軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 本当の実家

第3話 本当の実家

リビングには重苦しい沈黙が落ちていた。

テーブルの上に置かれた離婚届を見つめながら、翼は何度も瞬きを繰り返している。

義母の貴美子も口を半開きにしたまま固まっていた。

凛子は静かだった。

怒っているわけではない。

泣いているわけでもない。

ただ、ようやく終わったのだと思っていた。

「……何の冗談だ?」

最初に口を開いたのは翼だった。

「冗談じゃないわ」

「本気で離婚する気か?」

「ええ」

凛子はまっすぐ夫を見た。

「あなたが言ったのよ。嫌なら出て行けって」

「だからって普通離婚するか?」

翼は苛立ったように髪をかき上げた。

「夫婦喧嘩だろ」

「私は喧嘩だと思ってない」

「お前な!」

翼が声を荒らげる。

だが凛子の気持ちは驚くほど静かだった。

ここ数週間。

いや、もしかすると数年かもしれない。

少しずつ積み重なっていたものが、とうとう限界を超えたのだ。

「私はあなたの家政婦じゃない」

「そんなこと言ってないだろ」

「介護要員でもない」

「家族なんだから助け合うのは当然だろ!」

翼が怒鳴る。

その言葉に凛子は小さく笑った。

悲しい笑いだった。

「助け合い?」

「そうだよ」

「私が夜勤明けでも家事をして」

「それは――」

「私が病院へ付き添って」

「母さんが困ってるんだから」

「私だけが仕事も介護も家事も全部やることが?」

翼は黙った。

答えられない。

なぜなら事実だからだ。

その横で貴美子が口を尖らせる。

「私はそんなつもりじゃ――」

「お義母さん」

凛子は義母を見る。

「私、一度でも手伝っていただいたことありましたか?」

貴美子は言葉に詰まった。

朝食。

昼食。

夕食。

洗濯。

掃除。

病院の付き添い。

全部凛子だった。

義母は何もしなかった。

「看護師なんだからできるでしょうって言いましたよね」

「それは……」

「私、病院でも働いてるんです」

静かな声だった。

それなのに二人は何も言い返せなかった。

凛子は離婚届を翼の前へ押し出した。

「署名して」

「ふざけるな」

「署名して」

「しない」

「どうして?」

凛子は首を傾げた。

「嫌なら出て行けって言ったのはあなたでしょう」

翼の顔が赤くなる。

「だいたいお前、どこへ行く気なんだよ」

その言葉に義母も頷いた。

「そうよ。親もいないんでしょう?」

その瞬間だった。

凛子の中で何かが冷たく醒めた。

やっぱりそうだったのか。

この人たちは最初からそう思っていたのだ。

施設育ち。

親がいない。

だから逃げられない。

だから何をしてもいい。

だから利用できる。

「私には帰る場所があります」

凛子ははっきりと言った。

「は?」

翼が眉をひそめる。

「どこに」

「実家よ」

二人は顔を見合わせた。

「親いないだろ」

「ええ」

「じゃあ実家なんか」

「あるわ」

凛子は微笑んだ。

久しぶりに自然な笑みだった。

「私を育ててくれた場所がある」

翼は意味が分からないという顔をしていた。

だが説明する必要はない。

もう夫ではないのだから。

その日のうちに翼は離婚届へ署名した。

怒りに任せてペンを叩きつけるように名前を書く。

「勝手にしろ」

最後まで強気だった。

「どうせすぐ泣いて戻ってくる」

凛子は何も答えなかった。

代わりに寝室へ向かう。

スーツケースを開く。

荷物はそれほど多くない。

仕事用の服。

私服。

大切なアルバム。

看護学校の卒業証書。

児童養護施設の子どもたちからもらった手紙。

それらを丁寧に詰めていく。

窓の外では雨が上がっていた。

薄い雲の向こうから陽射しが差し込んでいる。

不思議だった。

離婚したのに。

人生が大きく変わるのに。

心は少し軽かった。

荷造りを終えると、凛子は玄関へ向かった。

「じゃあ」

翼はテレビを見ていた。

義母はスマートフォンを触っている。

二人とも顔を上げなかった。

「さようなら」

返事はなかった。

凛子は静かに扉を閉めた。

もう振り返らなかった。

電車を乗り継ぎ、一時間ほど。

住宅街の中にある見慣れた建物が見えてきた。

白い外壁。

小さな庭。

色とりどりの花壇。

門柱には「あおぞらホーム」と書かれている。

凛子の足が止まった。

懐かしい。

本当に懐かしい。

七歳でここへ来た。

泣きながら眠った夜もあった。

友達と喧嘩した日もあった。

誕生日を祝ってもらったこともあった。

全部ここだった。

門を見つめていると、不意に声が聞こえた。

「あら」

顔を上げる。

施設長の高橋恵子だった。

エプロン姿のまま立っている。

夕飯の支度をしていたのだろう。

醤油とカレーの混ざったような温かい匂いが風に乗って漂ってきた。

恵子は凛子を見る。

スーツケースを見る。

そして何も聞かなかった。

理由も。

事情も。

何も。

ただ優しく微笑む。

「お帰り、凛子」

その一言だった。

たった一言。

それだけだった。

なのに。

凛子の視界が滲んだ。

喉が詰まる。

息が苦しい。

泣かないつもりだった。

もう大人だから。

三十二歳にもなって泣くなんて情けないと思っていた。

それなのに涙が止まらない。

「恵子先生……」

「うん」

「私……」

「うん」

恵子はただ頷いていた。

急かさない。

責めない。

聞き出そうともしない。

それがどれほどありがたいことか。

凛子は涙を拭った。

そして震える声で言った。

「ただいま」

恵子は嬉しそうに笑った。

「おかえりなさい」

その時だった。

玄関の奥から駆け足の音が響く。

「えっ!」

飛び出してきたのは十五歳の真央だった。

ジャージ姿のまま目を丸くする。

「凛子さん!?」

「久しぶり」

「本物!?」

「偽物じゃないわよ」

真央は大喜びで駆け寄ってきた。

そしてスーツケースを見て首を傾げる。

だが詳しくは聞かなかった。

代わりにこう言った。

「ちょうど良かった!」

「え?」

「今日カレーなんです!」

凛子は思わず吹き出した。

涙と笑いが一緒にこぼれる。

「私、じゃがいも切ったんですよ!」

「そうなの?」

「上手になったんです!」

施設の窓から温かな光が漏れていた。

子どもたちの笑い声も聞こえる。

カレーの匂いもする。

懐かしい日常。

安心できる場所。

帰る家。

凛子は胸いっぱいにその空気を吸い込んだ。

そしてもう一度だけ微笑む。

今度は泣かずに言えた。

「ただいま」

それは誰よりも幸せな言葉だった。