作品タイトル不明
第8話 辺境の聖女、その輝き
第8話 辺境の聖女、その輝き
北方辺境領に夏が訪れていた。
かつては荒れ地だった谷あいの村々には畑が広がり、風に揺れる小麦が黄金色の波を作っている。山から流れる清流は水車を回し、新しく建てられた診療所の白い壁が朝日に輝いていた。
市場は朝から賑やかだった。
焼きたての黒パンの香り。
燻製肉の香ばしい匂い。
採れたての野菜が並ぶ露店。
子供たちの笑い声。
荷馬車の車輪の音。
活気に満ちた光景を見ながら、エレノアは診療所の窓を開けた。
「先生、おはようございます!」
真っ先に飛び込んできたのは、かつて魔獣に襲われて大怪我を負った少年だった。
今では元気いっぱいに走り回っている。
「おはよう。今日は元気そうね」
「はい! 父ちゃんが先生に届けろって」
差し出された籠には真っ赤な林檎が入っていた。
「まあ、こんなに」
「今年は豊作なんです!」
少年は誇らしげに胸を張った。
エレノアは笑顔になった。
この一年で領地は大きく変わった。
治療院を整備し、応急処置を教え、衛生環境を改善した。傷口の消毒や飲み水の管理を徹底した結果、感染症は激減した。
怪我をしても早く治る。
病気も減る。
働ける人が増える。
領地が豊かになる。
その好循環が生まれていた。
もちろん、全てが彼女一人の功績ではない。
だが領民たちは口を揃えて言った。
「辺境の聖女様のおかげだ」と。
その呼び名には未だに慣れなかった。
診療を終えた夕方、エレノアは丘の上へ向かっていた。
夏草が風に揺れている。
遠くには青い山並み。
空には赤く染まり始めた夕焼け。
そこにはアルベルトがいた。
黒い上着の袖をまくり、訓練帰りなのか額には汗が滲んでいる。
「お待たせしました」
「いや、今来たところだ」
相変わらず不器用な返事だった。
エレノアは思わず笑う。
一緒に過ごす時間が増えるにつれ、アルベルトのことが少しずつ分かってきた。
口数は少ない。
愛想も良くない。
だが嘘をつかない。
約束を破らない。
そして何より、人を大切にする。
自分の利益のために誰かを犠牲にしない。
それはエレノアにとって新鮮な価値観だった。
二人は丘の上に腰を下ろした。
風が心地良い。
遠くで羊の群れが移動している。
しばらく沈黙が続いた。
だが気まずくはない。
静かな時間だった。
やがてアルベルトが口を開く。
「エレノア」
「はい」
いつもより声が硬い。
エレノアは首を傾げた。
アルベルトは何度か言葉を探すように黙り込み、それから意を決したように彼女を見た。
「俺は話すのが得意じゃない」
「知っています」
「だから上手く言えない」
「はい」
エレノアは微笑んだ。
アルベルトは深く息を吸う。
「お前が来てから、この領地は変わった」
「皆が頑張った結果です」
「違う」
アルベルトは首を振った。
「皆を変えたのはお前だ」
夕陽が彼の横顔を照らしていた。
真剣な表情だった。
「お前は優秀だ」
エレノアは目を伏せる。
昔なら褒め言葉を素直に受け取れなかった。
褒められるたびに、もっと働かなければと思っていた。
だが今は違う。
少しだけ受け止められる。
「ありがとうござます」
「それだけじゃない」
アルベルトは続けた。
「優しい」
「……」
「強い」
「……」
「そして」
彼は少し照れたように視線を逸らした。
「一緒にいると安心する」
エレノアの胸が熱くなる。
かつてレナードから言われた言葉を思い出した。
理解してくれるだろう。
我慢してくれるだろう。
君ならできるだろう。
いつも求められてばかりだった。
だがアルベルトは違う。
彼は何かを要求していない。
ただ、エレノア自身を見ている。
利用価値ではなく。
能力だけでもなく。
一人の人間として。
アルベルトが立ち上がる。
そして片膝をついた。
エレノアは息を呑んだ。
「エレノア」
彼の大きな手が差し出される。
「俺と結婚してくれ」
風が吹いた。
夏草がさわさわと揺れる。
遠くで鳥が鳴いた。
「お前の能力が欲しいからじゃない」
アルベルトは真っ直ぐ見つめてくる。
「お前が必要だからだ」
エレノアの目が熱くなった。
不思議だった。
泣きそうなのに悲しくない。
むしろ胸が温かい。
長い冬が終わった後の春のようだった。
彼女はゆっくりと手を伸ばす。
そして微笑んだ。
「はい」
アルベルトの手を取る。
「喜んで」
その瞬間、彼の顔が信じられないほど柔らかくなった。
エレノアは初めて見る笑顔に思わず笑った。
「そんな顔もできるんですね」
「今さら言うな」
二人は顔を見合わせて笑った。
その数日後。
辺境領は祝賀ムードに包まれていた。
市場では大鍋料理が振る舞われる。
香草を効かせた羊肉の煮込み。
焼き立てのパン。
蜂蜜をかけた果実の菓子。
領民たちは皆、自分のことのように喜んでいた。
「聖女様、おめでとう!」
「辺境伯様、幸せになってください!」
広場には笑顔が溢れている。
その時だった。
門番が慌てて駆け込んできた。
「辺境伯様!」
「どうした」
「王都から貴族が来ています!」
アルベルトの表情が引き締まる。
「名前は」
門番は困惑したような顔で答えた。
「レナード様と名乗っています」
エレノアの手が止まった。
広場の空気が変わる。
数分後。
一台の馬車が広場へ入ってきた。
そこから降りてきた男を見て、エレノアは驚いた。
やつれていた。
以前のような余裕はない。
目の下には隈がある。
服装は高価だが、どこか疲れ切っていた。
レナードはエレノアを見つけると安堵したように笑った。
「やっと見つけた」
そして当然のように歩み寄ってくる。
「エレノア」
その口調は以前と変わらない。
まるで彼女が少し家出しただけであるかのように。
「迎えに来た」
広場が静まり返る。
レナードは気付かない。
周囲の冷たい視線にも。
アルベルトの険しい表情にも。
「君も意地を張るのはやめろ」
そして最後に、とんでもない言葉を口にした。
「君の引っ込み思案にも付き合ってやる」
エレノアはしばらく黙っていた。
風が吹く。
夏空は青く澄んでいる。
そして彼女は静かに思った。
本当に何も分かっていなかったのだと。
この男は今もなお。
自分が捨てられたのではなく、自分が許してやる側だと思っているのだと。
エレノアはゆっくり顔を上げた。
その瞳に、もう迷いはなかった。