作品タイトル不明
第6話 狂い始める歯車
第6話 狂い始める歯車
エレノアが王都から姿を消して三か月。
その影響は、少しずつ、しかし確実に広がり始めていた。
最初に異変が現れたのは騎士団だった。
春の終わりを迎えた訓練場には、重苦しい空気が漂っている。
いつもなら朝から剣戟の音が響き渡るはずだった。しかし今日は空いている場所が目立つ。
負傷者が多すぎるのだ。
「第三小隊、欠員六名!」
「第五小隊、四名欠席!」
「第七小隊はまだ三人復帰できません!」
報告を聞くたびに、レナードの眉間に深い皺が刻まれていく。
「何をしている!」
彼は机を叩いた。
「たかが怪我だろう!」
騎士団付きの治療師が青ざめながら答える。
「以前ならそうでした。しかしエレノア様ほどの治療術師はおりません」
「他の治療師がいるだろう!」
「おりますが……」
治療師は言葉を選ぶ。
「骨折を三日で治せる者はおりません」
「重度の筋断裂を一週間で戦線復帰させる者も」
「毒傷の後遺症を完全に消せる者も」
「おりません」
レナードは黙った。
そんなことは知らなかった。
エレノアが治していた。
だから治るのだと思っていた。
まるで水が蛇口をひねれば出るように。
当たり前に。
当然のように。
騎士団長が低い声で言う。
「我々はエレノア殿に頼りすぎていたのです」
その言葉にレナードは苛立った。
「だから何だ!」
「もういないのだから代わりを用意しろ!」
しかし誰も返事ができない。
代わりがいないから困っているのだ。
その頃、公爵家本邸でも混乱が起きていた。
執務室の机には書類が山積みになっている。
外交文書。
予算書。
領地運営報告。
貿易契約。
税収報告。
どれも処理待ちだった。
秘書官たちは疲れ切っていた。
「この書類は誰が確認するんだ?」
「分からない」
「以前はエレノア様が」
「こちらもエレノア様だった」
「こっちもだ」
皆が顔を見合わせる。
気付けば恐ろしい事実が判明していた。
公爵家の実務の大半をエレノアが担っていたのである。
誰も知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
彼女は文句を言わず処理していた。
だから皆、勝手に仕事が終わるものだと思っていたのだ。
数日後。
隣国との重要な外交会議。
本来なら一週間前に送るはずだった確認文書が未提出だった。
その結果、使節団の到着日がずれ込み、大問題になる。
「誰だ!」
レナードの怒鳴り声が屋敷中に響く。
「誰が担当だった!」
執事が震えながら答える。
「エレノア様です」
「またか!」
机の上のインク壺が倒れる。
黒い染みが広がった。
レナードは頭を抱えた。
なぜだ。
なぜ何もかもエレノアなのだ。
そんなはずがない。
たかが一人の女だろう。
その日の夕食。
豪華な食卓が用意されていた。
ローストした仔羊肉。
白ワインのソース。
香草サラダ。
海老のスープ。
だがレナードに食欲はなかった。
ナイフを握ったまま苛立たしげに言う。
「セリア」
「はい?」
「少しは手伝え」
セリアはきょとんとした。
「何をですの?」
「書類だ」
「書類?」
「エレノアがやっていた仕事だ」
セリアは露骨に顔をしかめる。
「わたくし、そういう難しいことは……」
「やれと言っている!」
レナードの声が大きくなる。
セリアはびくりと肩を震わせた。
「でも、数字なんて見たくありませんわ」
「見ろ!」
「頭が痛くなります!」
「だから何だ!」
レナードは立ち上がった。
「エレノアは全部やっていたぞ!」
その瞬間。
食堂が静まり返る。
レナード自身も気付かなかった。
今、自分が何を言ったのか。
セリアの顔が歪む。
「比較しないでください!」
「何?」
「エレノア様と比べないで!」
涙がぽろぽろ零れ始めた。
「わたくしは治療師じゃありません!」
「書類仕事なんてできません!」
「外交も知りません!」
「そんなこと言われても無理です!」
そして泣き崩れた。
「ひどいですわ!」
そのまま食堂を飛び出していく。
レナードは呆然とした。
以前なら。
こんな時もエレノアがいた。
泣くセリアを慰め。
書類を片付け。
外交文書を確認し。
負傷者を治療し。
皆の機嫌を取り。
問題を解決していた。
だから自分は何もしなくてよかった。
ふと気付く。
食卓に並ぶ料理も、以前はもっと整っていた。
行事の日程も。
来客対応も。
贈答品の管理も。
全部。
全部。
エレノアだったのではないか。
その夜。
執務室には灯りが遅くまでついていた。
レナードは書類の山に埋もれている。
目が痛い。
肩が凝る。
数字が分からない。
外交文書も難解だ。
「こんなもの……」
彼は苛立たしげに書類を投げた。
「なぜ誰もできないんだ!」
部屋には誰もいない。
返事もない。
ただ時計の音だけが響いている。
カチ、カチ、と。
やがてレナードは引き出しを開けた。
そこにはあの手紙が入っている。
『都合のいい「理解ある婚約者」は、本日をもって廃業いたしました』
その文字を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
だが彼はすぐに首を振る。
「馬鹿らしい」
どうせ戻る。
いつか戻る。
そう思っていた。
しかしその確信は、以前ほど強くなかった。
一方その頃。
北方辺境領では、エレノアが診療を終えていた。
窓の外では夕陽が山々を赤く染めている。
「ありがとうございました!」
患者たちが笑顔で帰っていく。
診療所の机には手作りのクッキーや果物が並んでいた。
感謝の品だった。
エレノアは微笑む。
王都で誰かのために働いていた頃より、今の方がずっと疲れていない。
不思議なことだった。
その時、アルベルトが顔を出す。
「終わったか」
「はい」
「夕食を食べに来い」
「またですか?」
「まただ」
アルベルトは真顔だった。
「一人で食べると味が分からん」
エレノアは思わず笑った。
「分かりました」
夕暮れの風が優しく吹き抜ける。
その頃王都では、誰もがようやく気付き始めていた。
エレノアは単なる婚約者でも治療師でもなかった。
彼女は多くの人間が当然だと思っていた日常そのものだったのだ。
そして失って初めて、人はその価値を知る。
だがその頃にはもう。
彼女は手の届かない場所へ歩き始めていた。