作品タイトル不明
第10話 辺境に咲く、本当の笑顔
第10話 辺境に咲く、本当の笑顔
辺境領に秋が訪れていた。
夏の盛りを過ぎた大地は黄金色に染まり、収穫を迎えた麦畑が風に揺れている。空は高く澄み渡り、どこまでも青かった。
その頃、王都では別の風が吹いていた。
冷たく、容赦のない風だった。
かつて公爵家の嫡男として将来を約束されていたレナードは、今では王都の片隅にある安宿の一室で椅子に座り込んでいた。
狭い部屋だった。
湿気を含んだ壁。
軋む床板。
薄汚れた窓。
豪華なシャンデリアも絨毯もない。
机の上には固くなった黒パンと水だけが置かれていた。
レナードはそれを見つめたまま動かなかった。
騎士団長の地位は失った。
継承権も失った。
公爵家からも追放された。
残ったのは莫大な負債だけだった。
王都の人々は冷たかった。
いや、以前から冷たかったのかもしれない。
ただエレノアが全てを処理していたから気付かなかっただけで。
扉が勢いよく開く。
セリアだった。
高価なドレスはすでに売り払われ、今は安物の服を着ている。
「もう嫌!」
彼女は叫んだ。
「こんな生活!」
レナードは疲れた目で見上げる。
「声を下げろ」
「下げません!」
セリアは机を叩いた。
「何とかしてください!」
「無理だ」
「無理じゃありません!」
「無理だ」
その一言にセリアは顔を歪めた。
「あなた、本当に役立たずですわね」
レナードは何も言わない。
以前なら怒っただろう。
しかし怒る気力も残っていなかった。
セリアは舌打ちする。
「わたくし、別の方に相談してみます」
そう言って出ていった。
だが一週間後。
泣きながら戻ってくることになる。
彼女が頼った男は、金目当てだった。
残り少ない宝石を持ち逃げされ、捨てられたのである。
レナードは何も言わなかった。
慰める気にもなれなかった。
かつて二人が夢見ていた理想の未来は、跡形もなく崩れ去っていた。
一方、エレノアの実家である伯爵家もまた没落への道を歩んでいた。
これまでエレノアが整理していた財務は混乱し、借金が発覚した。
取引先との関係も悪化する。
社交界での信用も失われた。
伯爵は怒鳴り散らしていた。
「なぜこんなことになる!」
だが誰も答えられない。
いや、本当は皆分かっていた。
エレノアがいなくなったからだ。
彼女はずっと家を支えていた。
それを当然だと思っていた者たちが、その代償を支払う番になったのである。
そして。
同じ頃。
辺境領では結婚式の準備が進んでいた。
診療所は休診。
市場は祭り一色。
領民たちは皆、忙しく動き回っている。
「花はここに飾れ!」
「パンはもっと焼くぞ!」
「羊を追加で捌いてくれ!」
笑い声があちこちから聞こえる。
まるで自分たちの家族の結婚式のようだった。
診療所の奥の部屋では、マリアが涙ぐんでいた。
「お嬢様……」
「どうしたの?」
「綺麗すぎます」
エレノアは照れたように笑う。
純白のドレスを身にまとっていた。
王都の流行を追った豪華なものではない。
辺境の職人たちが心を込めて仕立てたドレスだった。
胸元には母の形見の真珠。
髪には野の花で作った花冠。
派手ではない。
だが温かかった。
鏡の中の自分を見つめる。
昔の自分なら信じられなかっただろう。
こんな顔で笑える日が来ることを。
やがて鐘が鳴る。
結婚式の始まりだった。
空は雲ひとつない青空だった。
広場には領民たちが集まっている。
子供たちは走り回り、大人たちは笑顔で話している。
焼き立てのパンの香り。
果実酒の甘い匂い。
花々の香り。
全てが祝福しているようだった。
祭壇の前にはアルベルトが立っている。
いつもの黒い服ではない。
濃紺の礼装に身を包み、少しだけ緊張した顔をしていた。
エレノアが現れた瞬間。
広場から歓声が上がる。
「聖女様!」
「おめでとうございます!」
「幸せになってください!」
エレノアは歩き出した。
一歩ずつ。
一歩ずつ。
アルベルトの元へ。
その途中で不意に思い出す。
かつての自分を。
誰かの期待に応えようとしていた自分。
理解しなければならないと思っていた自分。
我慢することが優しさだと信じていた自分。
あの頃の笑顔は、きっとどこか苦しかった。
だが今は違う。
祭壇の前に立つ。
アルベルトがそっと手を差し出した。
「緊張しているか?」
小さな声で尋ねる。
エレノアは笑った。
「少しだけ」
「俺もだ」
「辺境伯様でも?」
「その呼び方は今日で終わりだろう」
思わず吹き出してしまう。
周囲からも笑い声が漏れた。
誓いの言葉が読み上げられる。
祝福の拍手が響く。
青空の下で二人は夫婦になった。
その瞬間。
広場から大歓声が上がった。
「おめでとう!」
「万歳!」
「乾杯だ!」
子供たちが花びらを投げる。
風が吹く。
白い花びらが舞い上がる。
アルベルトが隣で微笑んでいる。
領民たちが笑っている。
マリアが泣いている。
その光景を見た時。
エレノアの胸の奥にあった最後の氷が溶けた気がした。
もう誰かのために自分を殺さなくていい。
もう無理に理解しなくていい。
もう我慢しなくていい。
自分の人生を生きていいのだ。
そう思えた。
「エレノア」
アルベルトが呼ぶ。
「はい」
「幸せか?」
エレノアは空を見上げた。
澄み渡る青空。
黄金色の大地。
祝福の声。
そして隣にいる大切な人。
彼女は心から笑った。
それは今までの人生で一番自然で、一番美しい笑顔だった。
「はい」
その声はどこまでも晴れやかだった。
「とても幸せです」
辺境の空を渡る風が、二人を優しく包み込んでいた。
――完――