作品タイトル不明
第七十二話 損切りの決断
「――火だ! 鎖を解け! 斧を持ってこい!」
悲鳴と怒号が、長江の夜を支配した。
黄蓋が放った火船が連環の船団に接触した瞬間、
峻が危惧していた「連鎖倒産」が現実のものとなった。
炎は鎖を伝い、一つの船から次へと、
まるで血を吸う化け物のように増殖していく。
「峻殿! 手が付けられません!
すべてが……すべてが燃えています!」
韓恢(かんかい) が、煤で顔を汚しながら叫ぶ。
峻は、燃え盛る炎を反射する眼鏡の奥で、
恐ろしいほど静かに算盤を弾いていた。
「……現在、全資産の三割が焼失。
延焼速度から逆算すれば、
あと一刻(二時間)で全滅。
……救えるのは、風上の一部のみです」
「何を言っているのですか! 早く消火を!」
「不可能です。
火を消すコストが、
船の残存価値を上回りました」
峻は、自身の腰に帯びていた護身用の短刀を抜き、
目の前の係留索を指し示した。
「――全軍に伝達!
燃えている船を救おうとするな!
まだ火が移っていない第十、第十二、
第十五大隊の船団を、
物理的に『切り離せ』!
燃えている船は、
そのまま『盾』として使い、
敵の追撃を阻む防波堤に転換します!」
それは、数万の兵を見捨て、
残ったわずかな「資本」を確実に守り抜くための、
血も涙もない「損切り」の宣告だった。
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「峻! 私の船団が……天下を獲るための私の牙が!」
曹操が、燃え落ちる旗艦を呆然と見つめていた。
峻は、曹操の腕を強く掴んだ。
「曹操様!
船も兵糧も、
失ったものはすべて『経費』です!
ですが、貴方という『最大資産』を失えば、
この国は完全に倒産します!
命の決算を間違えないでください!」
峻の叫びに、曹操の瞳に冷徹な光が戻った。
「……フン、高い経費だな。
だが峻、お前の言う通りだ。
……生きてさえいれば、いずれこの赤字、
百倍にして取り返してやるわ!」
峻は曹操を小船へと押し込み、
自らも乗り込んだ。
背後では、
連結された船団が巨大な火柱となって崩れ落ちていく。
それは峻がこれまで積み上げてきた
「正確な数字」が、唯一計算できなかった
「人の狂気と自然の猛威」によって無に帰す音だった。
「……韓恢殿、帳簿を」
「……えっ、この状況で?」
「負け戦こそ、一銭の誤差も許されません。
……どれだけ失い、何が残ったか。
それを把握できなければ、
再起という名の『新規事業』は立ち上げられませんから」
火の粉が舞う中、峻は震える手で、
煤けた帳簿に「大赤字」の一行を書き加えた。
赤壁の敗北。
しかし、事務屋の執念は、
この地獄の底からでも、
「次なる黒字」への逆転劇を書き換えようとしていた。