軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 深すぎる谷、そして決定打

第2話 深すぎる谷、そして決定打

王都に春の訪れを告げる鐘が鳴る頃、王国北部の街道沿いで大規模な魔獣討伐が行われた。

討伐隊は勝利したものの、多くの騎士が負傷して帰還した。

その知らせを受け、エレノアは夜明け前から治療院へ向かっていた。

薄い灰色の治癒術師用ローブの上から白い外套を羽織り、長い金髪をひとつに束ねる。朝露に濡れた石畳を急ぎながら、胸の奥には不安が広がっていた。

負傷者が多い。

昨日の時点でそう聞いていた。

治療院へ到着すると、予想以上の惨状が広がっていた。

入口には血の匂いが漂い、廊下には担架が並んでいる。

うめき声。

怒鳴り声。

治療師たちの慌ただしい足音。

まるで戦場だった。

「エレノア様!」

助手の治療師が駆け寄る。

「第三騎士団だけで三十名以上です!」

「重傷者から順番に診察します」

「はい!」

エレノアはすぐに治療を始めた。

肩を深く裂かれた騎士。

肋骨を折った騎士。

毒爪で傷口が腐敗しかけている騎士。

治癒魔法は万能ではない。

魔力にも限界がある。

だからこそ優先順位が必要だった。

命の危険がある者から救う。

それが治療師の常識だった。

昼過ぎになった頃だった。

治療院の扉が勢いよく開いた。

「レナード様!」

誰かが声を上げる。

現れたのは婚約者のレナードだった。

そして当然のようにセリアも一緒だった。

淡い桃色のドレス。

高価なレースの手袋。

磨き上げられた靴。

戦場帰りの治療院にはまるで似つかわしくない姿だった。

エレノアは嫌な予感がした。

「どうしてこちらへ?」

レナードは当然のように答えた。

「セリアが怪我をした」

セリアは眉を下げる。

「とても痛いんですの……」

差し出された右手を見て、エレノアは言葉を失った。

人差し指の先に、小さな擦り傷があるだけだった。

血もほとんど出ていない。

子供が転んだ時にもできる程度の傷だった。

「……これを?」

「治療してくれ」

「今は重傷者が大勢います」

エレノアは静かに答えた。

「後ほど処置いたします」

レナードの顔が曇った。

「後回しか?」

「命に関わる患者を優先しております」

「セリアは痛がっている」

その時だった。

近くのベッドから苦しそうな声が上がる。

「ぐっ……!」

胸を裂かれた若い騎士だった。

包帯が赤く染まっている。

明らかに危険な状態だった。

エレノアはそちらへ向かおうとした。

しかしレナードが腕を掴んだ。

「先にセリアだ」

周囲が静まり返る。

誰も何も言えない。

エレノアは騎士の青白い顔を見た。

そしてセリアの小さな傷を見た。

胸の奥で何かが重く沈んだ。

「……分かりました」

治癒魔法をかける。

淡い光が傷を包む。

たった数秒で傷は消えた。

セリアは満足そうに微笑む。

「ありがとうございます」

その間にも重傷者たちは苦しんでいた。

エレノアは急いで治療へ戻った。

それから何時間経っただろう。

夕方。

夜。

深夜。

食事をする時間もなかった。

机の端に置かれたパンは固くなり、スープは冷めている。

それでも手を止めるわけにはいかなかった。

「次の患者を!」

「こちらです!」

「魔力回復薬を!」

視界が霞む。

頭が痛い。

指先が震える。

それでも治療を続けた。

ようやく最後の患者を診終えた頃には、窓の外が白み始めていた。

丸一日近く働いていたのだ。

立ち上がろうとした瞬間、足元が揺れた。

「エレノア様!」

助手が悲鳴を上げる。

膝から崩れ落ちそうになる。

魔力枯渇だった。

過度の治療による消耗。

身体中が鉛のように重い。

その時だった。

背後から聞き慣れた声がした。

「何をしている」

レナードだった。

なぜまだいるのか。

エレノアはぼんやり思った。

「少し休ませてください……」

「休む?」

レナードは眉をひそめる。

「騎士団長夫人になる人間がその程度で音を上げるのか」

助手が思わず声を上げる。

「ですがエレノア様は一睡も――」

「黙れ」

レナードは冷たく言った。

「婚約者としての義務を果たしているだけだ」

そして当然のように続ける。

「君なら分かってくれるはずだ」

エレノアは床を見つめた。

分かってくれる。

またその言葉だった。

何年も聞いてきた。

何百回も。

何千回も。

まるで呪文みたいに。

君なら分かってくれる。

君なら我慢できる。

君なら耐えられる。

君なら許してくれる。

その言葉の裏にある本当の意味を、エレノアはようやく理解していた。

――お前が我慢しろ。

ただそれだけだった。

数日後。

少し体調が回復したエレノアは、婚約者の屋敷へ呼び出されていた。

執務室にはレナードのほかに数人の文官がいる。

机の上には書類の山。

羽ペン。

蝋印。

地図。

何かの準備をしているようだった。

「何の書類ですか?」

エレノアが尋ねると、文官たちが気まずそうに顔を見合わせた。

レナードは隠す様子もなく答えた。

「側妃宮の改装計画だ」

「……側妃宮?」

「セリアを迎えるためにな」

エレノアは一瞬理解できなかった。

沈黙が落ちる。

レナードは続ける。

「君が正妃だ」

「セリアが側妃」

「両方いれば丸く収まる」

まるで良い考えを思いついた子供のような顔だった。

「彼女は愛している」

「だが君は優秀だ」

「治療術も使える」

「家柄も申し分ない」

「だから二人とも必要なんだ」

エレノアは黙っていた。

レナードは満足そうに頷く。

「君なら理解してくれるだろう?」

その瞬間だった。

不思議なことに怒りは湧かなかった。

悲しみもなかった。

涙も出ない。

胸の奥がしんと静まり返る。

冬の湖のように。

何も感じない。

ただ一つだけ、はっきり思った。

ああ。

もう無理だ。

本当に無理だ。

この人は一生変わらない。

自分が何を奪っているか理解しない。

理解しようともしない。

そして一生「理解してくれ」と言い続ける。

エレノアは静かに微笑んだ。

「そうですか」

「話が早くて助かる」

レナードは安心したように笑う。

完全に勘違いしていた。

その笑顔を見ながら、エレノアは心の中でひとつの扉を閉めた。

長年かけて築いた愛情。

期待。

信頼。

未来への夢。

全部。

静かに。

音もなく。

そして彼女は初めて考える。

どうやって、この人のいない人生を生きようかと。

春の風が窓から吹き込んでいた。

暖かな風だった。

けれどエレノアにとってそれは、長い冬の終わりを告げる風だった。