軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百九十話 既成事実

新宮城の一室。

九鬼と朧が秀政の前に座る。

秀政は地図と書状を前に、静かに息を整えた。

「……朧」

「はい」

「杏を呼べ」

朧が軽く手を振ると、

白鬼騎馬鉄砲隊の一人、 杏(あん) が音もなく現れた。

年若いが、伊賀の血を引く俊敏な女忍びだ。

彼女は雪音隊の主力の一人であり、

馬術と早駆けにかけては白鬼随一である。

「杏、参りました」

秀政は書状を手に取り、杏へ差し出した。

「これを岐阜の殿――

信長様へ急ぎ届けよ。

内容は“勝浦は芋粥にしか降らぬ”という既成事実だ。

調略はこれから朧が行う。

だが、殿のお許しの有無で成否が大きく変わる。

三介様が新宮で行った処遇を正直に記した。

『勝浦湊衆と熊野別当は芋粥であれば恭順の意を示した。

ゆえに勝浦一万石の飛び地領有を、芋粥へお認めいただきたい』

そう記した。恭順の意を示すのが後か先かの違い。

些末な問題だ」

杏は深く頭を下げる。

「はっ。必ずや」

秀政はさらに続けた。

「殿は必ずお許しになる。

許さねば熊野が火の海になると、殿は分かっておられる。

ゆえにその認状を一刻も早く持ち帰れ」

「御意」

秀政は杏の肩に手を置いた。

「紀伊の山道は険しい。

だが、お前なら三日で岐阜へ着ける。

帰りも三日。

往復六日。

……できるか?」

杏は迷いなく頷いた。

「六日で戻ります」

「頼んだぞ。

朧も勝浦に向かわせる。

六日後の正午、

勝浦湊・那智川河口の浜市で待ち合わせるのだ」

杏は一礼し、白い狩衣を翻して駆け出した。

「朧、お前も今から行け。勝浦を調略した後、

湊衆に頼んで熊野別当の調略に移れ」

「は!」

「調略が成立したら、勝浦湊の突端・湊番所に、

芋粥の旗、抱き沢潟を目立つよういくつも掲げよ。

それをもって三介様を説得して、

無血にて芋粥が入港する」

「はい」

「どれくらいかかる?」

「そうですね。

勝浦湊衆の調略に二日、

熊野別当を勝浦に呼びだしてもらって一日、

熊野別当を調略するのに一日。

四日頂ければ調略致しまする」

「杏の六日と調略の四日。合わせて十日か。」

九鬼が途中で口を挟む。

「ならば三介様へ水軍の出陣は十日後と伝えます。

大筒弾や鉄砲弾の補充に時間がかかるので。

三介様が急かして来たらこう言ってやります。

拙者は構わぬが、派手な海戦が出来んくなるぞ!と」

「それはいいな。

あの坊っちゃんのことだ。

なら我慢して待つので、

早く積み込めと言うだろう」

秀政が満足そうに頷くと、

朧が微笑しながら、さらに策を補強する。

「殿、陸路の林阿呆大夫殿が少々心配です。

せっかくゆるりと水軍が進んでも陸路から、

勝浦を荒らされては……。

一つ策がありますが、この際、

新宮周りの国人を攻めさせてはいかがでしょうか?

勝浦を殿が頂くのであれば、その分、三介様の石高を稼がねばなりませぬ」

秀政も顎を撫でながら頷く。

「なるほど……それは妙案だな。

阿須賀周辺の国人を平定させるか。

佐野の小城や三輪崎の土豪砦、

熊野川沿いの小砦もちょうど良いな。

合わせて千石程度であるが、

あの脳筋ならば何も考えずに喜んで攻めるだろう」

「脳筋?」

朧がそこに引っかかる。

「脳味噌まで筋肉で出来ている馬鹿侍……という意味だ」

微笑を浮かべたまま、けらけらと朧が笑う。

「あら……まさに!まさに!

殿もなかなか辛辣なことを、ほほほ」

(いや、お前も先ほど林阿呆大夫とか言っていただろうが……)

とりあえず気にせず、秀政が呟く。

「ただなぁ、華がないといった林を叱りつけた手前、

今更国人を攻めろというのも……」

「殿、案はあります。

雫を使いましょう。

あの子は無邪気に騒ぐのが好きです。

三介様とも随分仲良ぉなりました。

雫が三介様の前でこう申すのです。

『華が足りぬ。

三介様には華々しさがお似合いだ。

三介様の御威光あらば、

佐野の城や三輪崎の砦、熊野川の砦は

一槍で落ちましょうぞ、華々しや華々しや』

きっと三介様はこの十日の準備期間中に、

脳筋殿に告げられるでしょう

華が足りぬと。

さすれば脳筋殿が暴走して、寄り道するやもしれません」

「……想像が付くな。

三介様と雫が手に手を取って飛び跳ねていそうだ。

もし常時に林がそのような暴挙を素でやるならば、

かなり腹立たしいが、今回に限ってはそれが好ましいな。

よし、雫を使って林を遠回しに嵌めるぞ」

「御意。ではさて、私は勝浦に向かいます」

「うむ、頼むぞ」

(白鬼たちも意外と癖があるのか……)

