作品タイトル不明
第5話 辺境での新しい風と、静かな癒やし
第5話 辺境での新しい風と、静かな癒やし
北方辺境領の春は、王都とは少し違っていた。
雪解けは遅く、朝晩の空気にはまだ冬の名残がある。それでも山肌には若草が顔を出し、谷間を流れる川は太陽の光を受けて銀色に輝いていた。
エレノアは治療院の窓を開けた。
ひんやりした風が頬を撫でる。
湿った土の匂い。
若葉の香り。
遠くから聞こえる羊の鳴き声。
王都では感じたことのない、生きた大地の息吹だった。
「院長先生!」
外から元気な声が飛んでくる。
振り向くと、十歳くらいの少年が木箱を抱えて立っていた。
頬を赤くしながら笑っている。
「今朝採れた卵です!」
「まあ、ありがとう」
「母ちゃんが持っていけって!」
木箱の中には卵がぎっしり並んでいた。
エレノアは思わず微笑む。
「あとでお礼を言っておいてね」
「はい!」
少年は元気よく走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、エレノアは不思議な気持ちになった。
王都では贈り物を受け取るたびに何かの見返りを警戒していた。
だがここでは違う。
本当に感謝しているから持ってくる。
それだけなのだ。
その日の昼過ぎ。
治療院へ騎士たちが運び込まれてきた。
魔獣討伐の帰りだった。
「院長先生!」
「こちらをお願いします!」
担架に横たわる若い騎士は腕を深く裂かれていた。
傷口から血が流れている。
だがエレノアは落ち着いていた。
「大丈夫です」
彼女は患者の額に手を当てる。
淡い光が指先から広がる。
傷口がゆっくり閉じていく。
肉が再生し、血が止まる。
騎士は驚いたように目を見開いた。
「痛みが……ない」
「無理はしないでくださいね」
「ありがとうございます!」
周囲の騎士たちも感嘆の声を漏らす。
「さすがだ」
「王都最高の治療師って本当だったんだな」
「これなら仲間も助かる」
エレノアは少し照れた。
褒められることに慣れていなかった。
以前なら同じ成果を出しても当然だと言われていた。
できて当たり前。
我慢して当たり前。
尽くして当たり前。
それが彼女の日常だった。
だから今でも時々戸惑う。
「先生」
年配の看護師が笑顔を向ける。
「お昼がまだですよ」
「え?」
「また忘れていましたね」
エレノアは時計を見る。
確かに昼を過ぎていた。
看護師は呆れながら言う。
「仕事熱心なのは良いですが、倒れられたら困ります」
「申し訳ありません」
「謝ることではありません」
その時だった。
治療院の扉が開く。
大きな影が現れた。
アルベルト辺境伯だった。
鍛えられた体。
日に焼けた肌。
分厚い毛織りの上着。
腰には長剣。
いかにも辺境の領主という姿だった。
「昼食は食べたか?」
開口一番それだった。
エレノアは少し気まずそうに視線を逸らす。
「まだです」
「そうか」
アルベルトは大きなため息をついた。
「またか」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
彼は後ろにいた従者へ言った。
「持ってきてくれ」
籠が差し出される。
中には焼きたての黒パン。
燻製肉。
チーズ。
リンゴ。
そしてまだ温かいスープの入った水筒。
香草の良い匂いが漂う。
「食べろ」
「ですがお忙しいでしょう」
「だから何だ」
アルベルトは真顔だった。
「医者が倒れたら患者が困る」
エレノアは思わず笑ってしまった。
「分かりました」
「全部食べろ」
「そんなに食べられません」
「食べろ」
「辺境伯様」
「食べろ」
二人のやり取りに周囲が吹き出す。
アルベルトは少し耳を赤くした。
「笑うな」
「失礼しました」
エレノアはくすくす笑いながらパンをちぎる。
香ばしい香りが広がった。
一口食べる。
美味しい。
それだけなのに胸が温かくなる。
ふと気づく。
以前ならこんなことはなかった。
誰かが自分の体調を気遣う。
食事を摂ったか確認する。
無理をするなと言う。
そんな当たり前のことがなかった。
レナードならこう言っただろう。
「婚約者としての義務だ」
「君ならできる」
「理解してくれるだろう」
だがアルベルトは違う。
できるからやれとは言わない。
まず人間として心配する。
それが彼には当たり前だった。
数週間後。
辺境領の負傷率は目に見えて下がっていた。
治療技術の向上。
応急処置の指導。
衛生環境の改善。
エレノアは治療だけでなく、予防にも力を入れていた。
「先生のおかげです」
騎士団長が頭を下げる。
「今年は死者が一人も出ていません」
「皆さんの努力ですよ」
「それでも感謝しています」
領民たちも口々に礼を言う。
市場へ行けば野菜をもらう。
パン屋へ行けば焼きたてのパンを渡される。
子供たちは花を摘んで持ってくる。
エレノアは戸惑った。
本当に戸惑った。
何かをしてもらうたびに胸がざわつく。
どうしてそんなに優しいのだろう。
ある日の夕方。
治療院の屋根裏で書類整理をしていた時だった。
窓の外が赤く染まっている。
夕陽が山を黄金色に照らしていた。
「ここにいたか」
アルベルトがやって来た。
「どうかしましたか?」
「散歩に行かないか」
「散歩?」
「嫌ならいい」
不器用な誘い方だった。
エレノアは思わず微笑む。
「行きます」
二人は並んで丘を歩いた。
風が心地良い。
草花が揺れている。
遠くで羊飼いが歌っていた。
しばらく無言が続く。
だが気まずくない。
静かな時間だった。
やがてアルベルトがぽつりと言った。
「無理はしていないか」
「え?」
「時々、お前は頑張りすぎる」
エレノアは立ち止まった。
その言葉に胸が少し痛む。
「……大丈夫です」
「嘘だな」
「分かりますか」
「分かる」
アルベルトは夕陽を見つめていた。
「昔の俺もそうだった」
しばらく沈黙が流れる。
そして彼は続けた。
「誰かの役に立つことでしか、自分の価値を感じられなかった」
エレノアは息を呑んだ。
まるで自分のことを言われているようだった。
「だが違う」
アルベルトは静かに言う。
「人は役に立つから大切なんじゃない」
風が吹いた。
夕陽が二人を照らす。
「生きているだけで大切なんだ」
エレノアは何も言えなかった。
胸の奥が熱い。
凍りついていた場所に、少しずつ春の水が流れ込むようだった。
涙はこぼれなかった。
けれど久しぶりに思う。
ここにいてもいいのかもしれない。
無理に理解しなくても。
誰かの都合のいい存在にならなくても。
ただ、一人の人間として。
その夜。
窓の外では満天の星が輝いていた。
王都では見えなかった星々だった。
エレノアは静かに空を見上げる。
胸の奥の氷はまだ全部は溶けていない。
けれど確かにひびが入り始めていた。
春の訪れは、思っていたよりずっと優しかった。