軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 嫌なら出て行け

第2話 嫌なら出て行け

義母の貴美子との同居が始まってから二週間が過ぎていた。

森田凛子は疲れ切っていた。

朝六時。

まだ外は薄暗い。

キッチンに立つ凛子は欠伸を噛み殺しながら味噌汁をよそっていた。

鍋の中には豆腐とわかめ。

フライパンでは鮭が焼けている。

白い湯気が立ち上り、香ばしい匂いが部屋に広がっていた。

しかし食欲はない。

昨夜は夜勤だった。

仮眠もほとんど取れず、救急車はひっきりなしに到着した。

帰宅したのは午前八時。

本来なら今頃ベッドで眠っている時間だ。

けれど現実は違う。

「凛子さん、お味噌汁ぬるいわよ」

リビングから義母の声が飛んできた。

凛子は目を閉じた。

「温め直します」

「あと鮭も少し焼きが足りない気がするわ」

「分かりました」

フライパンへ戻す。

その横で翼は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

何も言わない。

いや、言わないのではない。

何もおかしいと思っていないのだ。

朝食を作る。

洗濯をする。

掃除をする。

義母の通院に付き添う。

薬を管理する。

そして夜は病院で働く。

すべて凛子の仕事になっていた。

食卓には焼き鮭、ほうれん草のお浸し、味噌汁、炊き立てのご飯が並んだ。

義母は満足そうに箸を取る。

「いただきます」

凛子も席についた。

しかし食欲はなかった。

冷えたご飯を少し口へ運ぶ。

砂を噛むような気分だった。

「そうだ」

翼が突然言った。

「来月から夜勤減らせないか?」

凛子は箸を止めた。

「どうして?」

「母さん一人で留守番させるの不安なんだよ」

義母も頷く。

「夜中に何かあったら怖いものねぇ」

「だから夜勤を減らせって?」

「うん」

あまりにも簡単に言う。

凛子は深く息を吐いた。

「無理よ」

「なんで?」

「救命センターは人手不足なの」

「でも家族の方が大事だろ?」

またその言葉だった。

家族。

便利な時だけ使われる言葉。

「私の仕事も大事よ」

「大げさだな」

翼は笑った。

「看護師なんて代わりはいくらでもいるだろ」

その瞬間。

胸の奥で何かが冷たく固まった。

救命センターで共に働く同僚たちの顔が浮かぶ。

何日も休めずに働く医師。

夜中でも患者のために走る看護師。

家族を看取った後、泣きながら帰る遺族。

命の現場。

その全てを知らない人間が、

「代わりはいくらでもいる」

と言った。

凛子は黙って箸を置いた。

それ以上食べられなかった。

その日の午後。

義母の通院があった。

整形外科。

内科。

薬局。

病院の待合室は高齢者でいっぱいだった。

凛子は眠気と戦いながら付き添う。

帰宅した頃には夕方になっていた。

さらに夕飯の支度。

肉じゃが。

ほうれん草の胡麻和え。

味噌汁。

自分はほとんど食べる気力もない。

それでも作る。

誰も手伝わないから。

夜。

ようやく自室へ戻った。

時計は二十三時を過ぎている。

ベッドへ倒れ込む。

しかし数時間後には再び出勤だ。

スマートフォンが震えた。

病院からだった。

『急患多数のため出勤可能ですか』

凛子はしばらく画面を見つめた。

そして返信する。

『行きます』

病院は誰かが行かなければ回らない。

それが分かっていた。

翌週。

凛子はついに限界を迎えた。

義母の通院日と研修会の日程が重なったのである。

研修は救急看護の重要な講習だった。

しかし翼は当然のように言った。

「研修なんか休めば?」

「無理よ」

「母さんの病院の方が大事だろ」

「どうして?」

凛子の声が震えた。

「どうして全部私なの?」

翼が眉をひそめる。

「は?」

「あなたも息子でしょう?」

「仕事あるし」

「私も仕事があるの!」

初めて声を荒げた。

リビングの空気が凍る。

義母が不満そうに口を尖らせた。

「なんだか最近冷たいわね」

「冷たい?」

凛子は笑った。

自分でも驚くほど乾いた笑いだった。

「私は二週間まともに眠ってないんです」

「大げさよ」

「大げさじゃない!」

ついに叫んでいた。

「私は看護師です!」

「知ってるよ」

「介護要員じゃない!」

翼の表情が険しくなる。

「母さんを邪魔者扱いするのか?」

「そんなこと言ってない!」

「だったらやれよ!」

怒鳴り声が響いた。

沈黙。

そして翼は吐き捨てるように言った。

「どうせお前には帰る場所なんかないだろ」

凛子は動きを止めた。

施設育ち。

親はいない。

兄弟もいない。

だから逆らえない。

翼はそう思っている。

その事実が痛いほど伝わってきた。

「……そう思ってたんだ」

「事実だろ」

翼は鼻で笑う。

「嫌なら出て行けよ」

義母も黙っている。

止めようともしない。

その瞬間だった。

凛子の心の中で何かが完全に切れた。

怒りではなかった。

悲しみでもない。

もっと静かな感情だった。

終わった。

ただそれだけだった。

凛子は何も言わず寝室へ向かう。

机の引き出しを開ける。

そこには一枚の書類が入っていた。

離婚届。

看護学校時代の先輩に言われたことがある。

「逃げ道だけは作っておきなさい」

その言葉を思い出しながら、凛子は静かに書類を手に取った。

リビングへ戻る。

翼が怪訝そうな顔をした。

「何だよそれ」

凛子はテーブルの上に離婚届を置いた。

紙の擦れる音だけが響く。

「嫌だから出て行く」

翼の顔から笑みが消えた。

凛子は真っ直ぐ夫を見つめる。

「だから離婚しましょう」

窓の外では雨が降り始めていた。

だが今の凛子には、不思議なほどその音が心地よく聞こえた。