作品タイトル不明
第百九十一話 孫子の使い方
信雄は甲冑の袖を揺らしながら、
唐突に子供のように不満を漏らした。
「なぁ、秀政殿。
俺は全く戦をしておらん。
いくら総大将とはいえ物足りん」
(うぐぐ……そういうことをすぐに言う。
いや、待て。
新宮と勝浦を押さえた以上、紀北は大したことがないな。
木本衆に波田須衆、二木島衆だったな。
……まぁ、いいか。
一度、白鬼の実力を測っておきたいこともある)
秀政は軽く息を吐き、覚悟を決めた。
「承知しました。
柴垣殿へ使いを出すのはやめましょう。
このまま三介様と俺も陸兵に合流します。
九鬼殿、勝浦の守備を頼む。
一部の船で先回りして、
湾口を押さえて圧をかけてくれ。
それだけで良い」
九鬼は膝をつき、短く答えた。
「はっ!」
信雄は満面の笑みで拳を握る。
「良いのか?よしよし腕がなるわ!」
秀政はその勢いに押されぬよう、静かに頷いた。
「では上陸しましょう」
*
上陸後、勝浦砦には入らず、
あえて一里ほど離れた野に陣を敷いた。
潮風が草を揺らし、遠くで波が砕ける音が響く。
信雄は不思議そうに首を傾げた。
「軍議はよいのじゃが、なぜ勝浦砦で行わんのだ?」
(お前らを近づけないと約束したからだっ!)
秀政は表情を崩さず、さらりと答える。
「戦とは本来、このように野で行うもの。
気も昂りましょう」
信雄は単純に感化され、胸を叩いた。
「おぅ、確かに!昂ってきたわ!」
秀政は地図を広げ、軍議を始める。
「さて、では陣割りを決めます。
まず三介様は柴垣様と共に、
親衛隊三百と堺鉄砲衆八百を率いてください」
信雄は眉をひそめた。
「ん?俺が白鬼を率いぬのか?」
秀政は即座に頭を下げる。
「すみませぬ、白鬼は俺が率います。
ですが白鬼はどちらかというと華やかさの部隊。
いざ戦となった場合、堺鉄砲衆の猛攻ほど苛烈な物はありませぬ。
此度は三介様の武威を示す戦。
堺鉄砲衆の方が良うございます」
信雄は一転して満足げに頷いた。
「なるほど!確かに確かに!さすが秀政殿じゃ!」
(ほっ……白鬼隊を傷物にされてなるものか!)
秀政は続ける。
「林殿には本隊主力の農兵千を率いてもらいます。
林殿の武があれば農兵とて猛者になりましょう」
林は豪快に笑った。
「おう!芋粥様、お任せあれ!腕がなります!」
「そして俺ですが、白鬼百と農兵五百を率います。
ですが、今回は信雄様の軍が主力となります。
三介様、柴垣殿、林殿、お任せしますぞ!」
「「は」」
「今回は九鬼は少し休ませます。
大部分を勝浦に止め、
一部を使って湾を遠巻きに封鎖する程度とします。
なにせ三介様の威がある以上、
九鬼殿の力は此度必要ありませんからな」
(九鬼には“俺の”勝浦を信雄の金を使って守らせたい)
信雄は満足げに頷く。
「うむ!」
秀政は敵勢を説明し始めた。
「攻める順ですが、木本衆、波田須衆、二木島衆とします。
我が伊賀忍びに物見させてありますが、
木本衆は数にして八百ほどでしょう。
地侍、漁民兵が五百ほどです。
木本砦には三百余り籠っているようです」
信雄は目を丸くした。
「さすが秀政殿、いつのまに調べておったのだ!」
(いや、いつの間にも何も。
常に裏で諜報は欠かせぬだろうが……)
秀政は淡々と続ける。
「波田須衆は五百ほどです。
崖にある砦を守る二百の兵。
山道を封鎖する工兵百五十。
夜襲を得意とした輩です。
百は伏兵しておりましょう」
柴垣は眉を寄せ、信雄と林をちらりと見た。
「敵は夜襲を得意としますか……。少々厄介ですな」
秀政は最後の勢力を示す。
「二木島衆は四百ほどです。
漁村に住み、砦は持ちませぬ。
三百ほどの小舟による水軍がおります。
村を守るは百ほど。
海に逃げられると少々厄介ですな。
九鬼に海から圧をかけさせましょう」
林は鼻で笑った。
「まどろっこしい!
百の守備兵ごと村を火の海にしてやれば終わりじゃ!」
信雄も乗る。
「おぉ!それは良い!一気に負けを悟って降ってこようぞ!」
秀政は一瞬固まった。
「は?……ぎょ、御意」
(……お前ら、攻め取った後に統治する気はあるのか?)
