作品タイトル不明
第1話 『理解ある婚約者』の限界
第1話 『理解ある婚約者』の限界
王都の春は華やかだった。
石畳の大通りには色とりどりの花が並び、貴族たちの馬車が行き交う。暖かな風が吹くたびに、街路樹の若葉がさわさわと揺れ、花屋からは甘い香りが漂っていた。
けれどエレノアの胸は重かった。
今日は彼女の二十歳の誕生日だった。
本来なら婚約者のレナードと食事をし、ささやかでも祝福の言葉をもらえるはずの日だった。
だが朝から届いた手紙には、そんな言葉は一文字もなかった。
『昼過ぎにセリアと買い物へ行く。同行してくれ』
それだけだった。
エレノアは手紙を畳み、小さく息を吐いた。
鏡の前に立つ。
淡い水色のドレスを身につけている。誕生日だから少しだけ明るい色を選んだ。胸元には亡き母の形見である小さな真珠のペンダント。
侍女のマリアが心配そうに尋ねる。
「お嬢様、本当に行かれるのですか」
「婚約者の呼び出しですもの」
「ですが今日は……」
マリアは言葉を飲み込んだ。
誕生日だと言いたいのだろう。
エレノアは無理に微笑んだ。
「大丈夫よ」
そう言いながら、自分でも何が大丈夫なのかわからなかった。
待ち合わせ場所の高級商店街へ着くと、レナードはすでにいた。
長身で整った顔立ち。
濃紺の礼装はよく似合っている。
その腕には金色の髪を揺らした若い令嬢が絡みついていた。
セリアだった。
「あら、エレノア様。遅かったですわね」
「申し訳ありません」
「ねえレナード様、わたくしこのお店も見たいですし、あちらのお店も気になりますの」
「もちろんだ、セリア」
レナードは優しく笑った。
エレノアには向けられない笑顔だった。
セリアは伯爵家の娘だが、最近になってレナードと急接近した女性だった。
誰が見ても恋人同士にしか見えない。
それなのに婚約者はエレノアのまま。
周囲は不思議そうな顔をするが、誰も何も言わない。
レナードは当然のように言った。
「エレノア、今日はセリアの案内役を頼む」
「私がですか?」
「君は王都の店に詳しいだろう」
「ですが……」
「セリアは繊細なんだ」
レナードは困ったように笑う。
「身分が高く心に余裕のある君が面倒を見てやってくれ」
そしていつもの言葉を口にした。
「君は理解してくれるだろう?」
エレノアは黙った。
理解。
またその言葉だ。
レナードは何かを押し付けるたびにその言葉を使う。
理解してくれるだろう。
君ならわかるだろう。
君は賢いから。
君は大人だから。
君は優しいから。
そう言われるたびに、我慢する役目はいつもエレノアだった。
セリアは宝石店へ入るなり歓声を上げた。
「まあ! 素敵!」
店内には銀の燭台が輝き、ガラスケースの中には宝石が並んでいる。
ルビー。
サファイア。
エメラルド。
照明を受けて虹色に煌めいていた。
セリアは次々と商品を手に取る。
「これも素敵ですわ」
「それも買おう」
「こちらも」
「もちろんだ」
レナードは迷いなく頷いた。
そのたびに店員が笑顔になる。
エレノアは黙って後ろに立っていた。
まるで侍女だった。
昼になると三人は高級レストランへ向かった。
白いクロスのかかった席。
焼きたてのパンの香り。
香草の効いたローストチキン。
野菜のスープ。
冷えた白ワイン。
どれも美味しそうだった。
しかし食事中も会話は二人だけだった。
「レナード様、このスープ美味しいですわ」
「気に入ったならよかった」
「今度は海辺へ連れて行ってくださいませ」
「もちろんだ」
二人は楽しそうに笑う。
エレノアは静かにスープを口へ運んだ。
温かいはずなのに味がよくわからない。
窓の外では春の日差しが輝いていた。
それなのに心だけが冷えていく。
食事の終盤。
レナードが小さな箱を取り出した。
セリアが目を輝かせる。
「まあ!」
「君に贈る」
箱の中にはダイヤモンドのネックレスが入っていた。
店内の光を受けてきらきらと輝く。
「嬉しいです!」
セリアは思わずレナードに抱きついた。
店内から温かな笑い声が漏れる。
誰もがお似合いの恋人同士だと思っただろう。
エレノアだけが黙っていた。
今日は自分の誕生日だった。
そういえば一言も祝われていない。
一輪の花もない。
カードもない。
おめでとうの言葉すらない。
レナードはそんな彼女を見て首を傾げた。
「どうした?」
「……いえ」
「不満そうな顔をしているな」
「していません」
「君は本当に面倒だな」
レナードはため息をついた。
「セリアに嫉妬しているのか?」
「違います」
「だったら理解してくれ」
まただ。
「彼女は繊細なんだ」
「……」
「君は強い。だから少しくらい我慢できるだろう?」
エレノアはレナードの顔を見た。
真剣にそう思っている顔だった。
悪気すらない。
自分がどれほど残酷なことを言っているのか気づいていない。
その瞬間だった。
胸の奥で何かが音を立てた。
ピシッ――。
氷に亀裂が入るような音。
長い年月をかけて積み上げてきた何かが壊れた音。
怒りではなかった。
悲しみでもない。
もっと静かなものだった。
諦め。
期待の死。
エレノアは初めて理解した。
この人は変わらない。
何を言っても。
どれだけ尽くしても。
どれほど我慢しても。
永遠に。
帰り道。
夕暮れの王都が茜色に染まっていた。
馬車の窓から見える街並みは美しかった。
パン屋から漂う香ばしい匂い。
子どもたちの笑い声。
花売りの呼び声。
生き生きとした世界。
なのに心は不思議なくらい静かだった。
屋敷へ戻るとマリアが出迎えた。
「お帰りなさいませ」
エレノアは微笑んだ。
「ただいま」
その顔を見て、マリアは言葉を失った。
泣いているわけではない。
怒っているわけでもない。
けれど何かが決定的に変わっていた。
エレノアは自室へ戻る。
机の上には自分で買った小さな苺のタルトが置かれていた。
マリアが用意してくれたのだろう。
赤い苺が宝石のように並んでいる。
エレノアは一口食べた。
甘かった。
少し酸っぱかった。
そして、なぜか涙がこぼれた。
「お嬢様……」
後ろでマリアが震える声を出す。
エレノアは静かに首を振った。
「大丈夫よ」
今度の言葉は本当だった。
なぜなら。
今日。
ようやく理解したからだ。
理解し続けるのは、もうやめようと。
その小さな決意は、まだ誰にも気づかれていなかった。
続く。第2話では、エレノアがさらに理不尽な要求を押し付けられ、「理解すること」が美徳ではなく搾取の道具になっている現実に直面していきます。