作品タイトル不明
第4話 置手紙と消えた聖女
第4話 置手紙と消えた聖女
エレノアが王都を発った日の朝は、雲ひとつない快晴だった。
空はどこまでも青く、春風は穏やかで、まるで旅立ちを祝福しているようだった。
まだ夜明けの名残が残る時間。
王都の北門から一台の馬車が静かに出ていく。
荷物は多くない。
衣類が数着。
治療術の専門書。
母の形見の真珠のペンダント。
そして人生をやり直すために必要なものだけ。
窓から見える王都は少しずつ遠ざかっていく。
石造りの城壁。
尖塔。
賑やかな市場。
エレノアは黙ってそれを見つめた。
涙は出なかった。
不思議なくらい穏やかだった。
まるで長い長い悪夢から目覚めた人間のように。
「お嬢様」
向かいに座るマリアが声を掛ける。
「本当に後悔なさいませんか」
エレノアは微笑んだ。
「しないわ」
「レナード様は怒ります」
「そうでしょうね」
「探しに来るかもしれません」
「来ないと思うわ」
エレノアは窓の外へ視線を向けた。
「あの人は、自分が捨てられるなんて考えたこともないもの」
マリアは何も言えなかった。
その通りだと思ったからだ。
同じ頃。
王都のレナード邸では、執事が青ざめた顔で廊下を走っていた。
「レナード様!」
朝食の席でレナードは焼きたてのパンを食べていた。
白いテーブルクロス。
ベーコンエッグ。
香草入りソーセージ。
温かなスープ。
そして向かいにはセリア。
相変わらず仲睦まじい朝だった。
「騒がしいな」
「大変です!」
「何だ」
「エレノア様が……」
執事は息を切らした。
「屋敷からいなくなりました」
レナードは一瞬だけ動きを止めた。
「いなくなった?」
「はい」
「どこへ?」
「それが……」
執事は一通の封筒を差し出した。
「こちらだけが残されております」
レナードは封を切る。
中には手紙が一枚。
そして婚約指輪。
長年エレノアが身につけていたものだった。
レナードは眉をひそめながら読み始める。
『レナード様』
『都合のいい「理解ある婚約者」は、本日をもって廃業いたしました』
『これからはどうぞ、ご自身の力で周囲の理解を得てください』
『婚約は解消させていただきます』
『どうかお幸せに』
短い文章だった。
レナードはしばらく黙る。
そして――。
笑った。
「何だこれは」
執事が目を瞬く。
「レナード様?」
「子供じみた嫌がらせだな」
セリアも首を傾げる。
「どういうことですの?」
「嫉妬だろう」
レナードは肩をすくめた。
「側妃の件が気に入らなかったんだ」
執事が恐る恐る言う。
「ですが、本当に行方が――」
「放っておけ」
レナードはパンを口へ運んだ。
「どうせ数日で戻ってくる」
「しかし」
「エレノアには行く場所などない」
当然のように言った。
「実家もこちら側だ」
「友人も少ない」
「治療院だって王都にしかない」
ナイフでソーセージを切る。
「結局は戻るしかない」
セリアが安心したように笑う。
「そうですわよね」
「もちろんだ」
レナードは紅茶を飲んだ。
「少し頭を冷やせば理解する」
またその言葉だった。
理解する。
エレノアはいつも理解してくれた。
だから今回もそうだと思い込んでいた。
数日後。
王都の社交界に衝撃が走った。
レナードが正式にセリアとの婚約を発表したのである。
豪華な婚約披露会。
大広間にはシャンデリアが輝く。
楽団の演奏。
香水の香り。
豪華な料理。
ローストビーフ。
白身魚のムニエル。
苺のタルト。
貴族たちは表面上は祝福していた。
だが内心ではざわついていた。
「エレノア様は?」
「婚約解消されたそうよ」
「まさか」
「王国最高の治療術師なのに」
「惜しいわね」
そんな声があちこちから聞こえる。
レナードは気にしなかった。
むしろ満足していた。
美しいセリアを伴い、人々の祝福を受ける。
自分の選択は正しい。
そう信じて疑わなかった。
宴の途中。
騎士団長が近づいてきた。
「レナード」
「何でしょう」
「エレノア殿は本当に戻らないのか?」
「そのうち戻りますよ」
「……そうか」
騎士団長は複雑そうな顔をした。
実は討伐任務の負傷者たちが、エレノアの不在を嘆いていたのだ。
彼女ほど優秀な治療師はいない。
誰もが知っている。
だがレナードだけが理解していなかった。
それから一か月。
二か月。
三か月。
エレノアは戻らなかった。
最初は余裕だったレナードも、少しずつ苛立ち始める。
「まだ連絡はないのか」
「ありません」
「治療院は?」
「退職届が提出されております」
「実家は?」
「連絡を受けていないそうです」
「馬鹿な」
レナードは机を叩いた。
書類が散らばる。
どうしてだ。
なぜ戻らない。
理解するはずだろう。
その頃。
はるか北方。
アルベルト辺境伯領。
雪解け水が流れる美しい谷間で、エレノアは新しい生活を始めていた。
朝日が山々を照らしている。
鳥のさえずり。
澄んだ空気。
遠くに見える牧草地。
治療院の窓を開けると、草の香りが流れ込んできた。
「院長先生!」
村の子供たちが手を振る。
エレノアは笑顔で振り返した。
「おはよう」
「今日も来たよ!」
「元気ね」
その笑顔は王都にいた頃よりずっと自然だった。
そこへアルベルト辺境伯が現れる。
大柄な体格。
日に焼けた顔。
いかにも辺境の領主らしい男だった。
「生活はどうですか」
「とても快適です」
「それは良かった」
アルベルトは安心したように笑う。
「何か困ったことはありませんか」
「ありません」
エレノアは青空を見上げた。
本当に何もなかった。
誰かの機嫌を取る必要もない。
理不尽な要求もない。
理解を強要されることもない。
胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。
それだけで幸せだった。
一方その頃。
王都ではまだ誰も知らない。
自分たちが失ったものの大きさを。
そしてレナードもまだ理解していない。
エレノアは家出した婚約者ではない。
本気で人生から自分を切り捨てたのだということを。
その事実に気づく日は、もう少し先だった。