軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 看護師なんだから介護くらいできるだろ?

第1話 看護師なんだから介護くらいできるだろ?

五月の雨が静かに降っていた。

大学病院の救命救急センターを出た森田凛子は、重い足取りで駅へ向かっていた。

白いナースシューズから履き替えた黒のパンプスが濡れたアスファルトを踏むたび、水たまりが小さく揺れる。

昨夜もほとんど休む暇はなかった。

深夜には大型バイクと乗用車の衝突事故。

明け方には脳梗塞患者の緊急搬送。

その合間にも救急車は何台も到着し、スタッフ全員が走り回っていた。

トリアージ、採血、点滴、家族対応。

気が付けば朝だった。

肩まである黒髪をひとつに束ねた凛子は、駅前のコンビニへ立ち寄った。

温かいカフェラテと卵サンドを買う。

本当はもっとちゃんとした朝食を食べたかった。

焼きたてのトーストとか、スクランブルエッグとか。

でも今は眠気の方が勝っている。

家に帰ってシャワーを浴びて寝る。

午後に起きたら簡単な夕飯を作ろう。

そんなことを考えながら電車に揺られていた。

結婚して三年。

夫の翼との関係は以前ほど甘くない。

それでも家は休める場所だった。

少なくとも今日までは。

マンションに着いたのは午前九時過ぎだった。

エレベーターを降り、自宅の前まで来た凛子は足を止める。

玄関の前に見慣れない靴が並んでいた。

女性物のパンプス。

それも一足ではない。

胸の奥がざわつく。

嫌な予感がした。

鍵を開ける。

すると煮物の甘い匂いが鼻をくすぐった。

テレビのワイドショーの音も聞こえる。

「ただいま」

凛子が声をかけると、

「あら、お帰りなさい」

聞き慣れた声が返ってきた。

義母の貴美子だった。

リビングへ入った瞬間、凛子は目を見開く。

大きなスーツケース。

段ボール箱。

衣装ケース。

見たことのないクッション。

明らかに短期滞在の荷物ではない。

「……どういうこと?」

凛子は思わず呟いた。

ソファに座っていた翼が顔を上げる。

「ああ、ちょうど良かった」

「何が?」

「今日から母さん一緒に住むから」

あまりにも軽い口調だった。

凛子は一瞬意味が理解できなかった。

「……一緒に住む?」

「同居だよ」

翼は笑う。

「最近母さん体調悪いだろ?」

義母も頷いた。

「一人暮らしは色々大変なのよ」

凛子は夫を見つめた。

「相談されてないけど」

「え?」

「私、聞いてない」

翼は心底不思議そうな顔をした。

「だから今言ったじゃん」

「そういう意味じゃない」

疲労で頭が痛い。

だがそれ以上に腹の底が冷えていく。

「どうして勝手に決めるの?」

「家族なんだから当たり前だろ」

翼は肩をすくめた。

その横で義母が口を開く。

「私ねぇ、最近膝も腰も痛いの」

同情を誘うような口調だった。

「でも安心したわ」

「何がですか?」

「凛子さんが看護師で」

嫌な予感がした。

「病院のことも分かるし、介護もできるでしょう?」

凛子は黙った。

「看護師なんだから介護くらい得意よね?」

当然のような笑顔だった。

その言葉に、救命センターの慌ただしい光景が頭をよぎる。

人工呼吸器。

心電図モニター。

救命処置。

命を救うため必死に働く同僚たち。

その全てをひっくるめて、

「介護くらい」

で済まされた気がした。

「看護師と家族介護は違います」

凛子は静かに言った。

しかし翼は笑う。

「でもできるじゃん」

「仕事だからやってるの」

「同じだろ」

同じ。

その一言が胸に刺さる。

何年も勉強した。

国家試験も受けた。

新人時代は泣きながら働いた。

それら全部を、

「同じだろ」

で片付けられた。

さらに翼は続けた。

「通院の付き添いも頼むな」

「え?」

「薬の管理とかもさ」

「ちょっと待って」

凛子は額を押さえた。

「私、夜勤もあるんだけど」

「だったら減らせば?」

あっさりと言われた。

「母さんの方が大事だろ」

凛子は絶句した。

その時だった。

義母が立ち上がった。

「あ、ちょうど良かったわ」

台所からスーパーの総菜袋を持ってくる。

「お昼の準備お願いね」

「……え?」

「あと和室も掃除機かけてほしいの」

凛子は義母を見た。

「私、夜勤明けなんです」

「だから?」

きょとんとした顔。

本気で分かっていない。

「昨日から働き続けていて」

「でも若いんだから平気でしょう?」

義母は笑う。

翼まで頷いた。

「母さん慣れない引っ越しで疲れてるんだよ」

「翼……」

「少し動けばいいじゃん」

凛子の手の中でカフェラテの紙カップが潰れた。

温かかったはずの飲み物はもう冷えている。

「家族だろ?」

翼が言う。

家族。

その言葉がやけに遠く聞こえた。

彼らの言う家族とは何だろう。

相手の人生を勝手に決めることだろうか。

休息を奪うことだろうか。

資格も仕事も都合よく利用することだろうか。

窓の外では雨が降り続いていた。

灰色の空。

薄暗い部屋。

胸の奥がじわじわ冷えていく。

そしてその時、凛子は確かに聞いた気がした。

自分の中で何かがひび割れる音を。

まだ小さな亀裂だった。

けれどそれは、もう元には戻らない種類の亀裂だった。