作品タイトル不明
第六十話 欠落の誘い
官渡(かんと) の戦線は、
奇妙な膠着状態に陥っていた。
袁紹軍の圧倒的な兵数は、
確かに曹操軍を圧迫している。
だが、不思議なことに、
前線の曹操軍に「悲壮感」はなかった。
「……峻殿、本日の『調整』、完了した」
韓恢(かんかい) が、
泥にまみれた帳簿を峻の前に置いた。
峻は眼鏡の奥の目を細め、
その数字を精査する。
「……よろしい。敵の北側陣地には、
予定通り『三日分の食料』を。
南側には『一日分』を。
……そして、中央の精鋭部隊には、
『空の袋に詰められた砂』を、
送り届けたのですね?」
「ああ。
お前の指示通り、
輸送隊の一部をわざと敵に襲わせ、荷を奪わせた。
……今頃、袁紹軍の中央部隊は、
自分たちだけが軽んじられていると、
憤慨しているはずだ」
峻が仕掛けたのは、
物理的な攻撃よりも残酷な「分配の格差」だった。
同じ軍でありながら、
食べる者と飢える者が生まれる。
その「不平等」という名の数字のバグは、
組織の結束を内側から食い破っていく。
「……峻。お前、本当に性格が悪いな」
郭嘉が、天幕の隅で酒を煽りながら笑う。
「性格の問題ではありません、郭嘉殿。
……人は『全員が飢えている』状態には、
耐えられますが、
『自分だけが飢えている』状態には、
耐えられない。
……私はただ、
彼らの帳簿に『不公平』という項目を、
書き加えただけです」
峻は立ち上がり、
官渡の戦場を一望できる丘へと向かった。
眼下には、袁紹軍の巨大な陣営が広がっている。
一見、堅牢に見えるその陣も、
峻の目には「管理不全」を起こしかけた、
巨大な瓦礫の山にしか見えなかった。
「……曹操様。準備は整いました」
峻の背後に、漆黒の外套を翻した曹操が現れる。
「……待たせたな、峻。
事務屋が削り出した『綻び』、
私が直接、引き裂きに行くとしよう」
「はい。……今夜、 烏巣(うそう) の、
兵糧庫の警備が、最も『薄くなる時間』を、
計算しました。
……守備兵たちは空腹と不満で、
交代の時間を守る気力を失っています」
峻が指し示した時刻。
それは、数万の軍勢が、
たった一人の事務屋の算盤によって、
歴史の闇へと葬られる瞬間の始まりだった。