作品タイトル不明
第八十一話 忠誠の時価
定軍山の戦場に、
峻が用意した「新魏通宝」を積んだ馬車が並ぶ。
その光り輝く銅銭と、
漂い始める炊き出しの肉の香りは、
長年の北伐と質素倹約で、
疲弊した蜀の将兵にとって、
いかなる伏兵よりも残酷な一撃となった。
「これは戦ではない。市場の乗っ取りだ」
蜀の本陣で、
諸葛亮の側近たちが顔を青くして報告する。
前線の兵たちの間に、明らかに動揺が広がっていた。
手に持った槍は下がり、視線は峻が提示した、
「給与の明細」に釘付けになっている。
諸葛亮の「仁義」という理想は、
空腹という名の「現実の欠損」の前に、
急速にその価値を減損させていた。
だが、諸葛亮は動じなかった。
彼は静かに羽扇を閉じ、
背後に控える一人の将、
――老将・ 黄忠(こうちゅう) に目配せをした。
「峻殿、貴殿の計算は確かに正しい。
だが、一つだけ計算に入れ忘れた変数がある」
諸葛亮の声が、戦場に響き渡る。
「……何です? 私の帳簿に漏れなどありません」
峻は算盤を叩く手を止め、不敵に笑う。
「……それは、『過去への投資』だ」
その瞬間、黄忠が率いる一隊が、
金に目を奪われた兵たちの間を縫うように突進した。
彼らは金に目もくれず、
ただ一直線に曹操軍の本陣、
――峻が守る「金庫(馬車)」へと肉薄する。
「なっ……買収に応じないだと!?
報酬は蜀の三倍だぞ!」
驚愕する韓恢に、峻は冷徹な眼差しで答えた。
「……いえ、違います。
彼らは『金』を否定しているのではない。
……諸葛亮という経営者が積み上げてきた、
十年の『信頼』という名の積立金を、
今ここで一気に引き出そうとしているのです」
黄忠の矢が、峻の足元に突き刺さる。
諸葛亮は、峻の経済攻勢を逆手に取った。
曹操軍が「金」で兵を釣ろうと弛緩したその瞬間を、
最も忠誠心の高い、
「 精鋭資産(オールドガード) 」で突く。
それは、短期的な利益に目がくらまない、
「固定株主」による、強引な経営権の防衛だった。
「……相討ち、ですか」
峻は、迫りくる黄忠の軍勢を見ながら、
自身の帳簿に「予想外の特別損失」を書き加えた。
「諸葛亮殿。
貴方は、民を飢えさせてまで、
その『美学』を維持するつもりですか」
「峻殿、飢えは満たせますが、
一度失った『誇り』は、
いかなる大金でも買い戻せません。
……我らはこのまま、貴殿の算盤を、
叩き壊させていただきます」
定軍山の霧の中に、黄忠の咆哮が轟く。
事務屋の論理が、
英雄の意地によって一時的な「債務超過」に陥る。
峻は初めて、
数字では測れない、
「感情という名のバイアス」の恐ろしさを、
その身で味わうことになった。