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作品タイトル不明

第六十五話 南風の予兆

鄴(ぎょう) の街は、

峻が仕掛けた市場介入によって、

かつてない平穏を取り戻していた。

物価は安定し、旧袁紹軍の捕虜たちは、

今や曹操軍のインフラを支える熟練の労働力として、

帳簿上の「純資産」へと書き換えられている。

「……峻殿、北方全域の兵糧備蓄、

および輸送路の整備が完了しました」

韓恢(かんかい) が、

達成感に満ちた表情で報告する。

峻は、完成したばかりの「北中原物流網図」を広げ、

満足げに頷いた。

「……ご苦労様でした。

これで、我軍はどこへ進むにしても、

飢えに怯えることなく十万の兵を動かせる。

……ようやく、事務屋としての、

『最低限の仕事』が終わりました」

だが、峻の視線は地図の端、

さらに南へと向けられていた。

そこには、

峻がこれまで扱ってきた「大地」とは異なる、

不確定な数字の塊

――「水(長江)」が横たわっている。

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その夜、曹操に呼び出された峻は、

郭嘉と共に広大な庭園に立っていた。

南から吹く風は、

冬の終わりを告げるように生温かい。

「……峻よ。

お前が整えたこの豊かな北の地を、

私は愛している」

曹操は遠くを見つめながら、静かに語り出した。

「だが、この豊かさを、

天下全ての民に届けるには、

まだ足りぬものがある」

「……長江ですね」

峻が短く答えると、曹操はニヤリと笑った。

「そうだ。南の孫権、そして逃げ延びた劉備。

……奴らは水の壁に守られ、

我らの帳簿の外で息を潜めている。

……峻、お前の算盤で、

あの広大な水面を支配することは可能か?」

峻は、風に乗って運ばれてくる、

湿り気を肌で感じた。

船の建造費、

水夫の育成コスト、

そして何よりも「疫病」という、

予測の極めて困難なマイナスの変数。

「……正直に申し上げれば、水上の戦いは、

陸のそれよりもはるかに『歩留まり』が悪い。

……ですが」

峻は眼鏡を外し、丁寧に拭き上げた。

「……川の流れも、風の向きも、

突き詰めれば『法則』という名の数字です。

……私が計算できないものは、

この世に存在しません」

「……ははは! 頼もしいな」

郭嘉が、少し顔色の悪い肌を、

月光に晒しながら笑う。

「……だが峻、

南の風は気まぐれだぞ。

お前の算盤の珠を、狂わせるほどにな」

「狂えば、その都度弾き直すまでです」

峻の言葉に、曹操は力強く頷いた。

「……よし。全軍に布告せよ。

……これより、南下を開始する」

事務屋の戦場は、乾いた大地から、

湿った大河へと移る。

それは、峻の人生において最も巨大な、

「赤字リスク」を孕んだ、赤壁への第一歩だった。