軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 いなくなって初めて分かる

第4話 いなくなって初めて分かる

離婚が成立してから三週間が過ぎていた。

森田翼は朝から機嫌が悪かった。

理由は単純だ。

寝坊したのである。

「くそっ!」

スマートフォンの時計を見る。

午前七時四十分。

現場へ向かうにはギリギリの時間だった。

以前ならこんなことはなかった。

凛子が毎朝起こしてくれていたからだ。

だが今は誰も起こしてくれない。

慌ててベッドから飛び起きる。

床には脱ぎ捨てた靴下。

椅子にはシャツ。

洗濯していない作業着が山のように積まれている。

部屋は以前とは別の場所のようだった。

「翼ー!」

リビングから義母の声が響く。

「何だよ!」

「朝ご飯は?」

「知らないよ!」

「知らないじゃないでしょ!」

朝から怒鳴り合いだった。

翼は苛立ちながら冷蔵庫を開ける。

中には賞味期限の切れた豆腐と、半分だけ残ったキャベツ。

卵もない。

牛乳もない。

結局、コンビニへ駆け込んでサンドイッチと缶コーヒーを買うことになった。

車の中で冷たいサンドイッチをかじる。

ハムとレタスの味しかしない。

凛子が作っていた朝食とは比べものにならなかった。

焼き鮭。

味噌汁。

卵焼き。

炊き立てのご飯。

当たり前だと思っていた。

今思えば、あれは当たり前ではなかったのだ。

その日の夕方。

仕事を終えて帰宅すると、義母が不満そうな顔で待ち構えていた。

「明日病院だからね」

「ああ」

「九時予約だから」

「分かった」

翼はため息をついた。

凛子がいた頃は知らなかった。

病院というものは予想以上に時間がかかる。

受付。

診察。

会計。

薬局。

半日仕事だ。

翌日。

病院の待合室は高齢者で溢れていた。

消毒液の匂い。

テレビから流れる健康番組。

義母は隣で文句を言い続ける。

「腰が痛いわ」

「待ち時間長いわ」

「先生遅いわ」

翼はスマートフォンを見ながら舌打ちした。

仕事の連絡が次々入る。

『現場どうしますか』

『確認お願いします』

『至急です』

胃が痛くなった。

凛子は夜勤明けでこれをやっていたのか。

初めてそう思った。

病院から戻る頃には昼を過ぎていた。

翼は慌ててコンビニ弁当を買う。

唐揚げ弁当。

義母には焼き魚弁当。

家へ帰ると義母が顔をしかめた。

「またコンビニ?」

「仕方ないだろ」

「体に悪いわよ」

「じゃあどうしろって言うんだよ」

思わず声が大きくなる。

義母も負けていなかった。

「凛子さんはちゃんと作ってくれたわ」

その言葉が翼の神経を逆撫でした。

「だったら凛子に言えよ!」

怒鳴り声が部屋に響く。

義母は驚いた顔をした。

「何よその言い方!」

「俺だって仕事してるんだ!」

「私は病人なのよ!」

「知るか!」

親子喧嘩だった。

以前なら起こらなかった。

いつも凛子が間に入っていたからだ。

食後。

翼は洗濯機を回した。

しかし終わって取り出した瞬間、顔色が変わる。

「何だこれ」

白いワイシャツが薄い青色になっていた。

作業着と一緒に洗ったせいだ。

さらに生乾きの嫌な臭いがする。

義母が後ろから覗き込んだ。

「あらまあ」

「……」

「凛子さんは上手だったわね」

翼は返事をしなかった。

返せなかった。

夜になった。

シンクには洗い物が積まれている。

洗濯物は山のよう。

床にはゴミ。

以前は気づかなかった。

凛子が全部片付けていたから。

その頃。

あおぞらホームでは夕食の時間だった。

食堂には子どもたちの笑い声が響いている。

大きな鍋にはカレー。

サラダ。

フルーツポンチ。

真央が元気よく手を挙げた。

「おかわり!」

「早いわね」

凛子が笑う。

エプロン姿のまま大鍋からカレーをよそう。

スパイスの香りが広がる。

子どもたちが嬉しそうに頬張る。

「凛子さんも食べて!」

「いただきます」

久しぶりだった。

こんなに穏やかな夕食は。

誰も命令しない。

誰も利用しない。

ただ一緒に食卓を囲む。

それだけなのに心が温かかった。

恵子が向かいへ座る。

「仕事はどう?」

「忙しいです」

「無理してない?」

「前より元気です」

凛子は笑った。

本当にそうだった。

睡眠時間も増えた。

食事も美味しい。

職場でも笑えるようになった。

以前の自分がどれほど追い詰められていたのか、離れて初めて分かった。

その夜。

翼は一人でリビングに座っていた。

テレビはついている。

だが内容は頭に入らない。

静かだった。

あまりにも静かだった。

以前なら聞こえていた音がない。

キッチンで食器を洗う音。

洗濯機の音。

凛子の足音。

何も聞こえない。

翼は無意識にスマートフォンを手に取った。

凛子とのトーク画面を開く。

最後のメッセージは一か月前。

『今日は夜勤だから夕飯は冷蔵庫に入れてあります』

それだけだった。

翼はしばらく画面を見つめる。

そして初めて小さな不安を覚えた。

「……本当に戻らないのか?」

今までなら喧嘩しても戻ってきた。

謝らなくても許してくれた。

だが今回は違う。

離婚届に署名した。

荷物も持って行った。

連絡もない。

その頃。

凛子はあおぞらホームの自室で窓を開けていた。

夜風が心地よい。

遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。

机の上には温かいハーブティー。

読みかけの小説。

柔らかな明かり。

凛子は静かに微笑んだ。

帰る場所はあった。

最初からずっと。

ただ、自分が忘れていただけだった。