作品タイトル不明
第7話 崩壊する『理想の楽園』
第7話 崩壊する『理想の楽園』
夏が近づき始めた王都は、強い陽射しに包まれていた。
しかしレナードの屋敷には、季節とは無関係の重苦しい空気が流れていた。
執務室の机には書類が山のように積まれている。
騎士団からの報告書。
領地経営の決裁書類。
外交文書。
未処理の案件を示す赤い札が、まるで墓標のように突き刺さっていた。
レナードは目を閉じ、こめかみを押さえる。
頭痛が酷かった。
三日前には騎士団の遠征が延期になった。
負傷者の回復が間に合わなかったからだ。
昨日は隣国との商談が流れた。
必要書類が揃っていなかったからだ。
そして今日。
公爵家の予算報告書に重大な計算ミスが見つかった。
以前なら絶対に起きなかった失敗だった。
「くそっ……」
思わず悪態が漏れる。
机の上には昼食として運ばれた料理が並んでいた。
仔牛の煮込み。
焼きたてのパン。
冷製スープ。
高価な料理ばかりだ。
だがすっかり冷え切っていた。
一口も手を付ける気になれない。
そこへ執事がやってきた。
「レナード様」
「今度は何だ」
「セリア様がお待ちです」
レナードは深くため息をついた。
正直に言えば会いたくなかった。
だが婚約者を無視するわけにもいかない。
「通せ」
数秒後、セリアが部屋へ入ってきた。
淡い黄色のドレス。
高価な宝石。
美しく着飾っている。
だがその表情は不満げだった。
「レナード様」
「どうした」
「今夜の観劇ですが」
嫌な予感がした。
「何か問題でもあるのか」
「もちろんありますわ」
セリアは頬を膨らませた。
「わたくし、最前列で見たいのです」
「予約してある席では不満か?」
「不満です」
即答だった。
「王女殿下も来るそうですし」
「だから?」
「王女殿下より後ろの席なんて嫌ですわ」
レナードは黙った。
頭痛がひどくなる。
「今そんなことを言っている場合ではない」
「そんなこと?」
セリアの眉がつり上がる。
「わたくしにとっては大事なことですわ」
「今、公爵家は非常事態なんだ」
「またお仕事のお話ですの?」
セリアは露骨に嫌そうな顔をした。
「最近ずっとそればかりです」
「当然だろう」
レナードの声が少し荒くなる。
「問題が山積みなんだ」
「わたくしには関係ありませんわ」
その言葉に何かが切れそうになる。
以前なら、こんな会話にならなかった。
エレノアならどうしただろう。
たぶん困ったように笑って。
「大変ですね」
と言いながら書類を整理し。
必要なら観劇の手配も済ませ。
騎士団の予定も調整し。
全て丸く収めていた。
レナードは知らず知らずのうちに言っていた。
「少しは理解してくれ」
セリアが目を瞬く。
レナードは続けた。
「今は本当に忙しいんだ」
「君なら理解してくれるだろう?」
その瞬間だった。
空気が凍りついた。
セリアの顔色が変わる。
驚き。
困惑。
そして怒り。
「……は?」
レナードは違和感を覚えた。
なぜそんな顔をする。
エレノアはいつも受け入れていたのに。
「何よそれ」
セリアの声が震える。
「何がだ」
「理解してくれるだろう?」
彼女はその言葉を繰り返した。
「何ですの、それ!」
次の瞬間、悲鳴のような声が響いた。
「わたくしを蔑ろにするの!?」
レナードは呆気に取られる。
「違う」
「違わない!」
セリアは机を叩いた。
インク壺が揺れる。
「忙しいから我慢しろって言うんでしょう!?」
「今は事情が――」
「そんなの知りません!」
涙が浮かぶ。
だがエレノアの静かな涙とは違う。
怒りと不満に満ちた涙だった。
「最近ずっとそうです!」
「仕事!仕事!仕事!」
「わたくしより書類の方が大事なんですの!?」
「話を聞け」
「聞きません!」
ヒステリックな声が部屋中に響く。
「婚約した時は優しかったのに!」
「わたくしばかり我慢してる!」
「酷い!」
「最低ですわ!」
レナードは立ち尽くした。
どこかで聞いたような言葉だった。
いや。
聞いたことがない。
エレノアは一度も言わなかった。
一度も。
一度たりとも。
突然、過去の記憶がよみがえる。
負傷者で溢れる治療院。
疲れ切った顔。
眠れない夜。
自分は何と言った?
「婚約者としての義務だ」
「君なら分かってくれる」
「理解してくれるだろう」
いつもそう言っていた。
エレノアは黙って頷いた。
嫌な顔もしなかった。
怒鳴りもしなかった。
泣き叫びもしなかった。
だから平気なのだと思っていた。
理解しているのだと。
納得しているのだと。
しかし違った。
違ったのだ。
理解していたのではない。
耐えていたのだ。
我慢していたのだ。
犠牲になっていたのだ。
その事実が、今さら胸を突き刺した。
セリアは泣きながら部屋を飛び出していく。
扉が激しく閉まった。
静寂が戻る。
レナードは椅子に腰を落とした。
喉が渇いている。
手が震えている。
机の引き出しを開く。
そこには、あの置手紙が入っていた。
『都合のいい「理解ある婚約者」は、本日をもって廃業いたしました』
何度も読んだ文字。
だが今まで意味を理解していなかった。
都合のいい。
理解ある婚約者。
その言葉が胸に重くのしかかる。
「まさか……」
小さく呟く。
執務室の窓から夕陽が差し込んでいた。
赤い光が部屋を染める。
エレノアはいつもこの部屋で書類を整理していた。
時には夜遅くまで灯りをつけて。
自分が寝た後も。
自分が遊んでいる間も。
黙って働いていた。
その姿を思い出そうとして。
レナードは愕然とした。
思い出せない。
エレノアが笑っていた記憶が。
本当に幸せそうだった記憶が。
ほとんどない。
代わりに思い出すのは。
疲れた微笑み。
遠慮がちな返事。
そして。
「ええ、理解しました」
あの静かな声だけだった。
レナードの背筋を冷たいものが走る。
もし。
本当に。
もう二度と戻らないのだとしたら。
窓の外では夕焼けが沈み始めていた。
だがレナードには、それが何かの終わりを告げる光のように見えた。