作品タイトル不明
第3話 本日をもって廃業いたします
第3話 本日をもって廃業いたします
人が本当に諦めた時、泣いたり怒ったりするものではないのだと、エレノアは知った。
むしろ驚くほど静かになる。
心の中を吹き荒れていた嵐が過ぎ去り、何もかもが遠く見える。
あの日、レナードから側妃の話を聞いて以来、エレノアは一度も泣いていなかった。
王都は春爛漫だった。
窓の外では白い木蓮が咲き、庭師たちが花壇を整えている。
柔らかな朝日が差し込む食堂で、エレノアは焼きたてのクロワッサンをちぎった。
バターの香りが広がる。
苺のジャムを少しだけ塗り、口へ運ぶ。
温かい紅茶を飲む。
いつもと変わらない朝だった。
ただ一つ違うことがある。
彼女の中で、レナードとの未来が完全に終わっていた。
その日の午後、レナードから呼び出しがあった。
いつものように彼の屋敷へ向かう。
応接室へ入ると、レナードは機嫌が良さそうだった。
窓辺にはセリアもいる。
新しいドレスの採寸をしているらしく、鮮やかな桃色の生地が広げられていた。
「エレノア」
「はい」
「先日の件だが」
レナードは満足そうに笑う。
「君が理解を示してくれて助かった」
「そうですか」
「やはり君は賢い女性だ」
エレノアは微笑んだ。
「ええ、理解しました」
その言葉を聞いてレナードは心底安心した顔になる。
「そうだろう?」
「はい」
理解した。
本当に理解したのだ。
レナードが自分を愛していないことも。
都合のいい存在として扱っていることも。
今後もずっと変わらないことも。
だからこそ、もう期待しない。
レナードは勝手に満足していた。
「婚約式の日程もそのままで進める」
「承知しました」
「側妃宮の予算も王家へ申請した」
「そうですか」
「セリアも喜んでいる」
セリアが照れたように微笑む。
「ありがとうございます、エレノア様」
「お気になさらず」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
怒りも憎しみもなかった。
興味がなくなっていた。
その夜。
エレノアは自室で帳簿を開いていた。
机の上には蝋燭。
羽ペン。
通帳代わりの魔導記録板。
彼女は治療師として働いてきた。
貴族女性としては珍しく、自分自身の収入を持っている。
王立治療院からの報酬。
貴族からの謝礼。
研究協力金。
十年以上かけて積み上げた資産だった。
「全部こちらへ」
彼女は静かに指示を書き込む。
婚約後に共同管理となっていた口座から、自分名義の口座へ資産を移した。
合法的な範囲で。
完璧に。
後から文句を言われないように。
数字が移動していく。
それを見ても何の感慨もなかった。
まるで治療記録を整理するような気分だった。
翌日。
今度は婚約関係の書類を整理する。
婚約契約書。
持参金契約。
財産管理契約。
全部写しを取る。
必要な証拠も保管する。
もし揉めた時のためだった。
エレノアは治療師である前に貴族だった。
こういう争いがどうなるか知っている。
感情で動く者ほど負ける。
だから淡々と進めた。
三日後。
実家へ帰る。
伯爵邸の応接室は昔と変わらず豪華だった。
大理石の暖炉。
絨毯。
金の装飾。
けれど不思議と懐かしさは感じなかった。
父親は開口一番言った。
「レナード様を困らせるな」
予想通りだった。
エレノアは静かに紅茶を置く。
「何のことでしょう」
「側妃の件だ」
「王侯貴族では珍しくない」
「お前が理解するべきだ」
その言葉を聞いて少しだけ笑いそうになった。
理解。
またその言葉だった。
父も同じなのだ。
「そうですね」
「分かったなら良い」
父は満足そうだった。
エレノアは立ち上がる。
「では失礼いたします」
「もう帰るのか?」
「ええ」
父は気づかない。
これが最後になるかもしれないことを。
屋敷を出る時、振り返らなかった。
夕暮れの空が赤かった。
風は暖かい。
それなのに心は妙に軽かった。
数日後。
エレノアは古い書類箱を開いていた。
その中から一通の手紙を取り出す。
差出人はアルベルト辺境伯。
五年前のものだった。
北方で魔獣災害が起きた時、重傷を負ったアルベルトをエレノアが救ったのだ。
その後も何度か礼状が届いていた。
最後の手紙にはこう書かれている。
『もし困ったことがあれば、いつでも北へ来てほしい。あなたは我が領地の恩人だ』
エレノアはしばらくその文字を見つめた。
そして便箋を取り出す。
羽ペンにインクをつける。
さらさらと文字を書き始めた。
内容は簡潔だった。
『ご厚意に甘えてもよろしいでしょうか』
返事は一週間後に届いた。
分厚い封筒だった。
封を開く。
中には手紙が三枚入っていた。
読み進めるうちに、エレノアは目を丸くする。
『もちろん歓迎する』
『治療院長の席を用意する』
『住宅も準備する』
『好きなだけ滞在してほしい』
『いや、できれば永住してほしい』
最後の一文で思わず吹き出した。
五年ぶりに自然な笑いが漏れた。
「ふふっ……」
マリアが驚いて顔を上げる。
「お嬢様?」
「ごめんなさい」
「どうかなさいましたか?」
エレノアは手紙を胸に抱いた。
「助かりそうなの」
「え?」
「ようやく出口が見つかったわ」
窓の外では春風が庭を渡っていた。
白い花びらが舞う。
遠くで小鳥が鳴いている。
世界は変わらない。
何も変わらない。
それなのにエレノアには違って見えた。
牢獄の扉が開いた人間には、空気の匂いさえ違って感じるのだろう。
その夜。
彼女は一冊の手帳を開いた。
そこには長年の予定が書かれている。
婚約式。
舞踏会。
王都での社交予定。
全部。
全部。
消していった。
最後のページに新しい予定を書く。
『北方辺境領へ出発』
そしてその下に、小さく一行だけ書き足した。
『理解ある婚約者、本日をもって廃業』
エレノアは微笑む。
今まで散々理解してきた。
我慢もした。
耐えてきた。
けれどもう終わりだ。
これから先は、自分の人生を生きる。
蝋燭の炎が静かに揺れた。
その光は、長い夜の終わりを告げる灯火のようだった。