秀政は軍議を締めた。
「軍議は以上ですが、よろしいですか?」
信雄は立ち上がり、刀の柄を叩いた。
「よし、構わぬ!いざ出陣!」
*
しばらく進むと、空気が変わった。
木々の間に潜む気配が濃くなり、
兵たちの足取りも自然と慎重になる。
ここから先が木本衆の領域――
物見によれば、すでに五百の兵が丘の上で万全の構えを取っているという。
秀政は馬上から前方を見据え、信雄へ声をかけた。
「三介様、敵が前方の丘に陣取っております。
ここは……」
しかし信雄は手を上げ、秀政の言葉を遮った。
「まぁ、待ってくれ、秀政殿。
俺だって戦が出来るということを見せてやろう」
(は?いや、まぁいいけど……)
秀政は内心で頭を抱えつつも、表情は崩さない。
「承知しました。
ですが、敵は丘に竹盾と土塁を作って待ち構えております。
鉄砲がやや使いづらい状況です。
敵を潰走させた後、鉄砲で止めを刺すとよろしいかと」
信雄は胸を張り、得意げに言い放つ。
「孫子に曰く!
“迂を以て直と為す”とある!
つまり遠回りすれば真正面から攻めるより早いのだ!」
傍に控える柴垣は心の中でそっと突っ込んだ。
(いや……“遠回りに見える道が実は近道”という意味で……
遠回りすれば良いという意味では……)
信雄は勢いそのままに命じる。
「よし!林!
あの丘をぐるっと回って背後から攻めよ!
遠回りこそ最短の勝利だ!」
林は困惑しながらも返事をする。
「は、はぁ……?」
だが実際には、丘の裏側は断崖絶壁で回り込めなかった。
林隊は右往左往し、息を切らせながら走り回る。
丘の上の木本衆は、まるで猿芝居でも見るかのように静観していた。
信雄は歯噛みし、拳を震わせる。
「うぬぅ、謀ったな、木本め!
我らの疲労を誘ったか!
孫子に曰く!
“兵は詭道なり”!
つまり、奇声を上げて敵を欺けば勝てるのだ!」
柴垣は再び心の中で呟く。
(いや……奇声を上げることでは……)
信雄は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「よし!皆の者!
奇声を上げて突撃すれば敵は驚いて逃げる!
うおおおおおおおおお!!」
農兵たちも勢いに飲まれ、叫びながら丘へ駆け上がる。
「うおおおおおおおおお!!」
しかし木本衆は冷静そのもの。
竹盾を下ろし、槍を構え、ただ待つ。
丘を駆け上がる側が不利なのは言うまでもない。
林隊に一定の被害が出たところで、
奇声作戦は自然消滅した。
戻ってきた林隊の疲労と苛立ちを見て、
信雄の堪忍袋も限界に達する。
「構わん!火力で押し切れ!
堺鉄砲隊、放てぇ!!」
乾いた轟音が連続し、白煙が風に流れる。
派手さだけは天下一品だった。
林は目を輝かせて叫ぶ。
「おぉ、さすが三介様。なんという火力!
なんという暴力!
これぞ織田の真髄!」
だが実際には、竹盾と林に阻まれ、被害はほとんど出ていない。
信雄は満足げに頷いた。
「随分弱らせたようだな!
林、突撃せよ!」
「おう!」
林隊が再び突撃する。
秀政はその様子を見て、深いため息をついた。
「凄まじいな……稚拙すぎる」
その横で、霞が無表情のまま控えていた。
「殿、いかがなさいますか?」
秀政は決断する。
「うむ、あまり邪魔はしたくないが、
これでは農兵に余分な死者がでる。
霞、少々手伝ってやれ。
お前の隊の二十五名だけでよい。
カラコールを試してみよ」
霞は馬上で姿勢を正し、声を張る。
「は!白妙隊前へ!
カラコールで敵伍長を射抜け!
凛殿、氷花隊は替えの鉄砲の準備をお願いいたします!」
凛は静かに頷いた。
「心得ました!」
白妙隊は馬を走らせ、丘の手前まで一気に駆ける。
急停止し、火縄を確認しながら鉄砲を構える。
火種はまだ生きている。
霞が短く命じた。
「よし、撃てる」
白妙隊が敵伍長へ狙いを定める。
「放てぇ!」
ずどどーん!
乾いた音が連続し、敵伍長が跳ねるように倒れた。
半数が命中し、頭を撃ち抜かれていた。
白妙隊はすぐに馬首を返し、敵が状況を理解する前に撤退する。
その背後から第二波が駆け出していた。
氷花隊は戻ってきた第一波に、あらかじめ詰め替えておいた鉄砲を素早く手渡す。
第二波もまた敵伍長を撃ち抜き、同じように撤退した。
秀政は満足げに頷いた。
「カラコールだ。完成しているな。
まるで渦の様に回転しながら敵を狙撃している。
命中率はまだまだだが、通用するぞ」
さすがに敵も状況を把握し、
伍長たちは林の陰に隠れた。
カラコールはここで終了となるが、
すでに複数の伍が伍長を失い、
機能不全に陥っていた。
林隊の突撃は、混乱した敵をそのまま飲み込んだ。
信雄は馬上で大声を上げる。
「おぉうおぉう!見よ、見よ!
我が軍は圧倒的じゃ!」
興奮する信雄を横目に、
秀政は静かに満足げに頷いた。
(白鬼を実戦で試せたのは重畳重畳!)
こうして木本衆は押し破られ、信雄の勝利となった。