作品タイトル不明
第六十三話 覇権の維持費
官渡での勝利は、曹操軍に広大な領土をもたらした。
しかし、峻にとってそれは、
喜ばしい成果であると同時に、
「管理すべき負債」の激増を意味していた。
「……信じられんな。
袁紹はこれほどの無駄を抱えたまま、
軍を動かしていたのか」
峻は、接収したばかりの 鄴(ぎょう) の政庁で、
積まれた書類の山を前に絶句していた。
そこには、機能していない徴税システム、
賄賂が常態化した役人のリスト、
そして実態のない「幽霊兵士」に、
支払われ続けていた莫大な給与の記録が並んでいた。
「峻殿、お顔の色が優れませんな。
天下の半分を手中に収めたというのに」
韓恢が、苦笑しながら茶を差し出す。
「……天下の半分ではありません。
……これは、天下の半分に相当する『不純物』です」
峻は、算盤の珠を一気に払い落とした。
「いいですか、韓恢殿。
領土が広がったということは、
維持すべき道、守るべき壁、
養うべき民が倍増したということです。
……今のままの袁紹流の管理を続けていれば、
我が軍は勝利の重みで自壊します」
峻が直面したのは、
武勇では解決できない「統治の赤字」だった。
彼は即座に、新しい政令の草案を書き始めた。
それは、旧袁紹領の役人たちを戦慄させる、
徹底的な「資産査定」の開始宣言だった。
----
数日後。
峻は、曹操の許可を得て、ある大胆な行動に出た。
旧袁紹軍の捕虜となった将兵たち数万人を、
広場に集めたのだ。
「……殺されるぞ」
「あるいは、奴隷として酷使されるか」
怯える兵たちの前に、
峻は武器ではなく、
一束の「契約書」を持って現れた。
「――静粛に。
……私は曹操軍の事務官、峻である」
峻の声は、冷徹だが隅々まで通った。
「諸君に提案がある。
……諸君がこれまで袁紹軍で受けていた給与。
……それを精査した結果、
その四割が中間搾取で消えていたことが判明した」
どよめきが広がる。
峻は構わず続けた。
「我が軍は、
諸君を兵として再雇用するつもりはない。
……代わりに、この鄴の再開発に従事する、
『建設作業員』として雇用する。
……給与は、諸君が袁紹軍で実際に、
手に入っていた額の二割増しとする。
……ただし、中抜きの余地はない。
……すべて、私が管理する帳簿から直接支払われる」
「……二割増しだと!?」
「略奪もなしに、
真っ当な金がもらえるというのか?」
峻が提示したのは、慈悲ではない。
「訓練されていない兵」を養うコストと、
「熟練の労働力」として、
インフラ整備に回す利益を天秤にかけ、
後者の方が圧倒的に、
「健全」であるという計算の結果だった。
----
その様子を遠くから眺めていた郭嘉が、
曹操の隣で肩をすくめた。
「……曹操様。あの男、
ついに『人の心』まで、
数字で買い叩き始めましたよ」
「……それで良い。
……峻が数字を刻むたびに、
私の覇道はより強固な石垣となっていく」
峻は、沸き立つ元捕虜たちの騒ぎを無視し、
次の帳簿へとペンを走らせた。
事務屋の覇道。
それは、剣の届かない場所にまで、
「納得」という名の数字を届けることから始まる。