作品タイトル不明
第9話 連鎖する「ざまぁ」
第9話 連鎖するざまぁ
辺境領の中央広場には、つい先ほどまで祝福の笑い声が満ちていた。
石造りの噴水の周囲には長い木のテーブルが並べられ、焼きたての黒パンの香ばしい匂いが漂っている。大鍋では羊肉と根菜のスープがぐつぐつと音を立て、果実酒の甘い香りが夏の風に乗って広場を満たしていた。
領民たちは辺境伯アルベルトとエレノアの婚約を祝い、歌い、踊り、子供たちは花びらを投げて駆け回っていた。
しかし今、その賑わいは嘘のように消えていた。
誰もが息を呑み、一人の男を見つめている。
レナードだった。
長旅の埃にまみれた外套を羽織り、頬は痩せ、目の下には濃い隈ができている。それでも彼は、かつて騎士団長として周囲を見下していた頃と同じ顔をしていた。
自分が拒絶されるなど考えていない顔だった。
「迎えに来た」
静まり返った広場に、その声だけが響く。
アルベルトは無言でエレノアの前へ半歩出た。
まるで彼女を守る盾のように。
「帰れ」
低く短い声だった。
しかしレナードは鼻で笑った。
「部外者は黙っていてくれ」
その瞬間、周囲の騎士たちの顔が引きつる。
辺境伯本人を部外者呼ばわりする人間など初めて見た。
だがレナードは気づいていない。
彼の視線はエレノアだけに向いていた。
「エレノア」
昔と同じ口調だった。
諭すような。
聞き分けの悪い子供を叱るような。
「もう意地を張るのはやめろ」
エレノアは静かに彼を見つめた。
以前なら胸が痛んだだろう。
怒らせてはいけない。
失望させてはいけない。
そう考えて、自分を押し殺してきた。
けれど今は違う。
胸は驚くほど静かだった。
目の前にいるのは、かつて人生の全てだった人ではない。
ただの他人だった。
レナードは胸元から書類を取り出した。
上質な羊皮紙だった。
公爵家の紋章入りの封印が押され、豪華な金糸で縁取られている。
「これを持ってきた」
「何ですか?」
「契約書だ」
レナードは満足そうに頷く。
「婚約関係を再構築するためのものだ」
広場がざわついた。
エレノアは書類を受け取る。
羊皮紙を開き、内容を読み始めた。
そして数秒後、小さく笑った。
そこに書かれていたのは以前と何も変わらない条件だった。
正妃はエレノア。
側妃はセリア。
公爵家への奉仕義務。
治療業務。
社交業務。
秘書業務。
要するに、以前と同じだった。
いや、以前より酷い。
謝罪はない。
反省もない。
感謝もない。
当然のように働けとだけ書いてある。
レナードは得意げに言った。
「理解しただろう?」
その言葉に周囲の空気が冷えた。
アルベルトは無言だった。
エレノアは羊皮紙を閉じる。
青空を見上げた。
白い雲がゆっくり流れている。
風が吹き抜け、花壇のラベンダーが揺れた。
子供たちの笑い声が遠くから聞こえる。
穏やかな夏の日だった。
だからこそ決断は鮮やかだった。
エレノアは近くの給仕台へ歩く。
銀の食器の中から一本のペーパーナイフを手に取った。
磨き上げられた刃が陽光を反射する。
レナードは首を傾げた。
「何をするつもりだ?」
エレノアは答えなかった。
羊皮紙をテーブルの上へ広げる。
そして静かに刃を置いた。
スッ――。
鋭い音が響く。
羊皮紙は真っ二つに切断された。
広場が静まり返る。
さらにもう一度。
そしてもう一度。
契約書は細かく切り分けられていった。
風が吹く。
白い紙片が空へ舞い上がる。
まるで冬の初雪のようだった。
「な……」
レナードの顔が青ざめる。
「何をしている!」
エレノアは最後の一片を手放した。
「不要ですので」
「不要だと?」
「はい」
「何を馬鹿なことを!」
レナードが叫ぶ。
「君は僕の婚約者だぞ!」
「違います」
「違わない!」
「違います」
エレノアの声は静かだった。
怒りもない。
悲しみもない。
だからこそ残酷だった。
「私はあなたを捨てました」
レナードの顔から血の気が引く。
「君は僕を理解してくれるはずだろ!」
ついに叫んだ。
広場が静まり返る。
領民たちは息を呑み、騎士たちは腕を組んだまま動かない。
エレノアは彼を見つめる。
そして穏やかに頷いた。
「ええ」
レナードの目に希望が灯る。
だが次の瞬間、その光は打ち砕かれた。
「あなたが無能で身勝手な人間だということは、今や痛いほど理解しています」
空気が凍った。
「だから捨てたのです」
レナードは言葉を失う。
「あなたは一度も私を見ませんでした」
エレノアは続ける。
「治療師として使い」
「秘書として使い」
「社交の盾として使い」
「感情のゴミ箱として使った」
レナードの唇が震える。
反論できない。
全て事実だった。
「そして全てを『理解してくれるだろう』の一言で済ませてきた」
エレノアは小さく微笑む。
「私は理解していました」
その笑顔は優しかった。
だからこそ残酷だった。
「だから去ったのです」
レナードはよろめく。
初めてだった。
エレノアから完全に否定されたのは。
その時だった。
遠くから馬の蹄の音が響いた。
土煙を上げながら王都の近衛騎士たちが広場へ駆け込んでくる。
先頭の騎士が叫んだ。
「レナード・グランディス!」
レナードが振り返る。
嫌な予感がした。
騎士は王家の紋章入り封書を差し出す。
「王命である」
震える手で封を切る。
中身を読んだ瞬間、顔色が変わった。
手から書状が落ちる。
騎士が冷たく読み上げた。
「レナード・グランディスを騎士団長職より解任」
ざわめきが広がる。
「公爵家継承権を剥奪」
さらに大きなどよめき。
「重大な職務放棄および管理責任を認定」
レナードは立ち尽くした。
全てが崩れていく。
地位も。
名誉も。
未来も。
そして。
エレノアも。
近衛騎士が歩み寄る。
「王都へ同行願う」
「待て……」
「拒否権はない」
レナードは最後の望みを込めてエレノアを見る。
かつてなら助けてくれた。
何度でも支えてくれた。
理解してくれた。
だが今。
エレノアは動かなかった。
アルベルトの隣に立ち、静かに見つめているだけだった。
その姿を見た瞬間。
レナードはようやく理解した。
本当に終わったのだと。
二度と取り戻せないのだと。
夕陽が広場を赤く染める。
黄金色の光の中で、エレノアはもう彼の手の届かない場所に立っていた。