軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 患者番号43番

第6話 患者番号43番

救命救急センターの夜は終わらなかった。

建設現場の崩落事故から二時間。

処置室には今も慌ただしい空気が流れている。

消毒液の匂い。

モニターの電子音。

ストレッチャーの車輪が床を転がる音。

医師や看護師たちの声。

戦場のような混乱は続いていた。

森田凛子は処置室を走り回っていた。

黒のスクラブの袖をまくり、髪をひとつに束ねる。

額には汗が浮かんでいる。

だが足は止まらない。

「輸血ルート確保しました!」

「ありがとう!」

「次の患者さん入ります!」

「受け入れます!」

息をつく暇もなかった。

ようやく一段落したのは深夜一時過ぎだった。

凛子はカルテを確認する。

患者番号43番。

森田翼。

右肩骨折。

肋骨数本骨折。

頭部打撲。

幸い命に別状はない。

だが入院は必要だった。

「森田さん」

若い看護師が近付いてくる。

「43番、少し興奮しています」

凛子は小さく頷いた。

「行きます」

病室へ向かう。

白い廊下を歩く。

靴音が静かに響く。

窓の外には夜の街の灯りが見えていた。

病室のドアを開ける。

翼はベッドの上にいた。

病衣姿。

頭には包帯。

腕は固定されている。

事故の衝撃は大きかったのだろう。

顔色は悪い。

しかし意識ははっきりしていた。

凛子を見るなり目を見開く。

「凛子!」

その声に凛子は反応しなかった。

カルテを確認する。

「痛みはどうですか?」

「そんなことじゃなくて!」

翼が声を荒らげる。

「俺だぞ!」

「分かっています」

「じゃあ何でそんな態度なんだよ!」

凛子は血圧計を腕に巻いた。

機械が作動する。

規則的な音。

数字が表示される。

「血圧九十六、六十二」

記録する。

「少し低いですね」

「聞いてるのか!?」

翼の声が病室に響いた。

だが凛子は冷静だった。

看護師として必要なことをしているだけである。

「気分はどうですか?」

「だから!」

翼が起き上がろうとする。

その瞬間。

「痛っ!」

顔が歪んだ。

肋骨が悲鳴を上げたのだろう。

「無理に動かないでください」

凛子は淡々と言った。

「安静が必要です」

「そんなことより!」

翼は息を荒げる。

「助けてくれ!」

その言葉に病室が静かになった。

凛子は数秒だけ翼を見つめた。

「助けています」

「違う!」

「何がですか?」

「俺たち夫婦だっただろ!」

凛子は目を伏せた。

そして静かに答える。

「離婚しています」

翼の顔が強張る。

「それでも!」

「私は看護師です」

凛子はカルテを閉じた。

「患者さんを助けるのが仕事です」

「患者さん……?」

翼は呆然とした。

その呼び方が信じられなかったのだろう。

凛子は続ける。

「今のあなたは患者番号43番です」

翼の顔色が変わる。

その番号は現実だった。

病院にいる以上、全員が患者である。

元夫も。

社長も。

政治家も。

関係ない。

命の前では平等だった。

そこへ藤堂が入ってきた。

「森田さん」

「はい」

「44番の容体が変わった」

「行きます」

凛子は即座に返事をする。

しかし翼が叫んだ。

「待て!」

二人の足が止まる。

「俺が先だろ!」

藤堂の眉がわずかに動いた。

「どういう意味ですか?」

「俺は凛子の元夫だ!」

病室の空気が凍る。

翼は必死だった。

「だから優先しろよ!」

藤堂は数秒沈黙した。

そして静かに言う。

「できません」

「何でだ!」

「医療はそういうものではありません」

翼は言葉を失う。

藤堂の声は穏やかだった。

だが揺るがない強さがあった。

「森田看護師は当センターに必要な人材です」

「……」

「あなた一人のために働いているわけではありません」

翼は息を呑んだ。

藤堂は続ける。

「今も重篤な患者さんがいます」

「……」

「優先順位は病状で決まります」

それだけ言うと病室を出た。

凛子も後に続く。

翼はベッドの上で呆然としていた。

廊下へ出る。

凛子は歩きながらカルテを確認した。

藤堂が隣で言う。

「大丈夫か?」

「はい」

「無理するなよ」

「大丈夫です」

それは本心だった。

不思議なほど心は静かだった。

昔なら違ったかもしれない。

だが今は違う。

あおぞらホームがある。

仕事がある。

信頼できる仲間がいる。

もう翼だけが世界ではない。

処置室へ戻る。

そこには新たな患者が運ばれていた。

若い男性だった。

顔面蒼白。

呼吸困難。

「森田さん!」

「はい!」

「気道確保!」

「準備します!」

凛子は走った。

迷いはない。

誰かの命を救うために。

その頃。

病室では翼が天井を見つめていた。

白い天井。

無機質な照明。

静かなモニター音。

そして思い出す。

毎朝の弁当。

洗濯されたシャツ。

病院の付き添い。

食事。

掃除。

凛子がやっていた無数のこと。

全部当たり前だと思っていた。

だが違った。

凛子は誰かに依存して生きる女ではなかった。

多くの命を支える専門職だった。

そしてその事実を、自分だけが知らなかった。

翼は目を閉じた。

胸の奥が重い。

骨折の痛みではない。

もっと別の痛みだった。

だが、その正体を認めるには、まだ少し時間が必要だった。