作品タイトル不明
第八十三話 剣閣の価格破壊
定軍山での「損切りカウンター」によって、
蜀軍の最精鋭を退けた曹操軍。
しかし、彼らの前に立ちはだかったのは、
天をも穿つ険峻な断崖絶壁――「剣閣」であった。
数万の兵がいても、
百人の伏兵で守り切れるとされる不落の要塞。
「……峻殿、これは物理的に不可能です。
力攻めをすれば、我が軍の歩留まりは一割以下、文字通りの『資本割れ』を起こします」
韓恢(かんかい) が、あまりの絶壁を見上げて書類を震わせる。
峻は、冷たい風が吹き抜ける本陣で、算盤の珠を静かに弾いた。
「……韓恢殿。
不落の城などというものは、
この世に存在しません。
……人が守っている以上、
そこには必ず『維持費』が発生しているからです」
峻は、剣閣の守備兵たちがどこから糧食を得ているかを逆算した。
彼らの背後にあるのは、 益州(えきしゅう) の豊かな盆地。
だが、諸葛亮が相次ぐ戦費調達のために、
その盆地の農民たちに重い「前借り(増税)」を課していることを、
峻の帳簿はすでに掴んでいた。
峻が打ち出したのは、兵器の製造ではなく、
「国境線でのハイパーインフレ誘発」だった。
峻は、剣閣の目と鼻の先にある交易所に、
定軍山で回収した「新魏通宝」と、
中原から運ばせた大量の塩や絹を「ただ同然の価格」で市場に流した。
「――剣閣を守る蜀の兵たちに告ぐ。
貴方たちが命をかけて守っている蜀の給与(米)は、
我が魏の市場では十中の一の価値しかない。
……今ここで武器を捨て、我々の『流通網』に登録すれば、
初任給としてこれだけの生活物資を保証する」
峻が仕掛けたのは、
武力による城攻めではなく、
蜀という「通貨圏」そのものの破壊だった。
剣閣を守る兵たちも、元は飢えた農民や、家族を養うための出稼ぎ兵だ。
諸葛亮が掲げる「大義」という目に見えない無形資産よりも、
目の前に突きつけられた「圧倒的な購買力」の差に、
末端の兵から順に心が融解していく。
「……報告! 剣閣の西門の守備隊が、
夜間に物資を求めて『脱走(魏への亡命)』しました! その数、すでに三百!」
「……峻。お前は本当に、
血を流さずに城の『価値』をゼロにしてしまうのだな」
本陣を訪れた曹操が、
一度も剣を抜かずに敵の防衛線を自壊させていく峻の背中を見て
、感嘆の息を漏らす。
「……曹操様。……戦の目的は土地の破壊ではなく、
その土地が持つ『生産力』の吸収です。
……ボロボロに破壊した城を手に入れても、 修繕費(コスト) がかかるだけですから」
峻は、双眼鏡で剣閣の城門が内側から開くのを確認した。
「……諸葛亮殿。貴方がどれほど高潔な法を敷こうとも、
市場の原理という名の『重力』には逆らえない。……さあ、次の決算を始めましょう」
剣閣、無血開城。
事務屋の算盤が弾き出す「経済の暴力」が、
蜀の最後の防壁を、一銭の血も流さずに買い叩いた瞬間だった。