじゃないですか?」
凛子が笑う。
「縁起でもない」
「いつもそう言ってる気がします」
二人は小さく笑った。
以前の凛子なら、こんな風に冗談を言う余裕はなかった。
離婚してから二か月。
あおぞらホームでの生活は驚くほど穏やかだった。
夜勤明けに眠れる。
食事を味わえる。
誰かの顔色をうかがわなくていい。
それだけで世界が変わった。
スマートフォンには真央から届いた写真が表示されている。
今日の夕飯。
ハンバーグ。
ポテトサラダ。
コーンスープ。
『今度帰ってきたら作ります!』
そんなメッセージが添えられていた。
思わず頬が緩む。
その時だった。
館内放送が鳴り響く。
『救命センター緊急招集。多数傷病者受け入れ要請』
空気が一変した。
藤堂が立ち上がる。
「来たな」
凛子も紙コップを置いた。
次の瞬間には表情が変わっている。
看護師の顔だ。
救命センターのスタッフたちが一斉に動き出す。
処置室の準備。
点滴セット。
輸血。
人工呼吸器。
全員が走る。
緊張感が空気を支配した。
五分後。
消防から詳細が入る。
「建設現場の大規模崩落事故です!」
若い看護師が叫んだ。
「負傷者二十名以上!」
処置室がざわつく。
大型案件だった。
しかも夜間。
最悪の条件である。
サイレンの音が近付いてくる。
赤色灯が窓に反射した。
一台。
二台。
三台。
救急車が次々と到着する。
ストレッチャーが運び込まれる。
「男性三十五歳!頭部外傷!」
「こちら胸部圧迫あり!」
「意識レベル低下!」
怒号が飛び交う。
血の匂い。
消毒液の匂い。
汗の匂い。
救命センターは一瞬で戦場になった。
凛子は処置室を走り回る。
「血圧測定!」
「ライン確保します!」
「採血いきます!」
迷う暇などない。
一秒でも早く。
一人でも多く。
それだけだった。
ストレッチャーが運び込まれる。
泥まみれの作業服。
顔中に擦り傷。
左腕が不自然に曲がっている。
「骨折疑い!」
「酸素投与!」
次の患者。
さらに次。
息つく暇もない。
そして。
新たな患者が搬送されてきた。
血だらけだった。
額が裂けている。
右肩も損傷しているらしい。
「男性三十六歳!」
「足場崩落に巻き込まれました!」
凛子はカルテを受け取る。
患者の顔を見る。
そして。
一瞬だけ動きが止まった。
翼だった。
元夫だった。
泥と血にまみれている。
顔色は青白い。
呼吸も荒い。
だが間違いない。
森田翼。
かつて夫だった男。
胸の奥がわずかに揺れた。
しかしそれだけだった。
驚きはある。
けれど悲鳴も出ない。
涙も出ない。
ただ目の前の患者を見る。
一人の患者として。
「意識ありますか?」
凛子は普段通りの声で聞いた。
翼が目を開く。
焦点の合わない目が動く。
そして凛子を見た。
「……りん、こ?」
かすれた声だった。
凛子は脈拍を確認する。
「名前を言えますか?」
「凛子……?」
「患者さん、お名前をお願いします」
事務的な声。
感情のない声。
翼の顔が歪んだ。
「俺だ……」
「お名前をお願いします」
「森田……翼……」
「年齢は?」
「三十六……」
意識レベル確認。
呼吸確認。
出血確認。
凛子は淡々と作業を続ける。
翼は呆然としていた。
思い描いていた反応と違ったのだろう。
泣きながら駆け寄ってくる。
心配する。
そんな都合のいい幻想を抱いていたのかもしれない。
しかし凛子は違った。
目の前にいるのは元夫ではない。
患者番号の付いた一人の傷病者だった。
「森田さん!」
別の看護師が声をかける。
「重症患者入ります!」
「行きます!」
凛子は即座に返事をした。
そして翼から離れる。
「待て……」
翼が手を伸ばした。
「凛子……」
しかし凛子は振り返らない。
次の患者の元へ向かう。
その背中を見つめながら、翼は初めて気付いた。
自分が知っていると思っていた女は、何も知らない人だったのだと。
家では地味だった。
いつも疲れていた。
文句も言わなかった。
だから勘違いしていた。
だが今の凛子は違う。
多くの命を預かる医療従事者だった。
誰かの妻ではない。
誰かの介護要員でもない。
救命センターに必要とされる看護師だった。
その頃。
処置室では新たな患者が搬送されてくる。
凛子は走る。
血液の準備。
気道確保。
輸血。
処置。
立ち止まる暇はない。
藤堂が声を張り上げる。
「森田さん!」
「はい!」
「頼りにしてる!」
凛子は頷いた。
「任せてください!」
その言葉に迷いはなかった。
そして翼はストレッチャーの上から見ていた。
自分が失ったものの大きさを。
まだ、その全てを理解してはいなかったけれど。