岐阜城・上段の間。

信長は焚かれた香の中で、静かに書状を開いた。

祐筆が控え、

杏は膝をついて息を整えている。

信長の目が細くなる。

信長は書状を読み終えると、

ふっと笑った。

「……やはり芋よ。

三介の尻拭いはこの男だな」

祐筆が控えめに尋ねる。

「いかがいたしましょうか?」

信長は即答した。

「許す」

祐筆が筆を走らせる。

信長は独り言のように続けた。

「勝浦は海の要。

熊野は信仰の要。

どちらも火の海にしてはならぬ。

三介では無理だ。

九鬼はまだ信用できぬ。

ならば――芋が最適よ。

あ奴めには鉄砲千挺と北陸の褒美をまだやっておらぬしな」

祐筆が認状を差し出す。

信長は花押を押し、杏へ渡した。

「芋に伝えよ。

勝浦一万石、芋粥に任す。

ただし、紀伊の切り取りは忘れるな。

三介を紀伊大名とせよ」

杏は深く頭を下げた。

「ははっ!」

そして再び、

矢のように岐阜城を飛び出した。

杏が新宮を発って六日後。

勝浦湊。

那智川が海へ注ぐ河口の浜は、

朝から活気に満ちていた。

漁船が並び、魚を捌く音、商人の呼び声、

潮の匂いが混ざり合う。

その喧騒の中――

白狩衣を脱ぎ、

熊野詣の付き添いの女旅人に化けた朧が、

人波をすり抜けて歩いていた。

柔らかな微笑を浮かべ、

誰にも警戒されず、

市場で商品を物色する。

やがて、那智川の河口に近い船着き場の端で、

一人の女が馬を降りる姿が見えた。

紺の木綿の短い着物、脚絆に草鞋。

馬方の娘に化けた杏だ。

市場の商品をきょろきょろとよそ見しながら、

朧は静かに近づいていく。

ドン。

朧が杏にぶつかり、

その隙に朧の懐に認状が差し込まれる。

「申し訳ございませぬ。

大丈夫でしたか?」

「こちらこそよそ見をしておりました」

双方、頭を下げて再び離れていく。

そして杏が新宮に向けて馬で駆け出したのを見届けた朧は、

微笑みながら湊衆の惣中へ向かった。

朧が念のため、認状を検める。

「勝浦一万石之事、備前守へ任預可申候。

熊野之儀も、相違無く保護致すべく候。

三介へは、余計之沙汰致させ間敷候。

紀伊南東之儀、一切備前守之計らいに任す。

信長(花押)」

朧は深く息を吐いた。

(……これで勝浦は殿のもの)

そして秀政から預かった書状も取り出す。

「勝浦湊衆並びに熊野別当へ申し遣す。

若し両者、芋粥方へ降参・帰順仕るの上は、

左の条々、相違無く履行仕るべく候。

一、勝浦惣中は旧例の通り存続、干渉仕間敷候。

二、関銭・船役は従前の通り、但し芋粥方は無税に候。

三、湊衆は芋粥家臣として遇し、三介様の軍勢は寄せ付け申す間敷候。

四、海上安全は九鬼水軍を以て厳重に相守らせ候。

一、熊野三山神領は相違無く保護仕るべく候。

二、神官任免へは一切不介入に候。

三、諸儀式は妨げ申す間敷候。

四、熊野水軍は芋粥方にて保護し、独立を保証仕るべく候。

五、芋粥方は領主に非ず、唯だ保護者たるべく候。

六、湊之利益の一部を別当へ還付仕るべく候。

右、少しも違乱無く履行仕るべく候。

芋粥備前守秀政」

朧は微笑みながらこの二通を示すだけで、

勝浦湊衆と熊野別当は呆気なくも調略に落ちた。

林が目論見通り陸路で国人と戯れている内に、

勝浦は芋粥のものとなる。

(あらあら、思ったより時間が余ってしまったわ。

太地や三尾にも声をかけてみようかしら?

殿はお喜び下さるでしょうか)

朧はその足で太地と三尾も訪問する。

勝浦が寝返った背景と、

芋粥の伝手があれば降る事も許されると知ると、

太地と三尾もこれが最後の機会とばかりに、

朧に誘いに乗った。

恐怖に震える二勢力にとって、

朧の柔らかい態度が功を奏した。

太地と三尾は血を見る事なく、

信雄領に組み込まれた。

九鬼水軍が勝浦に到着すると

勝浦には芋粥の旗が立ち並んでいた。

小舟に乗る朧を回収して、秀政は報告を受ける。

あまりのトントン拍子に流石に笑みが溢れる。

それを見て信雄も笑顔で近づいてきた。

「ん?あれは秀政殿の旗ではないか?」

「勝浦は殿の仰せで芋粥が統治することになりました。

三介様にはもっと相応しい地をご用意いたします」

「おぉ。そうか!

秀政殿が言うなら間違いない!

では次じゃ次!」

「太地と三尾は三介様のご威光により、

戦わずして降りました」

「そうか!

俺も王者の貫禄が出てきたか!

よしよし!では次は紀北沿岸じゃな!」

秀政が頷く。

「は!このまま紀北に向かいましょう。

柴垣殿には直接、紀北に向かって貰いましょう。

使いを出します」

「うむ!任せたぞ!」

(こいつの軍を勝浦に寄せる訳にはいかん。

兵は不憫だが、休ませずに紀北まで走らせる。

……胃の痛みが不思議と消えたわ)